オレに死ねと言ってんのか? ━検証!高額療養費制度改悪━ 第14回

日本社会の「健康格差」を解消するために、医療保険制度が目指すべき方向性とは?

西村章

「健康にも格差がある」ことが前提になってしまった日本社会

 破滅的医療支出について説明する伊藤教授の言葉にもあるとおり、残念ながら、現代の日本社会には〈健康の格差〉が厳として存在する。その意味では、冒頭でも言及したとおり、日本の国民皆保険制度が「世界に冠たる」存在であった時代があったとしても、それはもはや過去の話と言った方がおそらく妥当だろう。

「2000年に発表されたWHOのヘルスレポートでは、日本が健康の総合ランキングで1位になっていました(図2)。また、世界的な医学雑誌の『ランセット』が創刊50周年の2011年秋に日本の国民皆保険制度を特集した際も、日本の研究者たちを含む多くの著者の論文で日本の皆保険制度が絶賛されていました。しかし、WHOのレポートは1990年代のデータに基づいたもので、ランセットの特集からもすでに15年近くが経過しています。この時代に絶賛された日本の制度が現在でも「世界に冠たる」ものなのか、やや難しい問題になってきているようにも私は思っています。

(図2)WHOが2000年に発表した加盟国健康ランキング(1997年の各国データを基準とする)。1位の日本を筆頭に2位以下は北欧諸国が上位を占め、20位までおもに北欧・西欧諸国が続く。

 私の研究分野でも、今の日本は健康のアウトカム(健康寿命や生活の質、がん患者の生存率など)の公平性が社会全体で保たれているとは思えないし、それは数々の研究からも明らかになっています。だからこそ、『健康日本21』(厚労省が推進する国民的健康指針。現在は第三次が運用中)でも「健康格差の縮小」と謳われていて、第4期がん対策推進基本計画にも「誰一人取り残さない―」という文言が入っています。これからは国民皆保険制度自体の維持ももちろん大切ですが、UHC(Universal Health Coverage:WHOが定義する「すべての人々が基礎的な保健医療サービスを、必要なときに、負担可能な費用で享受できる状態」のこと)の視点から、〈公平性〉という制度の基本的部分についても考えていく必要があるのではないかと思います」(伊藤教授)

 身も蓋もない言いかたをすれば、日本社会はすでに「健康にも格差がある」ことが前提となった社会になってしまった、ということだ。そのわかりやすい例が、破滅的医療支出について伊藤教授が推計した[図1]の中にはっきりと示されている。図内のグラフで一番下に位置している、「付加給付のある場合」として表されている折れ線がそれだ。

 付加給付、とは、保険加入者の医療費が高額になった場合に独自の基準で追加的な給付金が健康保険から付与される仕組みで、おもに大企業からなる健保組合や公務員などの共済組合に用意されている制度だ。高額療養費制度の自己負担上限額に加えてこの付加給付があることで、健保組合や共済の被保険者は最終的に2万円から4万円程度の自己負担額になる場合が多い。一方、中小企業の協会けんぽや自営業者・フリーランスなどが加入する国民健康保険には付加給付制度がないために、高額療養費制度が定める金額を上限まで文字どおり自己負担しなければならない。これはつまり、付加給付という援助システムを持たない〈健康保険弱者〉は、充実した健康保険制度のもとで働いている人々よりも破滅的医療支出に陥る可能性がより高くなる、ということでもある。

「付加給付のない人たちでも、協会けんぽの場合は休業しても企業に在籍したまま傷病手当金などで何らかの援助を期待できるかもしれませんが、国保で自営業の方だとその制度も利用できません。前年に頑張って働いて1,000万円を稼いでいた人でも、病気になると同じ働き方はできません。そんな状態で何の公的支援もないまま医療支出が30パーセント~40パーセントになったとすると、あっという間に100パーセントに近づいてしまうかもしれません。

 つまり、高額療養費の自己負担を引き上げる制度変更は、今の制度下でもかなり大変な支払いを強いられている人々をさらに苦況に追い込んでしまう、ということです。現状でも格差の原因になっているところにさらに手をつけるのは本当にやめてほしいと思うし、それは私に限らず、多くの研究者や臨床現場の医療者が思うところでもあります」

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プロフィール

西村章

西村章(にしむら あきら)

1964年、兵庫県生まれ。大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。主な著書に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞、第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作『最後の王者MotoGPライダー・青山博一の軌跡』(小学館)、『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』(三栄)などがある。

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