オレに死ねと言ってんのか? ━検証!高額療養費制度改悪━ 第14回

日本社会の「健康格差」を解消するために、医療保険制度が目指すべき方向性とは?

西村章

日本の国民皆保険制度を多角的に評価し、見えてくる「課題」とは?

 UHCについて議論をする際に、よく引き合いに出されるグラフがある。UHCの定義「すべての人々が基礎的な保健医療サービスを、必要なときに、負担可能な費用で享受できる状態」について、保険が賄う人数(横軸)、医療サービス(奥行き)、費用(高さ)を三次元の立方体容積として立体的に捉えた図だ(図3)。

(図3)UHCの充実度を「保険がカバーする人数:横軸」「保険がカバーする医療サービス:奥行き」「保険がカバーする医療費:高さ」で捉えた図。国民全員があらゆる医療をすべて無料で利用できる場合は、青い立方体の容積が最大になる:WHOの概念図を元に伊藤教授が日本語の解説を追加

 日本の国民皆保険制度をこの図で表す場合、健康保険には国民全員が加入しているため横軸のカバー人数は青い部分が左端目一杯まで及ぶことになる。奥行きの医療サービスも、日本は諸外国よりも保険適用・償還される薬剤が一般的に多いため、奥深くまで青い部分が届く。一方で、医療費の窓口負担は3割負担となっているため、高さに関しては青い部分がある一定部分で留まることになる。これに対して、たとえばイギリスの場合は基本的に窓口負担がないために高さは目一杯まで青い部分が到達する。ところが、医療サービスで使用できる薬剤はある程度の制限があるために奥行きは青い部分がある程度の手前で留まる。これらの[横×奥行き×高さ]で計る容積の大きさで、各国各地域のUHC充実度を概念的に視覚化できる、というわけだ。

 また、このグラフ内の青い部分の容積は、概念としての「国民医療費(公的な医療保険制度の質と量)」と捉えることもできる。考え方としては、医療保険制度でカバーする人数や医療サービス、金額のどの軸を維持あるいは拡張縮小することによって、容積(医療保険制度全体の質と量)を確保するか、ということだ。伊藤教授の話を続けよう。

「高額療養費自己負担上限額引き上げの件は、政府が『日本の医療保険制度は水色の部分が溢れる寸前まできています』と言って、患者さんの自己負担額を増やすことで高さ(医療保険が公的にカバーする金額)を削ろうとしたわけですよね。でも、おそらく多くの医療者や研究者は『調整をするなら奥行きの部分を触るのが筋でしょう』と考えていると思います」

 費用対効果に基づいた薬剤の保険収載見直しや、有効性が低い(あるいはない)エビデンスがあるとされる医療(風邪に対する抗生剤処方や腰痛のレントゲン撮影、高齢者のがん検診など)の見直しに関する議論等々が、この奥行き部分の調整に相当する。

「ここ最近話題になっているOTC類似薬を保険適用から除外するかどうかという件も、この奥行き部分に関する議論のひとつですね。また、高齢者の窓口負担や外来特例(所得の低い高齢者の窓口支払い額をさらに低くする仕組み)の見直しは、高さの部分をどう調節するかという議論です」と伊藤教授は言う。

 さらに、UHCには「4つのA」という評価軸もある(図4)。

(図4)ユニバーサルヘルスカバレッジの達成に不可欠な4つのコンセプトをキャッチーで語呂がよい英単語として表現したもの。日本語話者にはやや馴染みにくい単語で、三次元グラフの立方体容積のように視覚化しやすい概念でもないが、評価基準のわかりやすさという意味では、医療の充実度を考えるよい指標になる:伊藤教授提供

「日本の国民皆保険制度は、Accessibility(通院しやすさ)やAvailability(医療サービス)に関しては質がいいとずっと認識されてきました。この数年、現役世代の社会保険料の重い負担感がよく話題になりますが、これはAcceptability(許容度)に関する議論といえるでしょう。高額療養費の自己負担上限額引き上げは、このAffordability(料金)の部分がまさに問題として可視化されたわけですよね。日本の医療制度はAccessibilityやAvailabilityがいいので、Affordabilityもいいだろう、となんとなく皆が思っていたのですが……」

 現行の医療保険制度下でも多くの人々が破滅的医療支出に瀕している、と伊藤教授が明らかにした研究成果を見ると、「世界に冠たる」はずだった日本の国民皆保険制度は、いまやAffordabilityに大きな課題をはらんでいる、ということがわかる。

 では、そのように様々な面で改善の余地がある日本の医療保険制度、そして現在まさに議論が進んでいる高額療養費制度は、どのような設計思想のもとに構築されるべきだと伊藤教授は考えているのだろう。

「健康は、誰しも享受できて当然の権利です。お金のあるなしに関わらず、生存権(日本国憲法第25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」)として有しているものを執行し享受できる、そういう状況がベストです。そしてそれを守るのは国なので、仕事の内容や雇用条件や住む地域、国籍にかかわらず、そこで働いて保険料を払っている人すべてが国の医療保険制度で当然カバーされるべき対象だ、と私は考えます。

(高額療養費制度は)今でも支払いに苦しんでいる人がいることを認識したいし、してほしいなと思います。少し前に話題になった「賢い賢くない」の話じゃないけれども、患者がこの治療費は高いからというように心がけたり、意識したりする必要がない制度であってほしいですよね。患者ひとりひとりの判断で『こんなに高い薬を使うのなら治療をやめます』と遠慮する人が出て、経済毒性にもつながってしまう。また、この患者には高価な薬を使うけれどもこの患者には……と医療者が選別するのもおかしな話で、個人の心がけで医療費を減らすことに委ねるのではなく、そのときどきの最良かつ効果的な治療のうち国の負担で支払い可能なものを検討し、患者や医療者が選択できる仕組みを国が決めていくことが重要だと私は思っています。

 患者はお金に苦労せずに治療を受けることができて、医療現場の人は患者の生存期間や生活の質を上げるためにベストの治療法を選択できるように、たとえば費用対効果に沿った医療評価で薬の保険適用や償還を調整していく等々、今はそういうことをむしろ進めていく時期なのではないか、と思います」

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プロフィール

西村章

西村章(にしむら あきら)

1964年、兵庫県生まれ。大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。主な著書に第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞、第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作『最後の王者MotoGPライダー・青山博一の軌跡』(小学館)、『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』(三栄)などがある。

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