徳光和夫の昭和プロレス夜話 第5夜

リングの中と外のアントニオ猪木と力道山の死の真相

徳光和夫

 夜の繁華街をリングに、無敵のTI(徳光・猪木)砲が大暴れしていたわけですね。ところで、燃える闘魂はお酒の場でも、若さに任せた燃える野望的な話をしていたのですか。

 

「それは大勢で飲んでいるときです。猪木さんは周囲の目を意識しながら、ときには野望的な話をしていましたよね」

 

 でも、ふたりで飲んでいるときは。

 

「女の話しかしない(笑)」

 

 それはそうと、徳光さんはアントニオ猪木というレスラーをどのように評価していたのでしょう。

 

「評価も何も、凄いレスラーですよ。まず、抜群の身体能力ね。至近距離から対戦相手のアゴめがけてドロップキックを放てるのはとんでもないこと。胸板めがけてならわかるんですが、アゴですよ、アゴ!

 次に、技の魅せ方も日本プロレス時代から超一流でした。常に外国人レスラーと、どのような攻防を繰り広げれば観客は沸くか満足するかを考えていたレスラーだと思います。自分がリング上で魅せるパフォーマンスが、ちゃんとストレートに観客に伝わっているのかを探っていたようにも感じましたね。そういう上昇志向とともに、いかにすればプロレスをより面白くできるかを考えていたところは力道山そっくりだと思います。先輩の清水アナも“力道山と猪木の考え方は同じだ”と言っていましたし。

 ただねえ、猪木さんのようなレスラーは、いつでも自分が主役じゃないと収まらなかったりするのが厄介なんですよねえ。自分に力があるときはいいのですが、少しでも衰えてきたりすると、力の支配が揺らいできて、どうしても周囲が落ち着かなくなりガタガタになる。その点、馬場さんも主役でしたけど、彼はやれといわれれば、きちんと裏方の仕事ができる人でしたから。そこが私からすると、BI砲の大きな違いといいますかね、ふたりの生き方の違いなんでしょうねえ」

ふたりでインターナショナルタッグ選手権を保持していたころ、猪木は 親しい関係者に「入場のとき、なぜ俺が先頭で歩かなきゃいけんだよ」 と文句をいっていたそうだ。その頃から、猪木は猛烈なジェラシーを 馬場に抱いていたともいえる。 写真/宮本厚二

 

 その違いはわかります。

 

「だから、馬場さんはアメリカマット界でも信頼された。それこそ信頼関係の構築で強豪レスラー、人気レスラーを呼べた。その華やかさで日本のプロレスファンを楽しませてくれた。その点、猪木さんは結局、対戦相手は誰でもよかったと思いますよ。無名の外国人レスラーでも、自分が華やかに輝ければよかったはずですし。いや、これは悪口じゃなくてね、馬場さんのように縁の下の力持ちができない、政治的な駆け引きに不向きなレスラーだけど、リング上では誰よりも輝けるってところが、アントニオ猪木の魅力のひとつなのは間違いないです」

 

 そういう意味でも、稀有なレスラーでしたよね。

 

「だって、猪木さんのレスラーとしての華やかさを誰も凌駕できていないでしょ? これまで誰も」

 

 リングに立っているだけで絵になるレスラー、金になるレスラーはいまだにアントニオ猪木ひとりかもしれません。

 

「私もそう思います」

 

 そういえば、若獅子と呼ばれていた頃の猪木さんのファイトって、今現在のプロレスと比較してみると、やけに地味に感じるんですよね。

 

「はいはい」

 

 たたずまいやオーラはハンパなく華やかなのに、実際にリング上で繰り広げられていた攻防は、よっぽどの悪役外国人レスラーが相手ではない限りオーソドックス。いきなり飛んだり跳ねたりせず、基本に忠実なスタイル。というより、道場での練習、スパーリングの攻防をそのまま試合に持ってきたようにも見える。これって逆にすっげえなと思って。もちろん、そのスタイルに文句も言わず、ひたすら熱く真剣に見守っていた当時の観客たちも凄いのですが。

 

「最近、私もソコを強く思うことがあります。リング上にアナウンサーとして上がらせてもらった者として言わせてもらえば、誤解を招くかもしれませんけども、当時のプロレスファン、会場に足を運んでいただいた観客のみなさんは、プロレスに対して本当に真剣でした。いえ、今のプロレスファンが真剣じゃないとは言いませんよ。なんだろうな、真剣の度合いといいますか、観戦する際の気合いの入れ方、真剣度の濃さが違うような気がするんですよ。

 今のように表も裏もわかっていながら熱狂できるファンの方々は高度な楽しみ方をされているな、と感心します。とてもスマートな観戦をしていらっしゃる。プロレスの情報の受け取り方も、スマホやタブレットを駆使してね、いかようにも集められ楽しむことができる。

 しかし、昭和のプロレスファンは裏もわからず、ひたすらテレビ中継に齧りついて攻防に釘付けになり、例えば反則には真剣に怒っていました。当時のみなさんの反則をする悪玉外国人レスラーに向けられていた本気の怒りの表情を思い出すと胸が熱くなります。なにかこう……この国はどんどん豊かになり、あらゆる文化や技術も成熟していきましたけど、日本人は何か大事なもの、大切なもの、決して妥協しちゃいけないことを、あの昭和のやけに薄暗いプロレス会場に置き忘れてしまったんじゃないかとさえ思うことがありますね」

当時の試合会場には背広姿の親父たちが詰めかけ、客席は常にダーク 色に染まっていた。その中でポツポツと赤、ピンクの色をまとった 女性の姿が見受けられ、ほのかに水商売の匂いがした。 写真/宮本厚二

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プロフィール

徳光和夫

1941年、東京都生まれ。立教大学卒業後、1963年に日本テレビ入社。熱狂的な長嶋茂雄ファンのためプロ野球中継を希望するも叶わず、プロレス担当に。この時に、当時、日本プロレスのエースだった馬場・猪木と親交を持つ。

 

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