被爆者の子どもに生まれて ルポ 被爆二世 第8回

ためらう被爆地と、初めての医療保障

戦後史④
小山 美砂(こやま みさ)

 被爆者の子どもとしてうまれた「被爆二世」の戦後を見つめる本連載。文献資料を中心に、彼らを取り巻く社会の変遷をシリーズで伝えている。

 前回、取り上げたのは1960年代における親世代の動きだ。「そっとしておいたほうがいい」との見方もある中で、当事者たちの生活実態、そして核推進が加速する情勢を鑑みて、被爆二世を「援護」することこそ進むべき道だと、示した人たちがいた。その歩みを支えていたのは、一人ひとりの痛みに寄り添うヒューマニズムの視点と、反核という大きなものを背負う意志だった。

 では、こうした声に対して、被爆地の自治体はどう向き合ったのだろうか。広島市の長が議場で述べた言葉から見ていきたい。

ためらう広島市

「今日、何十万とあるかもしれない被爆者の子弟の諸君がですね、みな白血病になりゃ、みな被爆二世ということはですね、非常にショックを与えると思うんです。少なくとも医科学的な証明のない今日、私、市長として、こういう被爆二世というようなことは口にいたしたくありません」

 1969年6月25日、広島市議会本会議で山田節男市長(当時)はこう言った。会議録を読みやすさの観点から一部編集したが、大意に変わりはない。

 この答弁は、被爆者と被爆二世の医療を広島市が全面的に保障するべきだとする議員の質問に答えて、山田市長が考えを述べた部分である。議論の中では、被爆二世が病に倒れて死去していることや、わが子を案ずる被爆者の存在に言及された。被爆二世に対する全面的な調査を実施するとともに、医療費助成などの対策を打ち出すべきだとの意見が議員から出ていた。

『被爆二世 その語られなかった日々と明日』(深川宗俊・監修、広島記者団被爆二世刊行委員会・編、時事通信社、1972年)によると、広島市議会定例会の一般質問で「被爆二世」問題が取り上げられたのは、これが初めてだ。被爆二世の健康問題がクローズアップされる中で、いよいよ被爆地の自治体としても無視できない課題になっていたようだ。

 答弁はこう続く。

「原爆手帳を渡すとか、こういうようなことは、本当の明白な証拠がない限り、まことに危険であり、人権蹂躙になるんじゃないか。私自身としても、原爆被爆二世という言葉は、避けたいと思います」

 会議録をめくる手が、思わず止まる。人権蹂躙――あまりにも強い表現だ。

 被爆二世という言葉を「口にいたしたくありません」と述べたのは、白血病やそれによる死を連想させるためであろう。そして、遺伝的影響が確定していない中で手帳を交付することになれば、精神的なショックを与えるだけでなく、差別を受けるなどの「危険」が想定される、と考えての発言だったとみられる。

 確かに、被爆者の子ども全員に対して“強制的に”手帳を交付することになれば、求めていない人にまで「被爆二世」というアイデンティティを押し付けることになる。差別を含むネガティブな社会の反応を、望んでいないにもかかわらず引き受けさせる可能性があるだろう。人々が生存と自由を確保し、それぞれの幸福を追い求める権利としての「人権」が、「蹂躙」されるおそれがある。

 蹂躙とは、踏みにじることや、暴力や権力をもって侵すことを意味する。「侵害」よりもかなり強い印象だ。

 答弁の中で市長は、白血病に悩まされる被爆二世に治療を施すことは、「市としても、これは、全力を尽くすべきものである」とも述べている。しかし、全体としては何かしらの対策を講じることによる影響をおそれているように思われた。差別や、新たな不安を招くといった懸念から、「被爆二世」について取り上げることさえも消極的に考えているようだ。

 確かに、本連載の第1回で取り上げた磯部典子さんのように、被爆二世の健康問題がクローズアップされることで恐怖を覚えた人もいる。1969年時点だと、ほとんどの被爆二世が10~20代だったということもおさえておきたい。こうした観点からすると、山田市長の答弁は、被爆二世とその周囲の人々に対する「配慮」や「善意」から発されたものと解することもできる。

 だが、この答弁から抜け落ちているものは、「手帳がほしい」と訴える被爆二世への視点だ。

 そもそもなぜ、援護を求める声が上がるのだろうか。それは、原爆が投下されたからである。遺伝的影響がありうる放射線に、被爆者たちがさらされたからだ。さらにさかのぼるならば、原爆が投下されたのは国が戦争を始めたからである。被爆者やその子どもたちが、理由もなく訴えているわけではない。

 手帳を求めることは、健康に生きる権利を追求することでもある。遺伝的影響の有無がわからない中で、その権利を否定することもまた、誰にもできないことではないだろうか? 「人権蹂躙」になりえるからといって声を封じ、保障を拒むことで、別の権利を踏みにじってしまうこともあるはずだ。

被爆地の外で、初の医療保障が実現

 こうして広島市が被爆二世対策に二の足を踏む中、地方自治体が動き始める。最初に独自の施策を打ち出したのは、意外にも、被爆地から遠く離れた神奈川県川崎市だった。

 自治体に働きかけたのは、1966年に結成された「川崎市折鶴の会」だ。初代会長に就いたのは、広島の被爆者である森川さださん。29歳の時に、勤め先だった広島中央放送局で被爆し、炎から逃げ、川の中を歩き、助けを求める悲鳴やうめき声に応じることもできないまま、郊外へ逃れた。転勤に伴って首都圏に移り住み、川崎市に居を構えてからは地域の被爆者を訪ね歩いた。

 会の結成後、同市では独自の支援策が続々と実現していった。市営交通機関の無料パス配布、市営住宅への優先入居、弔慰金、年末見舞品——これらが現実化した背景には、折り鶴の会による積極的な働きかけがあったようだ。

 そして、1971年4月には「原子爆弾被爆者の子供に対する医療費給付要綱」が制定された。神奈川県原爆被災者の会が発行する『神奈川県被爆者ニュース』(1970年12月11日発行)によると、「被爆者の子・孫(被爆二世)の希望者には、定期健康診断の実施、また治療の必要を認めた場合はケースバイケースで治療費も市負担」とすることが認められた。

 遺伝的影響が確定していない中で、自治体が医療保障に踏み切った意義は大きい。しかし、残念ながら市側の文書を確認することができていない。当時の要綱と審議に関する文書の一切を開示請求したが、「当該文書はありません」と回答されるばかりだったのだ。

 現在も川崎市では、1999年4月に施行された要綱に基づいて、被爆二世への医療給付を実施している。この新しい要綱の施行に伴って1971年4月の要綱は廃止され、関連資料も廃棄されたのだという。同市の担当者は、「以前の要綱を見たことがないため、内容が引き継がれているかどうかもわからない」としている。

 総務省によると、法律や政令の制定に関する決裁文書の最低保存期間は30年だ。全国で初めて実施された被爆二世対策の詳細が残されていないことは、非常に惜しまれる。

 終戦から80年が過ぎ、戦争被害を記録するにあたっては「時間がない」とよく言われる。

 実際には戦争を経験していない被爆二世の取材であっても、私はそのことを痛感してきた。当事者たちの手記や運動資料も散逸している。このテーマもまた、書き留めなければ消えてしまうという危機感がある。

明らかになる国との距離 京都でも

 京都府でも、同時期に被爆二世に対する健康診断が実施されていた。『被爆二世 その語られなかった日々と明日』によると、1971年2月の定例会で、被爆二世健診の実施費用を含めた被爆者対策予算400万円が計上され、同年11、12月に府内22の保健所で健診が実施された。150人が一般検査を受け、そのうち25人が精密検査を受診した。

 同年11月18日付『京都新聞』には、「原爆二世の健康診断 今月下旬から府、各保健所で」との見出しで記事が掲載されている。府が健診に乗り出した背景として「数年来、被爆者からの要望が高まっている事実がある。もっとも放射能の影響と断定された臨床例があったわけではない。ただ、なんらかの影響がありはしないかという、お役所としては珍しく先手を取った対策だ」と説明している。さらに、他府県から実施内容に対する問い合わせが相次いでいることも紹介されていた。

 記事では厚生省(当時)にも見解を聞いた上で、次のように解説している。

「厚生省当局は『そこまでは…』といい、いまのところ『二世にまで影響があるとは考えられない』と言い切っており、その心配があるのなら一度、検査を実施しようという府の態度とは、かなりの距離がある」

 科学的な解明を求める厚生省と、結論が出ない中での対策を考える京都府。両者の考え方はかけ離れている。

 国が健康診断にさえ消極的な中でも、地方自治体が独自の施策に乗り出したことは評価できる。また、いち早く取りかかったのが川崎市と京都府であることにも着目したい。被爆二世を巡る問題は被爆地に留まるものではなく、どこであっても無関係ではいられないということだ。全国にまたがるイシューだからこそ、国が取り組むべきではないかという問題意識も、同時に浮かび上がってくるだろう。

 このように各自治体が対応を考える中、被爆地の自治体も健康診断の実施に乗り出した。長崎県では1972年3月、独自に健診を実施する方針が明らかにされ(1972年3月5日付『長崎新聞』)、広島市でも1973年8月に「原爆被爆者の子の健康診断事業実施要綱」が定められた(『広島市原爆被爆者援護行政史』)。

 行政が被爆二世対策に乗り出す中で、当事者である被爆二世たちも立ち上がり始める。1970年代前半、戦後まもなくうまれた被爆者の子どもたちは、20代になっていた。

(次回は1月8日更新予定です)

 第7回
被爆者の子どもに生まれて ルポ 被爆二世

広島・長崎に投下された原子爆弾の被害者を親にもつ「被爆二世」。彼らの存在は人間が原爆を生き延び、命をつなげた証でもある。終戦から80年を目前とする今、その一人ひとりの話に耳を傾け、被爆二世“自身”が生きた戦後に焦点をあてる。気鋭のジャーナリスト、小山美砂による渾身の最新ルポ!

関連書籍

「黒い雨」訴訟

プロフィール

小山 美砂(こやま みさ)

ジャーナリスト

1994年生まれ。2017年、毎日新聞に入社し、希望した広島支局へ配属。被爆者や原発関連訴訟の他、2019年以降は原爆投下後に降った「黒い雨」に関する取材に注力した。2022年7月、「黒い雨被爆者」が切り捨てられてきた戦後を記録したノンフィクション『「黒い雨」訴訟』(集英社新書)を刊行し、優れたジャーナリズム作品を顕彰する第66回JCJ賞を受賞した。大阪社会部を経て、2023年からフリー。広島を拠点に、原爆被害の取材を続けている。

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