酒場から酒場へ 第10回

「大力」の幽霊

南條竹則

 客も亭主も時代物の、たっぷりサビのついた下町の居酒屋などでは、行くたびに挨拶していた常連客が急に鬼籍(きせき)()ることも珍しくない。
 そういう人の一人に田中さんがいた。
 この人は「大力(だいりき)」というもつ焼き屋の常連だった。そして何と、幽霊になったのである。


「大力」は日比谷線南千住駅の近く、「仲通り」という商店街の入口にあった。
 間口の狭い(うなぎ)の寝床で、隣にはやはり間口の狭い「千代田鮨」という鮨屋があった。
 昔ながらのもつ焼き屋には小洒落(こじゃれ)た内装の店などあまりない。「大力」もそのクチだったが、飾り気がないのを通り越して、殺風景というに近かった。仮普請のような、とでも言おうか。
 天井が高く、床はコンクリ。片方の壁にはベニヤ板が張ってあり、もう片方の、調理場の側は黒灰色の砂壁である。一列のカウンターの奥に便所があるが、そこへはなぜか踏み段を五、六段上がって行かなければならない。その左側に、カーテンを引いて隠した更衣室のようなところがある。
 店内の飾りといえば、毎年警察からもらうカレンダーと——ここの常連客には刑事さんもいた——誰やらの色紙が一枚貼ってあるくらいだ。そういえば、あるお客がここでヒネった「もつ焼きの煙の奥に昭和かな」という句の短冊もあった。
 飲み物はおさだまりの酒とビールとチューハイで、看板料理(かんばん)は豚のもつ焼き——タン、レバ、シロ、カシラの四種類である。
 あたりまえのことだが、もつは新鮮でなければ美味(うま)くない。一度冷凍してしまったものは格段に味が落ちるから、上等なもつ焼き屋ではその朝さばいた豚の肉を使う。「大力」でも、毎日(ひる)過ぎに業者がとどける新鮮な肉を、開店までの間に、旦那がせっせと串に刺していた。
 その手間ひまのかかった串が一本七十円。入口のところで、旦那が備長炭で焼く。新潟美人のおかみさんが奥にいて、焼き物以外のつまみをつくる。
 この店はお通しが美味かった。まずそれを食べながら一杯目のチューハイを飲んで、今日は何を焼いてもらおうかと考える。
 わたしはミッシリした歯ごたえのカシラが好きで、いつも真っ先に頼んだ。それからシロかタン塩。つくねもある。レバは焼き物より刺身がうまかった(生食が禁止になる前の話である)。牛のレバより色鮮やかなピンクの豚レバ刺しは、甘く淡白な味で、お客にたいそう人気があった。


「大力」の旦那は長年建築関係の仕事をしたあと、この店を始めたそうだが、若い頃はさぞ豪快な人だったろう。きっぷが良く、度量があって、洒落が通じた。わたしが通っていた頃、すでに八十歳を越えていたが、度の強い眼鏡の向こうの目はキラキラ光っていて、声にも張りがあった。
「おれは死なネエんだよ」
 とある時、わたしたちに言ったことがある。
「そういうことになってるんだ。ほら」
 といって見せてくれた名刺には、何と、「×原不可死」と印刷してある。
 不可死(ふかし)さん——なるほど、こりゃア死なない。
 この名前をつけたのはお祖父(じい)さんで、地元——福島・相馬——の名だたる暴れん坊だったそうだ。たぶん、最初のお孫さんを病気か何かで亡くしたのだろう。それで旦那が生まれた時は、
「オレの孫は死んでもらっちゃ困る」
 といって、こんな名前をつけた。
 おかげで、旦那は学校へ行くと、
「おい、シヌベカラズ! シヌベカラズ!」
 と先生に呼ばれたそうだ。
 わたしは「大力」へはたいてい早い時間に行って、シヌベカラズ氏の前に坐り、チューハイを飲みながら話を聞いた。昔話に耳傾けてくれる人は当節少ないとかで、旦那は数十年前の故郷・相馬のことを喜んで語ったのである。
 よく出て来る話題のひとつは食べ物だった。
 旦那はおいしい豚のもつを客に供するくせに、自分はほとんど肉を食べない。酒を飲む時のつまみは魚だった。それは相馬の美味い魚を食べて育ったからである。
「昔、相馬の鮨屋は(まぐろ)なんか置いてなかったよ」
 と旦那は語る。
「へえ、どうしてですかね?」
 とたずねると、
「誰も食わねえからさ。その朝とれたばっかりの活きの()い魚があるのに、何を好きこのんで冷凍した魚なんか食わなきゃいけないんだって、みんな言ってたのさ」
「魚はどんなものがあったんです?」
「平目や鰈をよく食ったね。刺身もいいけど、おれは鰈を焼いて醤油をかけて食った。美味かったねえ。それから、ホッキ貝がよくとれて、ジャガイモと一緒に煮つけにしたねえ」
 海産物の話以外にも、セリの塩漬け、アケビの漬け物、正月料理にこしらえた山鳩(やまばと)のおすまし、さてはどぶろく——と故郷の味覚の話題は尽きなかった。


 旦那は若い頃、猟をした。
 狐も撃って、奥さんの襟巻にした。
 狐を撃った時は「こんこん祭」というのをしたというから、面白い。この祭は何をするかというと、たいていは(うさぎ)肉の鍋を食べて飲んだのだそうだ。死んだ狐のかわりに好物の兎を食べてやり、供養したということだろう。狐はやはり霊獣だから、おろそかにしないのである。
 思うに、相馬あたりの狐は、見上げ入道のようなものに化けたらしい。
 旦那のお祖母(ばあ)さんが語った話に、「狐が化けたら、上を向いてはいけない」という。上を向くと、その人はどんどん仰向けになって、しまいに倒れてしまう。狐はその喉に食らいつくというのだ。ということは、相手が思わず見上げるような、背の高い物に化けた理屈である。
 旦那はさすがに化かされたことはなかった。
「狐はきれいだよ」
 とよく言っていた。
 月夜に狐が野原を走ると、パッパッと光る。それが何とも言えず美しいのだそうだ。
「あれは唾が光るんだっていう説があるんだ。でも、どうだかわからねえね」
「狐火」という言葉はこうした現象から生まれたのかもしれない、とわたしは思った。
 光り物といえば、旦那は(りん)の光や人魂も見たことがあるそうだ。
 墓場の燐はよく光った。
「おい、燐が光ってるぞ」
「どれどれ」
 などといって、見たという。
 人魂の話は生々しい。
 昔、相馬に政治家が塩田をつくった。
 そこは戦時中、滑走路に見えるので米軍機が爆撃したというが、この塩田をつくるために強制労働をさせられた人々がいて、近所に二百人ほどの集落ができた。
 そこで、よく火の玉が飛んだのだという。
 夜、地面より五、六メートル上のところを、赤いオタマジャクシのような火の玉が、顔を上に向けたり下に向けたりして、飛んでゆく。
 それを見ると、ゾッとしたそうである。
 世の中には怪しいものを見るタイプと見ないタイプの人間がいる。こういう話から察するに、旦那は見る方の性質(たち)だったらしい。
 そこで、幽霊の話になる。


「大力」には常連客が何人もいたが、中でも毎日通って来る、この店のヌシのような人が田中さんだった。
 年は五十代くらいで、たしか秋田の出身だったと思う。大柄で、顔は渥美清をふっくらさせたような感じである。板前だったそうだが、あの頃は仕事をしていたのかどうか、わからない。いつも銭湯帰りらしくタオルを腰にブラ下げて来て、夏などは裸足(はだし)草履(ぞうり)ばきだった。
 口数はあまり多くなく、奥の方の決まった席で楽しそうにテレビを見て、二、三杯飲んで帰ってゆく。呑気(のんき)そうな独り者だったが、ある日、部屋で死んでいるのが見つかった。急死だったらしい。
 わたしはそれを聞いて、「ええっ!」と驚いた。
「突然だねえ」
 というと、旦那はうなずき、それからちょっと変な顔をして、
「田中さん、時々来るんだよ」
「どういうこと?」
「今でも来るんだ」
 旦那の話によると、昼間まだ暖簾(のれん)を出さないうちに、田中さんがいつもの姿でスウッと入って来て、店の奥の席に坐ったという。
 もちろん、それは幻で、やがて消えてしまう。けれども、そんなことが何度もあった。
「錯覚よ。毎日来てたから、そんな気がするのよ」
 とおかみさんはいうが、旦那は気味悪がっていた。
 まあ、しかし不思議ではないとわたしは思った。独り者の酒飲みにとって、自分の家は寝る場所にすぎない。本当の家は行きつけの居酒屋である。四十九日の間くらいは、そちらへ帰りたくなるのも当然だ。
 わたしなどもいずれ独りで頓死する可能性が高いが、そうしたら、どこの店に迷って出ようか。いや、その頃の東京はもうどこもかしこもチェーン店ばかりで、迷って出たくなる店などないかもしれない。

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酒場から酒場へ

今はない酒場、幻の居酒屋……。酒飲みにとって、かつて訪ねた店の面影はいつまでも消えることなく脳裏に刻まれている。思えばここ四半世紀、味のある居酒屋は次々に姿を消してしまった。在りし日の酒場に思いを馳せながら綴る、南條流「酒飲みの履歴書」。

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プロフィール

南條竹則
1958年東京生まれ。作家。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。学習院大学講師。『酒仙』(新潮社)で第5回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞受賞。他の著書に『吾輩は猫画家である ルイス・ウェイン伝』、『人生はうしろ向きに』(集英社新書)、『ドリトル先生アフリカへ行く』(集英社)、『怪奇三昧 英国恐怖小説の世界』(小学館)、『中華料理秘話 泥鰌地獄と龍虎鳳』(ちくま文庫)など。訳書に『タブスおばあさんと三匹のおはなし』(集英社)など多数。
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