時代は平成から令和へと移り変わり、今、日本のプロレス界は群雄割拠の時代を迎えている。数え切れないほどの団体が存在し、自称プロレスラーを含めると、何百人という男たちが夜な夜なリングに舞っている。
プロレスといえば、日本プロレス。レスラーといえば力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木……そして屈強・凶悪・個性的であり、大人のファンタジーに彩られた外国人レスラーたちとの死闘がその原点である。
そんなモノクロームに包まれた昭和プロレス草創期の世界を、徳光和夫は実況アナウンサーとして間近で体験、血しぶきが飛ぶ、その激しい闘いの数々を目撃してきた。果たして徳光はリング上、リング外で何を見てきたのだろう。その血と汗と涙が詰まった、徳光のプロレス実況アナウンサー時代を、プロレスに関することだけはやたらと詳しいライター佐々木徹が根掘り葉掘り訊き出し、これまでプロレスマスコミなどが描き忘れていた昭和プロレスの裏面史を後世に残そうというのがこの企画、「徳光和夫の昭和プロレス夜話」である。
さあ、昭和の親父たちがしていたように、テーブルにビールでも置き、あえて部屋の電気を消し、ブラウン管の中の馬場と猪木のBI砲の熱き闘いを見守っていたように、パソコンなどの液晶画面に喰らいついていただきたい!
フリーアナウンサー、徳光和夫のキャリアは実に幅が広い。それは街ゆく人々に「徳光和夫で思い出す番組は?」との問いに様々な答えが返ってくるであろうことでもわかる。
例えば、若い世代なら「AKBグループの総選挙で司会を担当していた人」「24時間テレビでいつも泣いているおじいちゃん」と答える連中が多いはず。新橋あたりにたむろしている40代以上のサラリーマンであれば「そりゃ『ズームイン!』でしょ」といったところか。あるいは「ジャイアンツ親父」だと答える人もいるだろうし、中には「バスで寝ている人ですよね」という答えを口にする人もいると思う。
ただ、そこに「日本プロレスの黄金時代を実況していたアナウンサー」だと答える人は少数……いや、いないかもしれない。いたとしても「バラエティ番組でデストロイヤーに四の字固めをかけられていましたね。あれ、笑ったな」とプロレスの本筋とは違う記憶をなぞる人がいるくらいか。
それが子供の頃よりガチガチのプロレスファンだった僕からすると寂しい。
そう、徳光和夫の豊富な長いキャリアの中で、たった8年間ではあるけども、確かに魑魅魍魎、筋肉を身にまとった“もののふ”たちが闊歩していた、あの日本プロレスの試合実況を担当していた時期があったのだ!
ここで私事になり申し訳ないのだが、僕は幼少の頃、家庭の事情でしばらくの間、祖母の家に預けられていた。その祖母が大のプロレスファンで、テレビの中継が始まると身を乗り出し、食い入るようにブラウン管を見つめていた。おかしかったのは、祖母もレスラーと一緒にリングで闘っているかのようなリアクションを見せていたこと。
ジャイアント馬場が生傷男のディック・ザ・ブルーザーに場外でぶん殴られ吹っ飛ぶと、祖母も「ひぇぇぇ」と叫び、後方にのけぞった。アントニオ猪木が当時のNWA世界ヘビー級チャンピオンだったジン・キニスキーにロープに振られ、カウンターのキッチン・シンクをどてっぱらに食らった時も、祖母は両手でお腹を押さえていた。
そんな祖母と毎晩、一緒の布団で寝ていた僕にとって楽しみだったのが、子守歌のように語り聞かせてくれていた【プロレス夜話】だった。
プロフィール
1941年、東京都生まれ。立教大学卒業後、1963年に日本テレビ入社。熱狂的な長嶋茂雄ファンのためプロ野球中継を希望するも叶わず、プロレス担当に。この時に、当時、日本プロレスのエースだった馬場・猪木と親交を持つ。