徳光和夫の昭和プロレス夜話 第5夜

リングの中と外のアントニオ猪木と力道山の死の真相

徳光和夫

時代は平成から令和へと移り変わり、今、日本のプロレス界は群雄割拠の時代を迎えている。数え切れないほどの団体が存在し、自称プロレスラーを含めると、何百人という男たちが夜な夜なリングに舞っている。

プロレスといえば、日本プロレス。レスラーといえば力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木……そして屈強・凶悪・個性的であり、大人のファンタジーに彩られた外国人レスラーたちとの死闘がその原点である。

そんなモノクロームに包まれた昭和プロレス草創期の世界を、徳光和夫は実況アナウンサーとして間近で体験、血しぶきが飛ぶ、その激しい闘いの数々を目撃してきた。果たして徳光はリング上、リング外で何を見てきたのだろう。

その血と汗と涙が詰まった、徳光のプロレス実況アナウンサー時代を、プロレスに関することだけはやたらと詳しいライター佐々木徹が根掘り葉掘り訊き出し、これまでプロレスマスコミなどが描き忘れていた昭和プロレスの裏面史を後世に残そうというのがこの企画、「徳光和夫の昭和プロレス夜話」である。

さあ、昭和の親父たちがしていたように、テーブルにビールでも置き、あえて部屋の電気を消し、ブラウン管の中の馬場と猪木のBI砲の熱き闘いを見守っていたように、パソコンなどの液晶画面に喰らいついていただきたい!

 

 猪木さんなんですがね。

 

「ええ」

 

 僕らからすると、猪木&徳光コンビといえば、卍固めのネーミング募集、要するに技の名前の募集をリング上で募っていた一連の過程が記憶に残っているのですが。

 

「はいはい。あの卍固め、最初にリング上で見たとき、何が何だかさっぱりわからなかった(笑)。当時、僕が中継担当だったのですけども“さあ、猪木が相手の体に絡みついた。これは……そのぉ……何と言えばよろしいのでしょうか”と言っちゃってね。その実況席での僕の声がレフリーの沖識名さんに聞こえたんでしょうね、わざわざロープ越しに僕に向かって“オクトパス、オクトパス!”と叫んだんですよ。それで僕は“オクトパス・ホールド、オクトパス・ホールド!”って叫んだんです。でも“オクトパス”は何だったっけ? と思っているうちに“あ、そうか、タコだ”となって、言わなきゃいいのに“タコ固めが決まりました”と言っちゃったんですよね(笑)」

 

 そりゃまた、ダサいというか。

 

「陳腐でしょう? それ以降、誰も“タコ固め”と言っていないはずですよ。それでせっかくだから公募で決めようとなり、最終的には卍固めになった、と。いやでも、茶の間の関心を高める、引きつけていくうまい戦略だと思いましたね、技のネーミング募集は」

猪木曰く、最も卍固めをかけやすかったレスラーは「新日本プロレス の常連外国人レスラーだった、マスクド・スーパースター」だったそうな。 長州力も足が短い分、意外とかけやすかったらしい。 写真/宮本厚二

 

 猪木さんとはプライベートで遊びに行ったりもしていたのですか。

 

「馬場さんはね、以前にも言いましたけど、遠征先では外出しませんでしたから、吉村(道明)さんとか、そうですね、猪木さんともちょくちょく飲みに出かけました」

 

 お姉ちゃんのいる店?

 

「もありました(笑)。僕らも若かったですから。というか――」

 

 ええ。

 

「よく飲みに行っていたのはスナック。猪木さん、ナンパ好きなんですよ(笑)」

 

 さすが燃える夜の闘魂!

 

「(笑)。スナックにいい女がいたりすると、すぐにナンパしようって話になり、何回か一緒に女性を口説いたこともありました。例えば“あそこの店のなんとかちゃんってハクいよな。あの娘、首投げ(プロレス界の夜の隠語)してえな”とかね(笑)」

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プロフィール

徳光和夫

1941年、東京都生まれ。立教大学卒業後、1963年に日本テレビ入社。熱狂的な長嶋茂雄ファンのためプロ野球中継を希望するも叶わず、プロレス担当に。この時に、当時、日本プロレスのエースだった馬場・猪木と親交を持つ。

 

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