酒場から酒場へ 第3回

乙姫

南條竹則

 お酒を聞こし召した甘木先生には、一つの癖があった。
 上品なバーのマダム、きれいな給仕さんなど、気に入った女の人との別れ際、手にキスをするのだ。
 恭しく身をかがめて御婦人の繊手せんしゅを右手に取り、持ち上げて、手の甲に軽くくちづける。先生が御機嫌良く酔った時、わたしは何度それを見たか知れない。
 騎士道的なこの挨拶を女性たちは嫌がっていなかった。明らかに喜んでいた人も、わたしの知る限り一人あった。
「乙姫」の 女将おかみである。


 戦後の焼跡時代から続いた居酒屋文化のうちで、ここ十四、五年の間に影をひそめてしまったものは少なくないが、その一つに泡盛酒場がある。
 わたしが言うのは、当節の沖縄料理屋とはちがう、もっと地味な種類の飲み屋のことだ。
 その典型的な姿を一つ描出してみるならば――まずそこは小さい店で、「琉球泡盛」の提灯が下がっている。店の中には黒ずんだ泡盛の大瓶おおがめがあり、壁にはこの酒の由来を記した説明書きや、沖縄の伝統衣裳を着た娘さんが写っているポスター。
 ミミガーなどの簡単なつまみはあるが、飯を食う場所ではなく、客は酒を楽しんで、 ながちりせずに帰って行く。
 盛り場にはこういう店がたいてい一軒か二軒あって、わたしもあちこちでお世話になった。中でも忘れられないのは、浅草千束通りの「乙姫」である。
 ここは角店かどみせで、右隣はパチンコ屋――ここでいつも便所を借りた――千束通りをはさんで向かいに日本屋という文具屋があり、わきの道を入ると、すぐ近くに曙湯という銭湯がある。
 薄緑の板を張った「乙姫」の建物は割合と大きかったが、店自体は小さく、鉤の手のカウンターにせいぜい六、七人が坐れるだけだ。
 浅草の店らしく、三社祭やほおずき市のポスターが貼ってあるが、およそ飾り気というものはなく、クバの葉や とうの編笠が壁にかかっているけれども、古くて真っ黒になっている。
 壮観と言うべきは、奥の畳の間にゴロゴロと積み重なっている泡盛の古瓶だった。 からのもあれば、まだ口を切っていないのもあり、今にも化けそうな感じがする。
 カウンターの内側には年老としとった女将――おばちゃんと呼ばせてもらおう――がデンと構え、自慢の煮込みの大鍋を掻きまわしている。グツグツと煮える鍋に入っているのは牛のすじ肉と味噌と牛乳だけで*、 しおからくはないが、味は濃厚だった。おばちゃんは時々牛乳を足していた。
 ここのつまみは煮込みのほかに、ミミガー、スヌイ、チャンプル、クーブイリチといった沖縄料理。それに生姜、油揚、梅干などが置いてあった。
「乙姫」には二つの決まりがあった。
 一つは、泡盛を飲むなら必ずラムネをとることである。
 飲み方は、ラムネで割っても良いし、べつべつに飲んでも良い。とにかく、両者を一緒に飲むのが身体に良いとおばちゃんは信じていた。
「泡盛は酔うために飲むんじゃありませんから。健康のために飲むんですからネ」
 というのが口癖だった。
 もう一つの決まりは、二杯までしか飲ませないことである。
 このことはべつに珍しくない。昔から泡盛に限らず焼酎の店でも、二杯までとか三杯までというところが多かった。客の足腰が立たなくなるのを おそれてである。
 しかし、以上の二つはいわば明文法で、それ以外に不文律があった。まったく、気難しい飲み屋というのは東京にけして珍しくないが、この「乙姫」ほど気難しい――というより、商売をしたがらない店をあまり知らない。
 まず、酒が入っている客はお断り。
 泡盛と焼酎の区別がつかない客もお断り。
 実際、わたしはこんな場面を目撃したことがある。
 ある日の夕方、立派な背広を着た三人の初老の紳士が 暖簾のれんをくぐった。初めての人だったとみえて、おばちゃんはけげんそうに面を上げた。
「あの、焼酎を飲みたいんですが――」
 と先に入って来た客が言ったとたん、
「帰ってください」
 とおばちゃんはピシャリ!
 こんなことを書くと焼酎屋さんが気を悪くするかもしれないが、どうぞ御勘弁願いたい。おばちゃんの頭の中には、現在のように洗練された上等な焼酎ではなく、わたしなどの 父親おやの世代が鼻をつまんで飲んだという、戦後の粗悪品があったのである。
 店はその頃からずってやっているけれども、開店以来酒は変えていないとおばちゃんは自慢していた。その泡盛はよく練れた美味しい酒で、焼跡時代に出まわった安物の焼酎と較べれば、天地の差があっただろう。
「乙姫」には普通の泡盛のほかに、値段が五割ほど高い「 古酒クース」があり、こちらは本当に素晴らしかった。
白酒パイチュウもそうだが、泡盛も極上品は、味や香りが云々という世界を遠く離れて、ただ 天鵞絨びろうどのような柔らかさにつつまれた熱と光が身体に入って来る。まさに命を飲むよう――魂が洗われるようだ。
 おばちゃんによると、この古酒はたいそうな貴重品で、とてもこんな値段で出せるものではない。店のコケンに関わるから置いているけれども、お 酉様とりさまの時以外は売りたくないのだった。
 だから、わたしもふだん一人で行く時は、ふつうの泡盛を飲んだ。
 わたしにはそれで十分だった。
 泡盛は涼しい酒だ。蒸し暑くなって来た頃、開け放した扉の外に夕暮れの景色を見ながら飲む味は格別だった。


 古酒を売りたがらないおばちゃんと酒飲みたちとの間に、さまざまな駆引があったことを思い出す。
 おばちゃんの頑固さは、さながらそびえ立つ壁である。その壁を乗り越えようと試みた人は数知れず、ほとんどが敗れ去った。
 その一人に 玉那覇たまなはさんがいた。
 今はもう再開発で消えてしまった新大久保の「彦左小路」という横丁を御記憶の方もおいでだろう。山手線の線路に近くて、入口の電飾が車窓から見えた。ここに「玉那覇」という店があった。那覇の泡盛「瑞穂」を置いて、アシテビチやソーキそばなど、うまい沖縄料理を食べさせた。
 御主人の玉那覇さんに「乙姫」の古酒の話をしたら、「自分もそんな古酒を味わってみたいです」というので、一緒に行ったのである。
 一杯目はもちろん、普通の泡盛をとった。
「乙姫」の酒は何という銘柄なのか、わたしは知らなかったが、 玉那覇たまなはさんは思いあたるところがあるらしく、「これは××さんの酒だな」と言って、うなずいていた。
 そして二杯目。
 正直なこの人は「古酒を飲ませていただけませんか」と切り出したが、相手にされない。「遠くからわざわざ来たんです」と言っても、駄目。おばちゃんは一筋縄ではゆかない。

 玉那覇さんに次いで、小岩の「楊州飯店」のおやじさんも挑戦した。
 台湾料理の名コックであるこのおやじさんは酒好きで、自分の店においてある紹興酒や白酒も良い物だった。
 酒飲みのつくる料理は下戸の料理と一味ちがうという。和菓子もそうだという説がある。もちろん、一概には言えないだろうが、「楊州飯店」のおやじさんを見ていると納得できる気がした。この人の料理には、酒徒の心に響くうまさがあった。
 そのおやじさんは泡盛に目がなく、一度、小岩の北口にある琉球料理屋へ連れて行ってくれたことがある。
 お返しに、わたしは二、三の友人と連れ立って、おやじさんを「乙姫」へ案内した。
 おやじさんもまず一杯目を黙って飲む。気に入ったのか気に入らないのか判然としない。と、そのうち突然横腹を押さえて、言った。
「南條さん。じつはワタシ、癌で余命いくばくもないんダ」
「ええっ!」
 こちらは真に受けて驚いたが、おやじさんは からになった杯を横向けにして、
「でも、古酒を飲んだら、治るかもしれない」
 とおばちゃんに言う。
 何てクサい芝居をするんだろう、とわたしたちは呆れた。このオヤジ、そんなにまでして、良い酒が飲みたいのか――
 しかし、捨身の演技も通じなかった。
 おばちゃんは横目に見て、
「フン」
 と鼻で笑ったきりであった。


 かくのごとく勇士たちが 死屍しかばねの山を築く中にあって、ひとり甘木先生だけは例外だったのである。
「おばちゃアん、古酒を一杯」
 先生は甘えるような声を出して、空のグラスを差し出す。
「しようがありませんね。ふっふっふ――」
 おばちゃんは眼を細めて笑いながら、古酒の入ったカラカラを取り出し、先生の杯に ぐ。こういう時は、わたしたちも古酒にありつける。しかも禁断の三杯目まで許された。
 帰り際に先生は例のやり方でおばちゃんの手を取り、手の甲へくちづけする。
 おばちゃんの目はますます細く、糸のようになった。

 

* しかし、一時は馬のすじ肉を加えて、独特のトロミを出していた。

 

 (第3回 了)

 

 第2回
第4回  
酒場から酒場へ

今はない酒場、幻の居酒屋……。酒飲みにとって、かつて訪ねた店の面影はいつまでも消えることなく脳裏に刻まれている。思えばここ四半世紀、味のある居酒屋は次々に姿を消してしまった。在りし日の酒場に思いを馳せながら綴る、南條流「酒飲みの履歴書」。

関連書籍

人生はうしろ向きに

プロフィール

南條竹則
1958年東京生まれ。作家。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。学習院大学講師。『酒仙』(新潮社)で第5回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞受賞。他の著書に『吾輩は猫画家である ルイス・ウェイン伝』、『人生はうしろ向きに』(集英社新書)、『ドリトル先生アフリカへ行く』(集英社)、『怪奇三昧 英国恐怖小説の世界』(小学館)、『中華料理秘話 泥鰌地獄と龍虎鳳』(ちくま文庫)など。訳書に『タブスおばあさんと三匹のおはなし』(集英社)など多数。
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