新宿駅の東南、現在ルミネ2があるあたりの昔の様子を知っている人は、もう年輩者の仲間入りをしつつあるだろう。
その場所をもう少しくわしくいうと、甲州街道より北側で、山手線の内側の、線路のほとりということになる。一九八〇年代の末、すなわち昭和の終わり頃に大規模な再開発が行われるまで、このあたりは新宿でもとくに怪しい一画のひとつだった。
そこに初めて足を踏み入れた時、わたしは大学生だった。
夕方、たしか紀伊國屋で本を買った帰り、新宿西口へ出ようと思って連絡通路を探したけれども、よくわからない。ウロウロしているうち、駅ビルの左側に細い路地を見つけて、ここを通れば西口へ抜けられるかもしれないと思った。
入ってゆくと、そこは何やら薄汚く、地面が湿っており、ドブ板が張ってあった。少し歩いて左の方へ折れ曲がると、バラックのようなみすぼらしい小さい家が並んでいる一帯に出た。
そこかしこに「ヌードスタジオ」という看板がある。スタジオというが、あんな小さな家で写真でも撮るのだろうか? 一体、何をするところなのだろうと訝しんだ。
そうした家の一軒の入口に女の人が立っていた。
「眼鏡のおにいさん、寄ってらっしゃい」
わたしにそう声をかけて、おいでおいでをする。
とんだところへ来てしまったと思った。わき目もふらずにズンズン歩いて行くと、やがて道は右折左折して、食べ物屋が連なっている、もう少し普通のところへ出た。
何軒か中華屋があった。「白龍」という看板が出ていたのを憶えている。居酒屋やスナックもあった。
その間を通り抜けて、やっと広い道へ出たと思ったら、そこは南口、甲州街道の高架の下だった。
あの一画に何か名前がついていたかどうか知らない。今、仮に「曖昧地帯」とでも呼んでおこう。ここは戦後の焼跡時代から少し危険なところだったらしく、わたしが見たのは、いわばその最後の光景だった。
年輩の読者の方は、「シンナー遊び」という言葉を御存知だろう。
一九六十年代の末から七十年代にかけて、ちょうど大阪万博が開かれた頃、ビニール袋にシンナーを入れて吸う若者たちがあらわれ、社会問題になった。かれらは新宿西口でよくシンナーを吸っていたと記憶するが、「曖昧地帯」では八十年代に入ってもなお、時代遅れのこの〝遊び〟をする若者が屯しているのを見たことがある。
そのうち再開発が始まり、ヌードスタジオなどは早々に姿を消したが、いくつかの飲食店は最後までへばりつくように残っていた。その中に二軒、わたしの好きな店があった。
一軒は、「日本晴」という立ち飲みの居酒屋である。
当時の新宿南口から、長い長い石段をつたって土手を下りてゆくと、下りきったところに公衆便所があり、そのすぐ横が「曖昧地帯」の入口だった。「日本晴」はそこの角にあって、薄暗い、くすんだ感じの店だったが、安い値段で鯉コクを食べさせた。
もう一軒愛用した店は、「日本晴」の隣の隣くらいにあった「台北飯店」である。
ここを最初に教えてくれたのは友人のO君だった。
彼とわたしは飲み友達だが、その頃は腸詰友達だったといっても過言ではない。わたしはO君に渋谷の「麗郷」の腸詰を教え、O君はわたしに小岩の「楊州飯店」の腸詰を教えてくれた。そして年中、腸詰やイカ団子をつまみに酒を飲んでいた。
ある日、O君が昼間この近所を通ったら、店先に手づくりの腸詰らしいものがぶら下がっている。
「あれはちょっと気になります」
とわたしに報告した。
それでさっそく行ってみると、果たして軒下に腸詰が下がっている。その時は営業時間でなかったが、後日、夕方早目に出直した。
「台北飯店」は、昔東京によくあった安い台湾料理屋の典型だった。
簡単なつまみと麺類、ビーフンがあり、数種類の中国酒を飲ませる。つまみには自家製腸詰をはじめ、豚の舌、耳、ガツ、足、尻尾。それに冷やしトマトやニンニクの芽、ゲソ炒めなどがあった。
酒は「永昌源」の白乾児に高粱酒、天津の名酒・五加皮、台湾紹興酒などである。「永昌源」の白乾児はもう製造していないが、度数の低い一種の高粱酒で、大陸帰りの日本人が戦後つくりはじめた和製中国酒である。安かったから、愛飲する左党も多かった。
たしか二度目か三度目にここへ来た時、わたしは不思議な人物と出会った。
白乾児を飲みながら、骨つきの豚足を手づかみで食べていると、
「そう。豚足はそうして食べるのが一番美味しい。中国ではそうして食べます」
隣の席にいた紳士が、そう話しかけて来たのである。
その人は中年で、眼鏡をかけていた。言葉に訛りがあったから、最初中国人かと思ったけれど、話を聞くと大陸帰りの日本人らしい。
「君は何をしている? 学生ですか? どんな勉強をするんです?」
といろいろ問いかける。
わたしは一々真面目に答えた。
「白乾児を飲んでいるのか」
と紳士はわたしのグラスを見て、
「中国では、よくこれを飲む。これはいい酒です。でも、わたしは懐が寂しいのでね――」
そういって、テーブルの下に隠したガラス壜をチラと見せた。それには焼酎か何か透明な液体が入っていた。察するに、この人は最初の一杯だけ店の酒を注文し、あとは持ち込んだ酒をこっそりグラスに注ぎ足して、飲んでいたのである。俄然ルンペン紳士といった風格が滲み出てきた。いや、ルンペンでは可哀想だーー豚足紳士にしておこう。
店員はまったく知らん顔をしている。あるいは常連客だったのかもしれない。
「君は中々大した物になるよ。勉強しなさい」
と紳士はおごそかに予言した。
「しかし、もっと日光にあたらなくちゃいけない。そして野菜を食べなさい」
わたしはしばらくこの人の相手をして、しまいに名刺をもらい、先に店を出た。
話相手の欲しい酒飲みが恰好な若者を見つけて、良い加減におだてて、オモチャにする――自分自身年をとると、そういう事情がわかってくるが、当時のわたしは世間知らずの坊やだったから、「この人は本当に人を見る目があるのかもしれない、俺は出世するかもしれないぞ」と思って、目の前が明るくなった。というのも、その時分、ある事情があって、日々鬱々としていたからである。
わたしがもし立志伝中の人物で、これをきっかけに一念発起し、大統領か億万長者か宗教の開祖にでもなったとしたら、くだんの豚足紳士は、さだめし天のお告げを伝えに来た使者という格になろう。
思うに、そんな使者ならば誰にでもなれる。こちらが立派な人間である必要はなく、ただ偶然のめぐり合わせで、偉人の卵を励ませば良いのだから。自分もいつか知らないうちに天の使者となるかもしれない、などと考えると、世の中は捨てたものではない。
その後、友人たちと「台北飯店」へ行ったのは、たいてい新宿で遅くまで飲み、帰れなくなった時だった。
なにしろ、この店は朝の五時まで開いている。だから、梯子酒の終着駅であり、始発電車を待つ場所でもあった。
店は深夜でも割合に混んでおり、活発で愛想の良いおねえさんがうまく客をさばいていた。店の主人は背の高い、銀髪の、おっとりした人で、隅の方でよく眠っていた。暇な時は時々、機械で豚の腸に肉を詰めていた。
ここへ寄るまでにはさんざん飲み食いをしているのだが、それでも若かったから、すぐ小腹が空いて来た。
例の腸詰は、しっとりしたソーセージである。豚の尻尾はよそではあまり出すところがなかった。醤油味で煮てあり、辣醤をちょっとつけると美味い。
今もよく憶えているのは、韮と豚足の炒めだ。これは柔らかい、べろべろした豚足と韮をサッと炒めるのだ。
もう一つ、忘れ難いのは、「砂肝焼きビーフン」である。
この店の調理場は壁の向こうにあって、狭い窓から料理や皿の出し入れをした。
向こう側には、いかにも台湾のおやじさんらしい、布袋様のようにでっぷりした年輩の料理人がいた。焼きビーフンを注文すると、ゴウゴウという地獄の焔のような猛火でさっと炒める。火加減が絶妙なので、砂肝は歯ごたえが良く、ビーフンも米の粉だけからつくる昔の純粋なビーフンだったから、舌触りがホロホロとして、じつに良い。
こんな物を食べながら酒をチビチビやっていると、そのうちに夜が明ける。
「さあ、行くか――」
勘定をして、重い足を引きずり、白んでゆく空を見上げながら、長い長い石段を上って、南口に出る。
駅の照明は無機質に明るい。
まだ人はまばらである。
この店もついに立ち退きになって、歌舞伎町に新しい店を出したが、そこはすぐにやめてしまった。
それから二十数年が過ぎ、ある晩、仕事帰りに「調布銀座」というところを歩いていたら、同じ名前の看板が出ている。入ってみると、何と、昔の「台北飯店」の御主人の一族がやっている店だった。
もう白乾児は置いていなかったが、砂肝焼きビーフンをつくってくれた。それをつまみに老酒を飲んでいると、昔の調理場の、あのゴウゴウという焔を思い出した。
(第9回 了)
今はない酒場、幻の居酒屋……。酒飲みにとって、かつて訪ねた店の面影はいつまでも消えることなく脳裏に刻まれている。思えばここ四半世紀、味のある居酒屋は次々に姿を消してしまった。在りし日の酒場に思いを馳せながら綴る、南條流「酒飲みの履歴書」。