被爆者の子どもに生まれて ルポ 被爆二世 第9回

被爆二世宣言 誇りある青春のために

戦後史⑤
小山 美砂(こやま みさ)

 被爆者の子どもとしてうまれた「被爆二世」の戦後を見つめる本連載。文献を参照しながら、彼らを取り巻く社会の変遷をシリーズで伝えている。
 前回取り上げたのは、1960~70年代における地方自治体の動きだ。被爆二世に対して援護施策を実施することは「人権蹂躙」になりかねないと広島市長が拒絶する一方で、神奈川県川崎市や京都府では、独自の健康診断や医療保障が始まった。その取り組みは各地に広がって、被爆地の自治体も後に続く。
 子どもたちを守ろうとする親世代の運動、行政による施策が広がる中で、ついに当事者たちも声を上げ始めた。年長の被爆二世が20代になった、1970年代初めのことだ。

東京被爆二世の会の呼びかけ

 まずは東京における動きを見ていこう。

 東京都の被爆者組織「東友会」が発行する機関誌『東友』を開いてみる。そこには親と子、それぞれの行動が記録されていた。

 東友会は1971年度の活動方針に「被爆者の子どもの健康を守り、その援助と組織化につとめます」と盛り込み、翌年度からは健康診断と医療費助成の請願を強化している。東友会内部では1970年から「被爆者の子供の調査」について議論されていたとの記録もあり、重要な課題の一つとして認識していた様子がうかがえる。

 1972年10月10日付の『東友』は、「立ち上がる被爆者の子供たち」にスポットを当てた。掲載されたのは、次の文章だ。

 今年、熱い七月の陽ざしのさし込む東友会の事務局に、被爆二世だと名乗る一人の青年が訪れました。新聞に載った被爆者の子供への遺伝の記事にショックを受けながら、被爆二世だからこそほんとうの平和を訴える権利と義務を持っているとめざめた青年でした。一人で悩み、一人で思いわずらい、一人で戦うのではなく、同じ被爆二世と手をとりあって、仲間の力で考え、生きていきたいという彼の出現で同じように悩み、同じように考えていた被爆者の子供たちや胎内被爆者が、事務局の連絡であるいは自らの発意で、一人また一人と東友会に集まってきました。それは現在すでに十五人になり、いよいよ来たる十一月、「東京被爆二世の会」が生まれようとしています。

※原文ママ、以下同

 被爆二世による運動の萌芽だった。

「東京被爆二世の会」はこの年の11月6日に発足し、「被爆二世の独自の要求の実現」と「平和運動への参加」を柱に活動を始めた。1974年5月25日付『東友』には、会員による「『被爆二世の会』のよびかけ」が掲載されている。年長の被爆二世が、20代後半になろうとする時期だった。呼びかけ文は「最近、親の被爆による子供への遺伝的影響が、なんら科学的根拠もないままに誇張され、就職・結婚などの社会生活にまで支障をきたしている」と述べた上で、次のように訴えている。

 堅く口をとざしたままの被爆者、被爆二世もいます。でも、それは、ただ一度のかけがえのない自分の一生をビクビクして日蔭に生きてゆくことをしか意味しないのではないでしょうか。
 自分が被爆二世であることを自覚すること、そして自ら行動することのためには、あらゆる意味で本当に勇気が必要なのです。

 そして、「誇りあるすばらしい青春のために」立ち上がろうと、会への参加を求めていた。

 のびのびとしたまっすぐな呼びかけ文だと、心を打たれた。もちろんここには、被爆二世としての苦悩がにじんでいる。白血病で死去する被爆二世のことが強調して報じられる中で、健康不安に思い悩み、差別に直面するケースもあると明らかにされている。

 しかし、だからといって自らのルーツをひた隠しにするのではなく、被爆二世であることを自覚し、行動していくことが「誇りあるすばらしい青春のために」必要だというのだ。

 つまり、私は被爆二世であるという「宣言」だ。

冊子『被爆二世宣言』の意義

 関東圏の被爆二世が集って1977年に結成した「関東被爆二世連絡協議会(準備会)」も、同年夏に冊子『被爆二世宣言』を刊行し、その名の通りの「宣言」文を掲載している。

 宣言はまず、「私達被爆二世は、自ら『被爆二世』としての自覚を持って生きてきただろうか」と、鋭く問う。差別や偏見へのおそれから、あるいは「健康な自分には関係ない」と考えることが、「被爆二世」としての表明をためらわせてきたが、果たしてこのままでよいのだろうかと投げかける。

 みずからを隠すことで、あるいは、みずからの立場を自覚しないことで何かの良い事があったというのだろうか。そうではなかったはずだ。隠している時にはいつ、明らかになるかという不安におびえねばならない。死ぬまでおびえつづけなければならないというのか。みずからの立場を自覚しないという事は、みずからに起っている事態を認識できないということを意味する。つまり、いざ具体的に差別なり何なりの問題にぶちあたった時に、それに負けてしまうことになるのだ。
 差別や偏見自体を認めようというのか。自分が「被爆二世」を名乗れずにいる間にも、私達の健康破壊はすすみ、差別や偏見も増大していくのだ。また、自分たちの健康に無知であることも、それを無視した労働も、自分自身を痛めつけ、苦しめ、そして仲間をも、同様の苦しみに追いやっていくことになる。
 被爆二世であることで、差別する、偏見をもつ社会こそを変えていかなければならないのだ。(中略)今こそ、私達は、自分たちが何故苦しまねばならないのかを明らかにし、それを解決するために全力をそそがなければならない。(中略)
 この今日を、この明日を生きていくためには、また本当に〝人間として〟生きていくためには、みずからがまず「被爆二世」と名乗ることによってこの現実を打破するためにたちあがらなければならない。
 われらは今ここに宣言する。〝被爆二世である〟ことを。

 どっしりとした幹の上に新緑の若葉が青々と茂るような、力強くもみずみずしい文章だと私は思った。自分と、他者へのまなざしが優しくもある。

 確かに、被爆者の子どもだと表明することが難しい時代にあった。前回記事では、広島市長が、「被爆二世というようなことは口にいたしたくありません」と述べたことを紹介した。親世代が始めた運動にも「そっとしておくべき」という意見が投げかけられてきた。

 黙っていれば、差別されない。隠していれば、余計な不安をうむこともない。そんな考え方があることは承知の上で、大人になろうとする被爆二世たちは集い、自分たちは被爆二世だと「宣言」することから運動をかたちづくっていった。私たちはここにいると「宣言」することが、何より大きな第一歩だった。

「被爆を叫ばせたくない」親たちの葛藤

 このように被爆二世が立ち上がる様を、親世代の被爆者はどのように見つめていたのだろうか。本連載第3回第4回で取り上げた大阪被爆二世の会が発行した冊子に、こんな随筆がある。

「生きていて良かった。」
これは原爆投下三十一年を経た今日、私がつぶやく声であります。
 原子雲の下、父母弟妹の四人を炎の中に失い、有為転変、曲折を経て噛みしめる言葉であります。
 ほっと一息ついた私の前に
二世の若い人たちが原爆問題に真剣に取り組み、原子の解明に努力している姿がある。
 被爆を叫けばしたくない‼
 被爆二世と呼ばしたくない‼…………………と
悲痛の声を上げたくなる。語りたくない一世の過去の傷をえぐられる思いがする。
 あなた方は平和日本に生れ、暖い父母の庇護の許に、暑さ、寒さ、ひもじさ、苦しさ、を味わず学びの園に光り輝く明日があるのになぜ求めて「被爆」の中に飛び込んで行かんとしているのか。

(大阪被爆二世の会『被爆二世 第2号』、1976年 ※原文ママ、以下同)

 筆者は、23歳の時に長崎で被爆した山科和子さん。2024年3月に102歳でこの世を去るまで、大阪を拠点に反核運動を率いた人だ。

 米軍が長崎に原爆を投下した1945年8月9日の2日後、爆心地からわずか350メートルの自宅に戻ると、そこには黒こげになった両親の遺体があった。弟と妹の行方は今もわからない。山科さんは、1974年に結成された「大阪被爆二世の会」が刊行する冊子に、先の文章を寄稿した。そこで、運動に立ち上がる被爆二世を見守りつつも、悩ましく思う心情を顕わにしている。随筆はこう続く。

 私たちがやれなかったことに活路を見出してやり遂げて呉れるかも知れない。新しい道を開いて呉れるかも知れない。
 国家補償につながらぬ私達の運動はむつかしい。その中で真面目に勉強している姿を見ていると暖く見守ってやりたい、又応援してやらねばならぬとも思う。
 相反した矛盾を感じ、どちらか一方を切り捨てるべきだと思いつつもどちらも切り離せず、もどかしさでいらいらしているのが私たちであります。
 すでに雛鳥は巣立った。しかも自力で一歩踏み出した以上、教導するのが一世たる私たちの務ではないであろうか。

(同前)

 多くの被爆二世たちが10~20代となった1970年代。それまでの運動は親世代が「子どもを守る」という意味合いが強かったが、やがて被爆二世自身が担い手となってゆく。

 青春を謳歌するわが子を見て、ほっとした気持ちを抱く被爆者も多かったことだろう。できることなら、「被爆」を忘れて自分の幸せを追い求めてほしい。そう願っているにもかかわらず、子どもたちはあえて「『被爆』の中に飛び込んで行かんとしている」。

 応援してやりたい、でも……。どう受け止めるべきか、悩んだ人も多いはずだ。

 実際に、大阪被爆二世の会では被爆者に冷たく突き放されることもあった。

 自ら「被爆二世」と名乗り出る人の方が少ない時代に、大阪の会では仲間探しを手伝ってもらおうと、大阪に暮らす被爆者が集う団体に協力を呼びかけた。被爆者同士のネットワークを使えば、その子どもたちへもアクセスできると期待したからだ。

「被爆二世の組織をつくろうと思っています。これを手伝うとの方針を、組織として打ち出してくれませんか」

 そう頼んだ彼らに対して、団体の代表はこのように返した。

「遺伝の問題には触れてくれるな。我々被爆者も差別されてきたのに、被爆二世まで差別されるようなことになったらどうしてくれるんだ」

 自分たちと同じ苦しみを味わわせたくないという心情は、一種の「親心」だろう。随筆にあった「なぜ求めて『被爆』の中に飛び込むのか」という言葉も、「親心」からうまれたものだと思う。

 しかし、彼らにとって「『被爆』の中に飛び込む」ことは、やむにやまれぬものだったはずだ。

 遺伝的影響の有無は、「わからない」。科学的な結論も出ず、「不安」を取り除いてくれる施策もない。そうした状況下で、自らの存在を「宣言」することこそ、「被爆二世」としての人生を切り拓く上で必要だったのだ。

 そして、被爆二世というテーマの本質をえぐり出す、「ある発言」が東京都議会で発される――。

(次回は1月22日更新予定です)

 第8回
被爆者の子どもに生まれて ルポ 被爆二世

広島・長崎に投下された原子爆弾の被害者を親にもつ「被爆二世」。彼らの存在は人間が原爆を生き延び、命をつなげた証でもある。終戦から80年を目前とする今、その一人ひとりの話に耳を傾け、被爆二世“自身”が生きた戦後に焦点をあてる。気鋭のジャーナリスト、小山美砂による渾身の最新ルポ!

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「黒い雨」訴訟

プロフィール

小山 美砂(こやま みさ)

ジャーナリスト

1994年生まれ。2017年、毎日新聞に入社し、希望した広島支局へ配属。被爆者や原発関連訴訟の他、2019年以降は原爆投下後に降った「黒い雨」に関する取材に注力した。2022年7月、「黒い雨被爆者」が切り捨てられてきた戦後を記録したノンフィクション『「黒い雨」訴訟』(集英社新書)を刊行し、優れたジャーナリズム作品を顕彰する第66回JCJ賞を受賞した。大阪社会部を経て、2023年からフリー。広島を拠点に、原爆被害の取材を続けている。

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