スポーツウォッシング 第2回

オリンピック、ボクシングで展開された有名なスポーツウォッシング

西村章

アリvsフォアマンの「キンシャサの奇跡」もスポーツウォッシングだった

 チャンピオンのフォアマンは、このとき25歳。40戦40勝(37KO)の成績で、直近の8試合は1ラウンドか2ラウンドで終えている。まさに無敵の王者だった。

 挑戦者のアリは、32歳。ベトナム戦争の徴兵を拒否したことにより統一ヘビー級王座を剥奪され、3年7ヶ月後に復帰。今回の試合に向けてタイトル挑戦権を獲得したものの、復帰後には判定負けを喫したこともあり、すでに全盛期を過ぎたとする見方も少なくなかった。

 試合は、パワーで勝るフォアマンに対し、ロープを背負って徹底的に防戦し続けたアリが8回に逆襲へ転じ、右ストレートでフォアマンをマットに沈めて統一王座に返り咲く、という劇的な結末になった。この試合は、20世紀のあらゆるスポーツの中でも屈指の名勝負として現在に語り継がれている。この試合の模様と関係者の証言を収め、編集作業などに膨大な時間を費やしたドキュメンタリーフィルム『モハメド・アリ かけがえのない日々』は1996年のアカデミーベストドキュメンタリー映画賞や全米映画批評家協会賞を受賞した。また、2001年にウィル・スミスが主役を演じた映画『アリ』では、このフォアマンとの試合がクライマックスシーンとして描かれている。

独裁国家ザイール政府が狙ったスポーツウォッシングは、アリとフォアマンの死力を尽くした名勝負の前には無力だった(写真提供/ユニフォトプレス)

 この試合でアリとフォアマンに支払われたファイトマネーは各500万ドル(当時のレートで約15億円)だったという。この膨大な費用を工面するため、プロモーターのドン・キングはザイールで独裁体制を敷いていたモブツ・セセ・セコ大統領に接近し、イベント開催が国威発揚につながると説得。リビアのカダフィ大佐がファイトマネーの出資に関与したという。ドン・キング自身がこれらについてTVインタビューで発言した映像記録が残されているが、詳細な経緯については明かしていない。トマス・ハウザーによる評伝『モハメド・アリ その生と時代』(岩波書店)では、アリを十代の頃からマッチメークしてきた人物の証言として「着手資金はイギリスのある企業から、残りはザイール政府から出ている」という言葉を引き出している。

 このように、世紀の大イベントを仕掛けたプロモーターたちの水面下の動きを見ると、キンシャサで行われたあの名試合は、じつは(当時はそのような言葉がまだ存在していなかったが)スポーツウォッシングの題材としてザイール側に持ちかけられていた、ということがわかる。

 しかし、このときにアリとフォアマンがザイールで試合をしたことは、モブツ大統領が独裁体制を敷くザイールのイメージアップやプレゼンス向上に、おそらくさほど大きくは寄与しなかったように見える。むしろ、劇的な勝利を収めたアリの名声を高めることにのみ資する結果に終わった、といったほうがいいかもしれない。

 当時と現在のメディア環境の違いやマーケティング・プロモーション技術の成熟度等々の要素も、ある程度は考慮する必要があるかもしれない。だが、なによりも、モハメド・アリという傑出した行動規範を持つ人物像の前では、スポーツウォッシングという手段は効果を発揮せずにかすんでしまい、ふたりのボクサーが繰り広げた試合の凄味のみが観る人々に強い印象を残す結果になった、ということなのだろう。

 モハメド・アリは、数々の華々しい戦績もさることながら、人間としての生きる姿勢が多くの人々に多大な影響を与えた。上掲書『モハメド・アリ その生と時代』は1990年代初期に刊行された書籍だが、そこではジャーナリストのジャック・ニューフィールドのこんな言葉を紹介している。

「激変する時代にあって、彼は個人的に大きな変化を経験し、単に時代を反映していたというより、時代に影響を及ぼしたのだ。そして彼は生き残った。ジョン・ケネディ、ロバート・ケネディ、ジョン・レノン、マーティン・ルーサー・キング、マルコムXなど、六〇年代の他の偉大なヒーローたちはみんな死んだ。エルヴィス・プレスリーやマリリン・モンローのような偶像たちも同じことだ。しかし、アリは生きており、それもただ肉体的に生きているだけではない。彼はあの時代を経験したすべての人の心のなかに生きているのだ」

 モハメド・アリといえば、たとえば多くの人が知るこんな有名なエピソードがある。

 プロに転向する直前のローマオリンピックで金メダルを獲得したアリは、そのメダルを首から提げてあるレストランに入ろうとした。しかし、黒人であるという理由で入店を拒否されてしまう。「メダルなど我々黒人にはなんの役にも立たない」と憤った若き日のアリは、そのメダルを川に投げ捨ててしまったという。

 あまりにも有名な逸話だ。しかし、どうやらこれは事実ではなく、じつはメダルは川に投げ捨てたのではなく、何かの折りにどこかで紛失してしまった、というのが真相のようだ。だが、問題は何が本当の逸話か、ということではない。このようなエピソードが真実味を帯びて人々の間で語られるほどに、モハメド・アリという人物は権威に対する叛骨心と気概を持て生きたアスリートだった、ということが重要なのだ。

 だからこそ、モハメド・アリの人物像に惹かれて世紀の一戦「ランブル・イン・ザ・ジャングル」をノンフィクション作品として上梓したノーマン・メイラーは、その作品『ザ・ファイト』のなかで、ザイールを支配し私物化していたモブツ大統領の資産や個人崇拝を演出する様子などを、刻一刻と対決のときが迫るアリ対フォアマンの後景として、仔細かつ緻密に描写したのだろう。

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プロフィール

西村章

西村章(にしむら あきら)

1964年、兵庫県生まれ。大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。主な著書に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞、第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作『最後の王者MotoGPライダー・青山博一の軌跡』(小学館)、『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』(三栄)などがある。

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