分断と衝突を繰り返すアメリカ。今や国民の多くが「数年以内に内戦が起こる」との恐怖を抱いている。そうした時代の変化に伴い、民主主義と国民国家の在りかたに向き合ってきたアメリカ文学も、大きな分岐点を迎えている。 本連載ではアメリカ文学研究者・翻訳家の都甲幸治が、分断と衝突の時代において「アメリカ文学の新古典」になりうる作品と作家を紹介していく。
今回紹介するのは、ピューリッツァー賞受賞作家アンソニー・ドーアの名作短編集の表題作「メモリー・ウォール」。
記憶を失っていったとき、人はそれでも自分自身であり続けていると言えるのだろうか。そしてもし、その記憶を他人の脳に移し替えることができれば、今度はその他人が自分になったと言えるのか。アンソニー・ドーアの短篇集『メモリー・ウォール』の表題作はそうした問いを扱っている。
夫であるハロルドの死から4年が経って、ケープタウン在住であるアルマの記憶はどんどん失われていく。認知症の診断を受けた彼女だが、ただ手をこまねいて過去が消えるのを待っているわけではない。彼女はケープタウン記憶研究センターに通い、大金をかけて自分の脳から記憶を取り出し、それを小さなカートリッジに封じ込めるという処置を受けている。
この処置のために、彼女はわざわざ手術で頭蓋骨に複数の穴を開け、電極を取り付けられるようにした。一見、この処置は順調であるように思える。そのままにしておけば、永久に失われてしまうだろう彼女の人生のさまざまな時期の記憶は、高価な装置によって取り出され、四角いカートリッジに刻みつけられていく。やがてカートリッジの数は数百、数千と膨れ上がる。医者の当初の目論見では、定期的にこのカートリッジから記憶を取り出し脳に戻すことで、脳神経を刺激し、認知症の進行を遅らせることができるはずだった。
だが、認知症の進行は予想外に加速する。やがて、どんなに処置をしても、記憶が消滅していくスピードがそれを上回るようになる。それでもアルマは自分の人生にしがみつく。自分の部屋に記憶の壁(メモリー・ウォール)と呼ぶ一角を作り、そこに大量のカートリッジや写真を貼り付ける。その真ん中に掲げられているのは、ハロルドとアルマが、まさに人生の頂点に達したと感じた晩に撮られた一枚の写真だ。色褪せ、角が丸まり、もう40年は経っているように見えるその写真だけは、他のカートリッジや写真と違って、決してアルマの手によって動かされることはない。
実は、この状態は医者たちによってある程度、予想されたものだった。高級な老人ホームに入った人々は、やがて何度も何度もこの装置を使って自分たちの過去に浸るようになる。「伝えられる話では、老人ホームで長く暮らす人たちは記憶装置を麻薬のように用い、さんざんいじって古びた同じカートリッジを遠隔装置に挿入するという。婚礼の夜、春の午後、岬のサイクリング。小さな四角いプラスチックは、親指に必要に触られてつやつやと光る」(20ページ)。もはや彼らは、過去の記憶も目の前にある現実もすべて失ってしまう。彼らが生きているのは、「合成された総天然色の過去」(20ページ)だけだ。
だが、老人ホームに入っている老人たちとアルマには違いがある。かつて成功した不動産業者だったアルマは、今も高級住宅街の豪邸に住んでいる。彼女の身の回りの世話をしているのは、フェコという黒人男性だ。かつてハロルドに雇われた彼は、長い年月にわたって夫婦の身の回りの世話をしてきた。もちろんアパルトヘイトの時代だったら、こうした使用人の黒人男性はたくさんいたことだろう。だがそうした時代が終わっても、彼は心をこめてアルマを世話し続ける。倫理感の高い彼は盗みもしない。そして医者たちに、もはやアルマを入院させるしかないだろう、と言われても、黙って解雇という現実を受け入れる。
ここまでアルマの症状が進んでしまうと、24時間の介護が必要になってくる。だがフェコはアルマの家に住みこみで働いているわけではない。わざわざバスに乗って、遠く離れた黒人居住区からこの家まで通ってきているのだ。できるだけ遅くまでこの家にいようと努力はしているが、それにも限界がある。なぜなら、彼にはテンバという、まだ幼い一人息子がいるからだ。男手ひとつでテンバを育てているフェコは、少なくとも夜には家に戻らなければならない。
ならば、フェコが家に帰った夜には、アルマは一人きりになってしまうのか。そうではない。実は、この家を定期的に訪問している二人組がいるのだ。一人は、背の高い黒人のロジャーだ。多額の借金を背負った彼は、生前のハロルドが世にも珍しいゴルゴノプスの化石を発見した直後に亡くなった、という情報を掴み、この家に何度も忍びこむ。もし彼が化石を発見したまま、掘り出すこともなく亡くなったのならば、アルマのカートリッジの一つに発見の日の経緯が刻まれているかもしれない。そしてその情報を元に化石を発見できれば、彼は大儲けできる。
だが、この計画を実行に移すには、一つの大きな困難がある。アルマの協力は、とうてい期待できないということだ。そこでロジャーは、記憶読み取り人の少年であるルヴォを一緒に連れて行く。黒人の孤児である彼は15歳くらいだろうか。過去の記憶はすべて抹消されており、その代わり、アルマが受けたのと同じような手術を頭に施されている。そのためルヴォはアルマの家にある機械を使って、彼女の記憶を封じ込めたカートリッジを脳内で再生することができるのだ。
ただしルヴォには一つ大きな問題があった。彼が受けた手術の質は低く、電極からはすでに体液がにじみ出している。しかも、他人の記憶を脳内で再生し続けるとニューロンに過大な負荷がかかる。そのため、たいていの記憶読み取り人は1、2年で死んでしまう。そしてアルマの家に現れた時点で、ルヴォの寿命は、もはやあと半年しかない。
ロジャーとルヴォの2人組は夜、アルマの家に何度もやってくる。実はすでにアルマは彼らの物音に気づいていた。そしてついにある日、彼女はロジャーと出くわしてしまう。だが、アルマの状況を知り尽くしているロジャーは言う。あなたはひ弱な老女だ。だから、私を排除するために何もできない。しかも、私が姿を消せば、あなたは朝には私に関する記憶を失ってしまう。だから助けを呼ぶことすらできない。確かに、アルマはただロジャーを眺めて怯えているだけだ。
そのあいだにも、ルヴォはアルマのカートリッジを次々と確認していく。そのたびに、黒人の少年である彼は、白人の老婆であるアルマに成り代わり、さまざまな愛の瞬間や、仕事の場面、幼い日の思い出などを、まさに本人として追体験する。ロジャーの言う化石発見の決定的な瞬間に徐々に近づいていっている気もするが、実は単にアルマの長い人生を彷徨い、そこからどんどん遠ざかっているだけな気もする。最初は記憶の壁に時系列に並んでいたであろうカートリッジだが、アルマの認知症が進むにつれ、それらの秩序は乱れていく。だから、ルヴォの体験もまた、乱れたものでしかありえない。
アルマの入院が決まり、この家は売りに出されることになる。そして、フェコの解雇も決まった。それでも、ロジャーとルヴォはまだ、化石発見の瞬間が記録されたカートリッジを見つけていない。このまま何も起こらずに終わるのか。だが、ふと記憶の壁の中央に貼られた写真を手に取ったルヴォは、裏に黒くバツが描かれたカートリッジが貼り付けられているのを見つける。再生してみると、そこにはハロルドの最後の瞬間が記録されていた。
夫婦で南アフリカの荒野を旅していたハロルドは、人里離れた峠の崖で、今まで発見されたこともないようなゴルゴノプスの大きな化石を見つける。しかし、そのことをアルマに告げた瞬間、彼は心臓発作に襲われ、そのまま命を落としてしまう。さあ、あとはその記憶に出てきた道路標識などを頼りに化石を掘りに行くだけだ。だが、物事はロジャーの思うようにはいかない。何もできないと思われていたアルマが、ハロルドの残した拳銃で、侵入者のロジャーを射殺するからだ。
ちょうどそのとき、フェコとテンバの親子が邸宅にやってくる。テンバの熱がどうしても下がらず、追い詰められたフェコは、アルマが大量に持っている抗生物質を拝借しようと考えたのだ。そして彼はロジャーの遺体を見つけて呆然とする。一方、外で待っていたテンバは、ちょうど逃げ出すルヴォと出くわす。そしてルヴォは、震えるテンバに毛布をかけてやる。
さて、ルヴォはヒッチハイクをして荒野の峠に辿り着き、周囲を探し回る。何日かの苦しい捜索のあと、彼はハロルドの杖が地面に刺さっている場所を見つける。そこにはゴルゴノプスの巨大な化石があった。急いで彼は頭部だけを掘り出し、鞄に詰め込む。そして、通りがかった3人連れのフィンランド女性たちの車に拾われる。彼女たちは南アフリカを旅して回っていたのだ。そのままルヴォは化石の密売人のところまで連れて行ってもらい、少々の金をその場で受け取る。そして残りの莫大な金額すべてを記憶のなかでしか会ったことのないフェコに送ってもらう。
記憶と人格の問題、貧富の差の問題、そして人種問題など、この「メモリー・ウォール」という作品にはさまざまな要素が盛り込まれている。こうした作品を書いたアンソニー・ドーアとはどのような人物なのだろうか。彼は1973年、オハイオ州クリーブランドに生まれた。大学院で創作の修士号を取ったあと、彼は『シェル・コレクター』と『メモリー・ウォール』という二冊の短篇集で高い評価を受ける。O・ヘンリー賞、プッシュカート賞、ストーリー賞といった、短篇に与えられる主要な賞を受賞していることからも、そのことはよくわかる。だが、彼の名声を決定的にしたのは、なんといっても長篇『すべての見えない光』により、ピュリッツァー賞を獲得したことだろう。ナチス占領下のフランスを描いた本作はベストセラーにもなった。
短篇「メモリー・ウォール」に戻ろう。この作品で印象的なのは、背景となっている南アフリカ社会の持つ圧倒的なリアリティである。記憶を取り出し、他人の脳に注入できるというSF的な仕掛けが導入されていながら、描かれている社会的な状況は本物だと読者は感じてしまう。
ドーア自身がかつて南アフリカで暮らしたこともあるという事実も貢献していることだろう。だが、本短篇集に収録された作品の舞台は南アフリカだけではない。リトアニアも、中国も、ドイツも、背景として選ばれている。それらすべてが、とってつけた感じを与えないところからも、ドーアという書き手の力がわかる。
「メモリー・ウォール」には2つの世界が登場する。豊かでテクノロジーの恩恵をふんだんに受けている白人たちの世界と、貧しく賑やかで、多言語による響きに溢れた黒人たちの世界だ。白人たちの世界は清潔だが孤独だ。大邸宅に一人で暮らすアルマだけではない。高級老人ホームに収容された人々も、自分だけの記憶に浸っている。すべてが計算どおりに運んでいるはずの彼らの世界も、衰えていく肉体という自然の力の前にはもろくも崩れ去る。
それに対して、黒人たちの世界は違う。昼間は白人たちの家で働き、シルビアやアリスと呼ばれている女たちも、いざバスで自分たちの居住区に戻れば、マリリやモムトロという名前の母親になる。彼女たちは言語も変える。英語からコーサ語、ソト語、ツワナ語などに変化した彼女たちの声は響き続ける。
二つの世界は、労働によって交錯する。白人たちが黒人居住区に行くことはないが、黒人たちは白人の家に赴き、家事労働を提供する。強盗であるロジャーもそうだ。莫大な金を手に入れるためには、彼は豊かな白人の邸宅に忍び込んで盗むしかない。
そのために導入されるのが、記憶読み取り人のルヴォだ。彼は子どもでありながら、強盗という大人の世界に巻き込まれる。しかも、黒人男性でありながら、白人女性であるアルマの記憶を脳内に取り込んで、ほんの短い瞬間にでも別人に成り代わる。「カルーの夕暮れはケープタウンの夜明けになる。四年前のできごとは、二十分前に追体験される。老女の人生が若い男の人生になる。記憶を見るものが、記憶を保つものと出会う」(78ページ)。
言わば、究極的に自分とは違うものに変わる力を持った存在がルヴォだと言えるだろう。だが、そのことには副作用もある。すでに述べたように、そうした作業によって彼の寿命は劇的に短縮してしまう。「感染、けいれん、発作。日によっては、脳に埋めこまれた円柱のまわりの血管がゆがむのが、ルヴォには感じられる。障害物をよけようと、ニューロンがちぎれたり食いこんだりするのが感じられる」(35ページ)。
人種差別政策であるアパルトヘイトが終わっても、黒人と白人の関係は究極的には変わっていない。黒人が白人の家で長年働いても、大した給料ももらえず、しかも、いつクビを切られるかわからない。だからと言って、法を犯して強盗に入っても、結局は射殺されるのがおちだ。ならば、この作品には絶望しかないのか。そうとも言えない。
化石を掘り終えたルヴォを助けるフィンランドの女性たちは、彼に親切な笑顔を向ける。そして、彼を黒人だという理由で見下したりしない。あるいは、一貫して紳士的な態度をとり続けるフェコはどうだろう。決して盗みを行わない彼の姿には、何より自分で自分を尊敬できるようでありたい、と努力し続ける倫理感が感じられる。もちろん、どうしても子どものために抗生物質を手に入れなければならなくなるシーンは例外だが、そのために侵入者が現れた場面でアルマを助けることになるのだから、許してあげてもいい。
そして最後にルヴォだ。ほぼアルマの記憶の中でしか会ったことのないフェコの献身的な姿を見て、彼は化石を掘って得た莫大な金額のほぼすべてをフェコに送る。もちろん、自分があと半年しか生きられないことはルヴォ自身も分かっていた。だがそれでも、全額を自分のために費やしてもよかったはずだ。しかし、彼はそうしない。
ルヴォは自分が得るよりもむしろ、与えることを選ぶ。そして、フェコとテンバの親子を貧困状態から救い出す。この作品に出てくる、最も弱い存在の一人であるルヴォが、人に与えることのできる、最も強い人間へと変わるのが、この「メモリー・ウォール」という作品の重要な点だろう。ルヴォについてテンバは父親に言う。
「おにいちゃんを見たんだ」とテンバは言う。「教会の天使みたいに見えた」
「夢のなかでかい?」
「たぶん」とテンバは言う。「たぶん夢だったんだと思う」(85ページ)
そしてある意味で、ルヴォは本当に、親子を救ってくれる天使だった。
記憶の世界は常に甘美だ。それは過ぎ去った過去から、我々に常に手招きをしている。今をあきらめ、そうした消滅した世界に浸って生きることもできる。たまにはそうしたことも許されるだろう。だが、われわれはそれでも今を生きなければならない。もちろん、目の前の世界が素晴らしいとはかぎらないが、それでも今を選んで、美しいものを、そして愛情に満ちた関係を作っていかなければならない。ルヴォからテンバに手渡された、お金には代えられない貴重な意思を受け継ぐことを、この作品は教えてくれる。
(『アメリカ文学の新古典は、今回が最終回です。本連載は加筆・修正のうえ、新書化を予定しております)
参考文献
アンソニー・ドーア『メモリー・ウォール』岩本正恵訳、新潮社、2011年。

分断と衝突を繰り返すアメリカ。今や国民の多くが「数年以内に内戦が起こる」との恐怖を抱いている。そうした時代の変化に伴い、民主主義と国民国家の在りかたに向き合ってきたアメリカ文学も、大きな分岐点を迎えている。 本連載ではアメリカ文学研究者・翻訳家の都甲幸治が、分断と衝突の時代において「アメリカ文学の新古典」になりうる作品と作家を紹介していく。
プロフィール

とこう こうじ
1969年、福岡県生まれ。翻訳家・アメリカ文学研究者、早稲田大学文学学術院教授。東京大学大学院総合文化研究科表象文化論専攻修士課程修了。翻訳家を経て、同大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻(北米)博士課程修了。著書に『教養としてのアメリカ短篇小説』(NHK出版)、『生き延びるための世界文学――21世紀の24冊』(新潮社)、『狂喜の読み屋』(共和国)、『「街小説」読みくらべ』(立東舎)、『世界文学の21世紀』(Pヴァイン)、『偽アメリカ文学の誕生』(水声社)など、訳書にチャールズ・ブコウスキー『勝手に生きろ!』(河出文庫)、『郵便局』(光文社古典新訳文庫)、ドン・デリーロ『ホワイト・ノイズ』(水声社、共訳)ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(新潮社、共訳)など、共著に『ノーベル文学賞のすべて』(立東舎)、『引き裂かれた世界の文学案内――境界から響く声たち』(大修館書店)など。