オレに死ねと言ってんのか? ━検証!高額療養費制度改悪━ 第14回

日本社会の「健康格差」を解消するために、医療保険制度が目指すべき方向性とは?

西村章

 今年(2025年)3月にいったん全面凍結された高額療養費制度の〈見直し〉議論が12月の方針決定に向けて、いよいよ大詰めを迎えようとしている。厚生労働省の社会保障審議会医療保険部会はこのところ毎週のように開催され、「医療保険制度改革について」という議事のもとで、高額療養費制度やそれに関連するOTC類似薬(ドラッグストア等で購入できる市販医薬品と薬の性質が同じあるいは似ている処方箋医薬品)の保険適用、高齢者の支払い負担見直しなどについて話し合われている。全面凍結後に患者団体代表者を交えて新たに設置された「高額療養費制度の在り方に関する専門委員会」でも、開催回数を重ねるごとに議論の方向性は少しずつ絞り込まれてきた。

 これらの議論の際などに、特に政府や行政関係者がよく口にするのが、日本の国民皆保険は世界のどの国や地域よりも優れている「〈世界に冠たる〉制度」という表現だ。高額療養費制度についても、これほど恵まれたセーフティネットは世界のどこにもない、という自己認識が彼らの間では強いようだ。しかし、少なくとも治療費の患者自己負担額に関する限り、現在の日本の医療は世界で最も恵まれた制度とは言いがたいのが実情だ。これは当連載で何度も様々な角度から指摘してきたことで、その際に紹介した「破滅的医療支出」という概念をご記憶の方もいるだろう。  

 たとえば、立教大・安藤道人教授(第5回)や東大大学院・五十嵐中特任准教授(第8回第9回)の記事でも、自己負担上限額引き上げの問題を「破滅的医療支出」という用語を用いて解説してきた。一方で、高額療養費の議論がふたたび大詰めを迎えている現在、厚労省の医療保険部会などでは「支払い能力に応じた負担」などの言葉遣いで遠回しに上限額引き上げに言及することが多くなっている。そこで、破滅的医療支出、という言葉が象徴する現代日本社会の〈健康格差〉について、ここで改めて整理をしておこう。

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 破滅的医療支出とは、WHOの定義によると「家計収入から食費、住居費、光熱費などの生活に必要な基礎的費用を差し引いた金額(医療費支払い能力≒すなわち日々の生活で自由に使える費用)のなかで、医療費支出が40パーセントを越えると経済的に困窮する可能性が非常に高い」とされる〈貧困の喫水線〉のことだ。つまり、医療費支払いで生活危機に瀕するかどうかの分水嶺、といってもいいだろう。

 今年の1月や2月に高額療養費自己負担上限額の引き上げが議論されていた時期には、政府〈見直し〉案が実施されれば制度を利用する多くの人々が破滅的医療支出に直面する、と多くの人々が指摘をした。また、現行制度でもすでに多くの人々が破滅的医療支出に瀕していることも明らかになった。それらの元になる推計を行ったのが、大阪医科薬科大・伊藤ゆり教授だ。

2002年3月大阪大学医学部保健学科卒業。2006年8月~2007年1月ロンドン大学 衛生学・熱帯医学校訪問研究員、2007年3月大阪大学大学院・医学系研究科博士後期課程修了(保健学博士)。2018年4月大阪医科大学・研究支援センター医療統計室室長・准教授。2025年4月大阪医科薬科大学・医学部医療統計学研究室特別職務担当教員(教授)。

 伊藤教授が計算した破滅的医療支出の推計は、以下のとおりだ(図1)。そのグラフの意味を理解するために、〈見直し〉案が3月に一時凍結されるまでの過程を振り返っておこう。当初の政府案はまず、多数回該当(直近12ヶ月で高額療養費制度の自己負担上限額に到達する月が3回あった場合、4回目以降の支払いは上限額がさらに引き下げられる制度)が据え置きとされ、その後に、2025年から3年かけて毎年8月に自己負担額を引き上げる案の2026年分と2027年分が見合わせになった。そして、政府が最後まで実施しようとしていた2025年8月引き上げ分も最終的に見送ったことで、紛糾した〈見直し〉案はひとまず全面的に一時凍結されることになった。

 それらの引き上げのうち、最終到達地点である2027年の自己負担額と政府が最後までこだわった2025年8月の引き上げ予定額、そして現行制度下での自己負担上限額、という3つの上限額の生活費に占める割合を伊藤教授が試算したものが、下記のグラフだ。グラフ凡例で示された「現行(制度)」は上から三つ目の青の折れ線、それとほぼ重なるオレンジ色の線は政府が最後までこだわった「2025年8月引き上げ(案)」の自己負担金額。現行制度と重なっているように見えるのは、予定されていた引き上げ幅が小さかったことによる。そして一番上に位置しているグレーの折れ線が、2027年8月に引き上げるとされていた案だ。それぞれ、縦軸の年収区分に沿って、年間支払い能力のうち医療支出の占める割合として表示されている(さらにその下にある「付加給付のある場合」(黄線)については後述する)。

(図1)年間収入が400万円を下回る層は、現行制度下でも医療支出が破滅的医療支出とされる40パーセントをすでに上回っていることがわかる。また、年収800万円の高所得者層も、自己負担上限額が高額に設定されているために現行制度下やいずれの引き上げ案でも支払い能力の30数パーセントというかなり苦しい状況になることがわかる:伊藤教授提供

「住民税非課税より少し上の層(年収217万円の近傍)を見ると、現行制度でもすでに、支払い能力の88.2パーセントに達しています。2025年8月引き上げ案が実施されていれば89.5パーセント、3段階引き上げ後の2027年には93.8パーセント、と100パーセントに届くほどの状態になっていました。支払い能力の100パーセントとは、自由になる金額のすべてを医療費に使うということで、それ以上は貯金の取り崩しや借金をしなければ医療費を払えない、という状況です。〈健康の格差〉は、まさにこういうところにも起因しているのでしょうし、経済毒性(疾患と治療のために家計や心身を不安定にする様々な苦痛)は所得が低く若い人に強い影響が出ることも、このようなところに起因していて、要するに全部がつながっているんです。

 つまり、高額療養費の自己負担上限額を上げると、生活の厳しさがさらに増すことに加え、健康の格差がさらに広がる、ということにもなってしまうわけです」(伊藤教授)

 ここでひとつ注意しておきたいのは、WHOが定義する「40パーセント」という破滅的医療支出を示す数字は、これを境に経済的な苦況と生活の余裕がくっきりとわかれるわけではない、ということだ。41パーセントなら破滅的医療支出で貧困に陥る危険性が高いけれども39パーセントならば安全、などというふうにならないことは、誰しも容易に想像できるだろう。そう考えてあらためて伊藤教授の推計を見てみると、年収500万円前後の層でも医療支出は大きな割合を占めており、生活の苦しさが想像できる。

 ちなみに、多数回該当利用者の自己負担上限額が4万4400円の場合、それが支払い能力の40パーセントであるためには、1ヶ月の所得のうち自由に使える金額には11万円が必要、という計算になる。多数回該当の収入区分がひとつ上の場合だと自己負担上限額は9万3000円なので、1ヶ月あたり23万2500円の自由に使える金がなければ破滅的医療支出の40パーセントに到達してしまう。生活に余裕のない人が多いと言われる現代の日本社会で、1ヶ月で11万円や23万円を自由に使えるほど月収に余裕がある人は、いったいどれくらいいるだろう。伊藤教授も、上記推計と関連して以下のように話す。

「私の試算で使ったのは総務省の家計調査ですが、全国平均のデータなので住居費も非常に低い数字が出ています。東京の賃貸住宅で暮らす、たとえば母子家庭や子育て世代の生活実態を考えると、家計調査が示す2万円程度の住居費用はちょっと現実的ではないと思います。現役世代には、毎月11万円の余裕なんてなかなかないですよね」

 総務省家計調査のデータでは家計支出が低めに出ているのであろう傾向を考えると、おそらく現実の生活実態は伊藤教授の試算よりもかなり厳しい、と考えたほうがよさそうだ。

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プロフィール

西村章

西村章(にしむら あきら)

1964年、兵庫県生まれ。大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。主な著書に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞、第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作『最後の王者MotoGPライダー・青山博一の軌跡』(小学館)、『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』(三栄)などがある。

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