リアリティショー化する社会 第3回

〝ドキュメントバラエティ〟が〝リアリティショー〟になるまで

霜田明寛

リアリティショーは定義されてこなかった?

本連載では、リアリティショーを主役に、そこから見える社会について明らかにすることを目的にしている。

そもそも番組のフォーマットとしてのリアリティショーの歴史は、90年代前半から始まっていると言われており、そう長くはない。しかも見ている人は多いはずなのに、「リアリティショー」というジャンルは、きっちりと定義されずに歴史を積み重ねてきたのである。

よくある意見として「ドキュメンタリーとリアリティショーの違いがよくわからない」というものがある。リアリティショーのことをドキュメンタリーだと捉えている人もいれば、あんなものはドキュメンタリーではない、と怒る人もいるはずだ。

あえていえば、リアリティショーはドキュメンタリーである。なぜなら、フィクション作品のようにプロットやストーリーが存在しないからである。

ただ、ドキュメンタリーとリアリティショーに明らかに差があることは、それぞれのジャンルを少しでも知っていれば直観的にわかるはずだ。

今回は、ドキュメンタリーとリアリティショーの差や、そもそもフィクションとドキュメンタリーの境界線はどこにあるのか、といった話からリアリティショーの持つ輪郭を明らかにしていきたい。

ドキュメンタリーとリアリティショー

ドキュメンタリーとリアリティショーを簡単に定義すると、こうだ。

ドキュメンタリー:起きている現実を映すもの

リアリティショー:現実を起こして映すもの

ドキュメンタリーは、市井の人々の生活をはじめとした既に存在しているもの・場所にカメラが行き、映す。

一方、リアリティーショーは、カメラの前に人を集め、場所まで用意し、もともとはなかったものを存在させて映す。

『バチェラー』を例にとってみてみよう。『バチェラー』はひとりの男性と結婚するために、女性出演者たちが共同生活をしながらアピールする。ふつうに考えれば、男ひとりと女性十数人で一緒で暮らしている姿は自然に発生することは稀である(もちろん、国の婚姻制度やパートナーシップのあり方次第では、同様の環境が発生する可能性はあるが、すくなくとも筆者のまわりでは起こらなそうである)。だからドキュメンタリーで『バチェラー』は作れないと言える。

リアリティショーは非現実的な状況を番組側が作り出しそれを映しているわけだが、そこで起きていることは架空の話ではない。現実である。視聴者側もそのことには自覚的だ。

もちろん、この定義は、わかりやすくするためのものであり、極論ではある。

そもそも、〝意図的に特殊な環境を作り起ったこと〟は現実と言えるのだろうか。もともとは存在していなかったものを、カメラの前で存在させるのがリアリティショーなのであれば、それはフィクションと同じであるようにも思える。だが前述のとおりリアリティショーは、台本があるわけではないので、フィクションではないはずだ……

ドキュメンタリーとリアリティショーの区分も難しいが、そこにフィクションというジャンルを持ってくるとより区分けが複雑になる。

あえて、この3つを比較しながら、定義づけしてみよう。

ドキュメンタリー:現実を映して記録するもの・客観的

フィクション:台本のある虚構・作り物なので現実ではない

リアリティショー:その2つのあいだ 

「リアリティショーはフィクションとドキュメンタリーのあいだにあるっぽい」

この感覚はリアリティショーを観ている多くの人がもつものだろう。ドキュメンタリーは客観的で作為がないもの。そう考えている人も多いはずだ。

だが、ドキュメンタリーが映し出すのは、本当に現実なのだろうか。現実を真実や事実といった言葉に変えたときにそれは成立するのだろうか。また、フィクションが映し出すものは100%虚構と言い切っていいのだろうか。

ドキュメンタリーはフィクションなのか?

例えば、ドキュメンタリー番組『情熱大陸』に出演し、密着取材を受けた作家の金原ひとみは、その最中にこのように語っていた。

「自分が思っている以上にフィクションなんだなってことが密着されている中で感じられた」(*1)

ドキュメンタリーは現実なのか、フィクションなのか。さらに日本にはドキュメントバラエティという謎の呼称まであり、余計にわかりづらくさせている。

ここからしばらくは、ドキュメンタリーとフィクションの差異について考えることにしたい。

20世紀の最も重要な映画作家とも言われる、フランスの映画監督・ジャン=リュック・ゴダールは、こんな言葉を残した。

「全ての映像はドキュメンタリーだ」

ゴダールは基本的にはフィクションとされている劇映画を撮る映画作家だ。そんなゴダールが全ての映像をドキュメンタリーと言っているのはどういうことなのだろうか。代表作『勝手にしやがれ』公開時には、出演俳優の名前を挙げながら「ジャン・セバーグやジャン=ポール・ベルモンドについてのドキュメンタリー」とも語っていて、ゴダールのこの考えは一貫している。他にも、ゴダールはこんなことを語っている。

私はいつも、ドキュメンタリーとフィクションの間を航行してきました⋯⋯この二つのものを少しも区別することなく(中略)間を航行してきました。

私はこの<フィクション>と<ドキュメンタリー>という古典的な用語を、同じひとつの事柄の二つの側面を示す言葉として使っています。(*2)

対立する概念にも思えるフィクションとドキュメンタリーを「区別することなく」「ひとつの事柄の二つの側面」としている。これらの言葉からは、フィクションとドキュメンタリーが、そう簡単に2つに分けられるものではなさそうなことがうかがえる。

ちなみに日本の監督を見ても、たとえば映画監督で東京芸術大学大学院映像研究科の教授でもある黒沢清は「どう考えてもドキュメンタリーとフィクションの境はないです」と語っている。(*3)

カンヌ国際映画祭で日本人初の脚本賞に輝いた『ドライブ・マイ・カー』の監督・濱口竜介もこう断言している。

「あらゆる映画はある程度フィクションであり、ある程度ドキュメンタリーでもある。どちらも作った経験からすると、純然たるフィクションも純然たるドキュメンタリーも存在しない」(*4)

少し歴史を遡ってみよう。ドキュメンタリーという概念を生んだとされるイギリスのジョン・グリアソンは、ドキュメンタリーを「現実の創造的処理」と定義している。その後、1920年代末から展開されたイギリスのドキュメンタリー映画運動の一翼を担ったポール・ローサは、1935年に『文化映画論』(邦訳・1938年 原題は『Documentary Film』)という書籍の中でドキュメンタリーを「現実の創造的劇化」と定義。これは日本でも議論を呼んだ。

現実に創造的な処理/劇化を加えたものがドキュメンタリーである、というこれらの定義は、「ドキュメンタリーは現実そのもの」という感覚とは相容れないものである。

1895年、映画の父と呼ばれるリュミエール兄弟による世界最初の実写映画が上映されたときには、観客がスクリーンから自分たちに向かってくる(ように見える)汽車から、逃げ出そうとパニックになったという伝説があるほど、映像は最初は現実そのものと捉えられていた。それから約40年後の映像の黎明期の時点で「現実の創造的劇化」という定義が議論を呼ぶのは想像に難くない。日本でも当初はドキュメンタリー映画は資料映画と呼ばれており、その後も記録映画、教育映画、文化映画と呼称されてきた。特に、資料・記録といった言葉にはやはり「現実そのもの」のニュアンスが感じられる。

それからおよそ100年が経ち、「ドキュメンタリーは現実に創造的処理/劇化を加えたもの」という感覚はある程度共有されつつあるのではないか。

とくに「ドキュメンタリー」を「リアリティショー」に置き換えると、その実感はより強くなる。「現実に創造的な処理/劇化を加えたものである」という定義は、ドキュメンタリーではなくリアリティショーの定義だと考えるとしっくりとくるのではないか。

ただ「ドキュメンタリーは編集されたもの」という感覚が浸透したのは、2010年代以降のこと。90年代から2000年代にかけては、多くの番組にやらせ疑惑が発生し、その度に多くの人が憤っていた。だが、リアリティショーに対して「やらせだ!」といった声を上げる人は今やほとんどいないだろう。どうやってドキュメンタリーやそれを取り巻く人々の反応は変わっていったのだろうか。

その変化の起点に実はリアリティショーが存在しているのではないだろうか。

リアリティショー的映画――原一男『ゆきゆきて、神軍』

ここで、1本の映画を紹介したい。原一男監督の『ゆきゆきて、神軍』は1987年にドキュメンタリー映画として公開されている。渋谷のユーロスペースで、26週間にわたるロングランヒットを記録した同館の歴代興行収入ナンバーワン作品で、ドキュメンタリー映画としては異例のヒット作品とも言える。

カメラは、かつて天皇にパチンコ玉を発射するなどした男・奥崎謙三を追う。奥崎は、かつての軍の上官らに再会しに行き、戦時中に彼らがした、とある非人道的な行動を問い詰めていく。奥崎のその戦争責任追及の旅は徐々にエスカレート。家族もいる人の家に早朝に訪ねていくなど、常識的とは言い難くなっていく。そして映画の終盤、ついに奥崎は、元軍曹と口論になった上で、首を締めるなどの直接的な暴力行為に出る――。

この映画の特徴的なのは、終始、奥崎がカメラに突き動かされているように見えることである。カメラがなく、監督の原一男もいなかったら、同じことが起きただろうかと考えると、そうは考え難い。奥崎の〝出演者〟としての自覚や、監督やカメラの存在が、奥崎の行動をエスカレートさせていく。つまり、起きた現実を撮っているのではなく、現実を起こして撮っていくのである。カメラと監督が、明らかに現実に作用していく。

これは「ドキュメンタリー映画は客観的でありのままの現実を映すもの」と捉えている人には異質なものに映るかもしれない。逆に言えば、その異質さが、凡百のドキュメンタリーとは一線を画し、ドキュメンタリー映画として見に行った観客を驚かせ、熱狂させたと言ってもいいだろう。

監督の原一男は、完成直後に国際映画祭などの様々な場で「この映画は劇映画なのか、ドキュメンタリーなのか」と聞かれたという。当時は「ドキュメンタリーです」と答えていたというが、約30年が経ち、原は「劇映画と言えばよかった」と後悔しているという。「そう答えていたらドキュメンタリーの歴史はかなり変わったと思う」とまで言っていた。(*5)

筆者は『ゆきゆきて、神軍』をリアリティショーの性質を持つ映画なのではないかと考えている。ここでは、劇映画=フィクションと捉えると、脚本があるわけではないので、フィクションとも言い難い。だが、監督とカメラが介在しなければ起こらなかっただろう現実を映し出している。監督とカメラが現実を創り出しているといっていい。さらに、その現実は奥崎が殴りかかったりするという、息をのむショーになっている。「ドキュメンタリーなのか、フィクションなのか」という問いでは意見の割れる『ゆきゆきて、神軍』だが、そのあいだであるリアリティショー的な作品であると捉えるとしっくりとくるのだ。

では、この作品の中での起こされた現実は、真実と言っていいものなのだろうか――。その疑問はいったん置いておこう。

クイズそのものではなく、人間模様を見せる――『アメリカ横断ウルトラクイズ』

ここで、日本独自の〝ドキュメントバラエティ〟の成り立ちについて見ていきたい。ドキュメントバラエティというのは日本独自の呼称である。ドキュメンタリーやリアリティショーという言葉は海外でも存在するが、この呼称は日本独自のものだ。

ドキュメントバラエティの元祖と言ってもいいのが、日本テレビのクイズ番組だ。

1977年に始まった『アメリカ横断ウルトラクイズ』は、「ニューヨークへ行きたいか!」の掛け声の下、タレントではない一般の視聴者がクイズに参加。日本を出国して、グアムやハワイ、北米大陸などを横断しながら、正解を続けることでニューヨークに近づいていくというクイズ番組である。ギネスブックに「世界で最も制作費のかかったクイズ番組」として登録されている、日本オリジナルの大型番組だ。クイズ番組の金字塔のように捉える人もいるかもしれないが、メディアプランナーで、ホイチョイ・プロダクションズのブレーンも務める指南役・草場滋氏は、このクイズ番組の魅力はクイズではなかったと指摘する。

同番組の真の見どころは、実はクイズそのものじゃない。番組のキャッチフレーズ「知力・体力・時の運」の通り、成田空港のじゃんけん大会の悲喜こもごもだったり、グアム島の「○×どろんこクイズ」で全身泥まみれになっての雄叫びだったり、アメリカ本土で空から問題がばら撒かれる「バラマキクイズ」で疲労困憊になりながらの珍解答だったり――と、白日の下にさらされる人間ドラマ“非・予定調和”の方にあった。

クイズそのものではなく、非・予定調和の人間ドキュメントが見どころなのである。さらにこう続ける。

司会の福留功男アナは、出場者のプライベートを掘り起こすのに余念がなかった。クイズに入る前に他愛もない世間話をしたり、パーソナリティを深掘りしたり、あだ名をつけたり――。すべてはお茶の間を、一般人である彼らに感情移入させるため。

(中略)

今思えば、出場者のパーソナリティをクローズアップして、ある特殊な環境下における人間ドラマを白日の下にさらす――それは、1990年代後半から世界的に隆盛を誇る“リアリティショー”そのものである。そう、『ウルトラクイズ』は世界のテレビの潮流を20年くらい先取りしていたのだ。(*6)

ここでなされているのは、『ウルトラクイズ』は20年早く作られていたリアリティショーである、という指摘である。クイズ番組でありながら、その実、人間模様を見せるドキュメントだったのだ。

さらに、『ウルトラクイズ』は司会の福留アナウンサーの企画で、弟番組ができる。それが『高校生クイズ』(正式名称:全国高等学校クイズ選手権)で、1983年に始まったこの番組は現在に至るまで続き、こちらも基本的にはクイズ番組でありながら、参加した高校生の人間模様を見せる作りだ。

70年代から80年代にかけて始まったこの2つのクイズ番組は日本テレビが、その後もドキュメントバラエティ路線を進む素地を作った番組でもあり、現在の、そして世界的な視点から言えばリアリティショーだったのだ。

リアリティショーが隆盛を誇る世界のテレビの潮流を20年は先取りしていた、これらの日本テレビの番組は、大いに先見の明があったと言えるだろう。

だが、その後、この路線を突き進む彼らは、自分たちの番組をドキュメントバラエティと呼んでいた。ここから日本のドキュメントバラエティの歴史が始まっていくわけだが、この呼び方が後々大きな問題を引き起こすことになる。

ドキュメントバラエティ全盛期――『進め!電波少年』『トロイの木馬』『ASAYAN』

この日本テレビのドキュメントバラエティ路線の90年代の大成功例となったのが、92年から始まった『進め!電波少年』である。当初は「村山富市の眉毛を切ってあげたい!」と、タレントの松村邦洋が村山富市(後の首相・当時は日本社会党委員長)のところに出向いて眉毛をハサミで切る、といった企画をおこなっていた。これらは〝アポなしロケ〟と称され、事前の約束・段取り(アポイントメント)や打ち合わせのないドキュメントであることが強調されていた。予定調和ではないことが番組の魅力でもあった。

その後、90年代半ばになると、当時無名の芸人コンビだった猿岩石がユーラシア大陸をヒッチハイクする企画が、高視聴率を獲得。彼らの旅日記が書籍化されるとベストセラーになるという一大社会現象に。その後も、ヒッチハイク企画や、スワンボートで日本一周、前述した懸賞生活など、出演者に過酷な試練を課し、その様子を映す企画がヒット。『雷波少年』という兄弟番組も生まれ、こちらも共同生活をして楽曲をリリースしたバンド・Something Elseの「ラストチャンス」がミリオンヒットを飛ばすなど、いち時代を築いたといっていいだろう。ヒッチハイク企画は猿岩石・ドロンズ・朋友(パンヤオ)とタレントや大陸を変え、96年から98年まで約3年間放送されていた。

この大成功は日本テレビ以外にも影響を及ぼした。『電波少年』のヒットに影響を受けたのか、フジテレビでは『トロイの木馬』をスタート。「鈴木さんと佐藤さんが同じ苗字の人を頼りながら日本列島を自転車で走破する」・「流氷に人形を乗せてレースをさせる」といった『電波少年』的なドキュメントバラエティ企画を放送していた。

また、『電波少年』と同じく、出演者の過酷な様子を映すドキュメントバラエティ路線に転換することで、高視聴率を獲得したのがテレビ東京の『ASAYAN』だ。もともとは、『浅草橋ヤング洋品店』というファッション情報紹介番組だったのが、「夢のオーディションバラエティー。」をコンセプトとする『ASAYAN』にリニューアルすることで人気に。苦難のチャレンジの様子を見せることで、多くのスターを輩出するようになったのは前回にも述べた通りだ。放送開始時は北海学園大学の大学生だった大泉洋らが過酷な旅に出る、北海道テレビの『水曜どうでしょう』などこの影響は地方局にも及んだ。

そして99年には現在にも続く「恋愛リアリティショー(恋リア)」の元祖とも言えるフジテレビの『あいのり』が始まった。この番組も当時はドキュメントバラティと呼ばれていた。

70年代後半にはじまった日本テレビのドキュメントバラエティ路線は90年代の『電波少年』で大成功をおさめ、定番に。さらには他局にも広がっていき、90年代後半にはドキュメントバラエティの時代が出来上がっていたのである。

これらの番組は、今見れば「リアリティショーのことじゃん」と思う人も多いかもしれないが、前回も触れたように日本の旧来のテレビマンたちの中には、このドキュメントバラエティという独自の呼称に誇りを持っている人が多い。

だが、これらの番組をドキュメントバラエティと呼んでしまったことが、そもそもの間違いの始まりだった。

リアリティショーは「やらせ」が気にならなくなる発明である

90年代のドキュメントバラエティ番組は多くのやらせ疑惑に見舞われている。代表的な例をあげると、『電波少年』の猿岩石のヒッチハイクは、帰国後に、国境封鎖地帯や、危険地域など3区間で飛行機を使用していたことが発覚。スクープされ、大きな問題となった。

さて、このやらせ疑惑を今のあなたはどう感じるだろうか。リアリティショーに慣れた我々なら「まあしょうがないか」「それくらいあるか」くらいに受け取るのではないだろうか。だが、当時は大問題に。筆者は小学生だったが、熱心に見ていた同級生が「騙された!猿岩石はウソつきだ!」と怒っていたのを覚えている。この怒りや落胆は、多くの人がこのヒッチハイクをドキュメンタリーとして見ていたことに起因するのではないだろうか。

ドキュメンタリーを〝現実そのもの〟と捉えていた人たちが〝処理〟や〝劇化〟を許せないと騒いだ。すなわち、1930年代の論争のときと変わらないドキュメンタリーへの認識レベルで怒っていたとも言える。

当時の日本テレビの氏家齊一郎社長はこの問題に関して「番組の性質上、倫理とか道義的な責任はないと考える」とコメントしたという。「これはバラエティなんだから」と開き直っているようにも取れ、この問題は、「ドキュメントバラエティ」という、場合によっては都合よく「バラエティ」であると逃げられる余地を残したこの曖昧な言葉が大きくした騒動にも思える。

ちなみに猿岩石は、行けるところギリギリまではヒッチハイクで行っていたようで、その意味では当時の同級生に声をかけるとしたら「猿岩石はちょっとウソをついたけど、完全なウソツキではないよ」といったところだろうか。

こういったやらせ問題は、現在に至るまで繰り返し起き続けている。特にドキュメントバラエティにこだわる日本テレビの番組は、大きく反感を買う傾向があり、『世界の果てまでイッテQ!』などはその代表例である。

だが、リアリティショーに関しては、こういった類の怒り方を視聴者はしていないのである。

そう、リアリティショーという名称は〝やらせが気にならなくなる発明〟なのだ。

正直、ドキュメントのVTRがあり、それをスタジオでタレントが受けてコメントするという形式はドキュメントバラエティもリアリティショーも同じで大差ない。90年代に日本でドキュメントバラエティと呼ばれていたのと近いものが、世界ではリアリティショーと呼ばれ人気を博し、その後、日本の視聴者もリアリティショーとして認識し見るようになっていった。

ドキュメントバラエティというのは、一部の日本のテレビマンが今も自らの番組をこだわってそう呼んでいるだけで、呼び方の違いである。にも関わらず、ドキュメントバラエティには今もやらせが大きな問題になり、リアリティショーは問題にならない。これはどういうことなのだろうか。

まずは、リアリティショーという言葉を分解するところから考えてみたい。

リアル(現実)+ティ(っぽい)+ショー

こうして見ると、そもそも、リアリティショーとは語義矛盾であるということがわかる。矛盾する言葉たちが組み合わさって、ひとつの言葉になっているのだ。

ショーとは、現実から遠い世界に連れて行ってくれるものである。非現実の創られた世界と言ってもいい。そこに、現実を意味するリアルを組み合わせることで、リアリティショーというひとつの言葉の中で矛盾が生じてしまうのだ。言葉の作り方としては、ミスターチルドレンみたいなものである。

だが、この矛盾、言い換えればグレーゾーンがリアリティショーを面白くしている。現実の色一色でも、ショーの色一色でもない、混ざりあったグラデーションだ。「現実だ」とも「ショーだ」とも言い切らないことが、人々を惹きつけている。さらに、そこにティ(っぽさ)が加わることで、現実なのかどうかをより曖昧にしている。言葉の意味としてはショー=フィクションというわけではないが、ショーというのは虚構のフィクション的な世界でもある。リアリティショーという言葉が指し示すのは〝現実とショーのはざま〟なのだ。

先に紹介したように、多くの映画人たちは、ドキュメンタリーの中にもフィクション性があるといったようなことを述べている。そう考えると、むしろ、リアリティショーという言葉は、はからずも、ドキュメンタリーの本質を表しているといってもいいだろう。

そして、やはりリアリティショーには、ショーという言葉がついているのが重要な役割を果たしている。ショーであるという前提で人々は見ているので、多少の不自然は気にならない。ショーの設定に従って見ているので、自然じゃないのが当たり前なのだ。『バチェラー』を見ながら「ひとりの男がこんなに女性に囲まれるなんてありえない!」とか「こんな豪華なデートを連発することなんて現実にはない!」と怒る人はいないだろう。そういう設定なのだ、と視聴者が受け入れてからじゃないと視聴が始まらない。

つまり、もともと現実そのものだと思って視聴をしていない。創造的処理/劇化があってしかるべき、と受け入れた上で視聴者が見ているのがリアリティショーなのだ。リアリティショーという言葉の曖昧さが、その見方を許容する。先にも述べた通り「現実に創造的な処理/劇化を加えたものである」という定義は、ドキュメンタリーではなくリアリティショーの定義だと考えると、違和感なく受け止められるのだ。

一方で、ドキュメントバラエティは、多くの人が処理/劇化に無自覚、むしろ処理/劇化がゼロのドキュメンタリーだと思って見ている。言い方を変えれば、こちらは「リアル番組」なのだ。ここに曖昧さやグラデーションはない。だからこそ処理/劇化が発覚したときに怒るのだ。

ちなみに、リアリティショーに見慣れた人の褒め方に「編集がうまいわー!」といったものがある。例えば「今回のバチェラーは別の人を選ぶと思ってたのに、違った!すっかり編集に騙された!」といったような言葉を、視聴の快感を表すフレーズとして使う。つまり、リアリティショーの視聴者は、編集ありきで番組を見ている。創造的処理/劇化があるとわかった上で、それを踏まえて楽しんでいるのだ。この楽しみ方は、映像を見るリテラシーが高いと言ってもいいだろう。

このリテラシーの高さは、リアリティショーが配信サービスをきっかけに人気が爆発したことにも起因している。テレビで見るドキュメントバラエティと、配信サービスであるリアリティショー。ニュースや情報番組なども多く流れる上に、長らくドキュメントバラエティの歴史を作ってきたテレビよりも、配信サービスで膨大なフィクション作品の中に混じって出てくるリアリティショーは、視聴者の側に、よりフィクション寄り・ショー寄りの見方をする耐性ができている。非現実の世界に行く心の準備ができているのだ。

また、ドキュメントバラエティの盛り上がりが90年代で、リアリティショーが盛り上がり始めたのが2010年代半ば以降と、時間が経っているのも、見方をリセットする役割を果たしたと言えるだろう。特に恋愛系のリアリティショーのメインの視聴者層を若者だとすると、その若者自体も入れ替わっている。時代とともにリテラシーが進化してきたとも言えるかもしれない。

とはいえ、本質的には同じものにも関わらず、ドキュメントバラエティという括りだとやらせが大問題になるのは、やはり呼び方の問題と言っていいだろう。それほどドキュメンタリーという言葉は強い。強いがゆえに、100年以上認識が刷新されていないと言ってもいいのである。

ここまで時代に伴うリテラシーの進化や、ある程度のリテラシーの高さをもってリアリティショーを見られる人の話をしてきた。だが、一方で、リアリティショーがどんどんと流行していくことで視聴者層が拡大。その中には、リアリティショーのショーの部分やティ(っぽさ)の部分を忘れ、完全なリアルだと思って見てしまう視聴者も現れ、そこに起因する問題も起こり始めた。すなわち、リアリティショーをドキュメントバラエティ的に見てしまうことによって起こる問題と言っていい。

筆者が出演して感じた「ドキュメンタリーは嘘をつく」

ここまで「ドキュメンタリーは現実を映すのか」という疑問をずっと引っ張ってきた。その疑問についての答えとして、ここでまた僕の実体験の話をさせてもらいたい。

筆者はNHKのドキュメンタリー番組2つに出演したことがある。

ひとつは、NHKスペシャルの『君の声が聴きたい~若者が願う 幸せのカタチ~』(2022)という番組だ。ミスキャンパスコンテストなどを見て、ルッキズムに悩む女子大生が、タレントのりゅうちぇるさんに相談をし、2人で僕の家にやってくる。そこで、僕が美人コンテストなど見た目で人が選ばれてきた歴史を解説し、2人と対話するという内容だ。

撮影場所は僕の家で、2人がやってくるのを待つかたちとなった。前日に、まずは解説用のホワイトボードが持ち込まれた。さらに、カメラマンさんやディレクターさんなど、見知らぬ大人たちが数人、家にやってきた。初対面の人だらけだ。この時点で、既に〝普段の家〟でもなければ〝普段の自分〟でもない。そしてそこに、タレントと女子大生がやってくる。もちろん、普段の生活で、うちにタレントも女子大生もやってこない。

そこから2人と話した内容は全て現実だ。ホワイトボードで解説してから対話するという大まかな流れは決まっていたものの、そこで生まれた疑問を2人はぶつけてくれ、僕もその場で生まれたものを返した。もちろん台本などない。

ただ、普段は家では部屋着で過ごしているが、テレビに映っても大丈夫そうなジャケットを着たし、持っていたりゅうちぇるさんの本を、本棚の目立つ場所に移動したりもした。何より、自分の部屋に多くの大人がいて、大きなカメラもあり、音声さんまでいるという状況はかなりの非日常だ。普段通りの自分でいられたとは言えない。

では、人やカメラの圧がない場合はどうだろうか。実はそれも経験がある。同じくNHKで2019年から放送されていた『金曜日のソロたちへ』という番組は、ひとり暮らしの人たちの生活の様子を映すドキュメンタリー番組だ。

事前の打ち合わせで、お世辞にも綺麗とはいえない僕の部屋を下見に来たディレクターさんには「日常そのままを撮りたいので特に掃除とかしなくていいですよ」と言われたものの、さすがに全国に放送されると思うとそのままにはできず、掃除をしてしまった。

当日はスタッフの人たちがやってきて、僕の部屋の中に置き型のカメラをセッティング。トイレと風呂場以外は全てカメラに映るという状態が完成した。セッティングが終わると、彼らはいなくなり、僕は部屋にひとりになった。

そこから一夜を過ごしたが「今、自分は撮られている」という感覚は消えることはなかった。普段は、ついリビングで服を脱いでしまったりする人間だが、さすがに風呂場まで行ってから脱いだ。読書をするにしても、つい、どんな本を選ぶかまで見られているという意識が脳内をかすめ、本棚から本を選ぶ手に影響を与えてしまう。純粋な大人に見えるかなと思って10年ぶりくらいに『星の王子さま』を手に取ってみたりした。眠るまでが撮影なので、ベットに入り電気を消した瞬間、「ああもう映っていない」と心が休まった気がした。つまり、ずっと気が張っていたということだろう。

どちらの番組でも、その日に起きた現実が、放送された番組で映っていた。だが、それが〝真実〟なのかと言われると自信がない。もちろん、自分や自分の家が映っているし、リアリティはある。だが、それがリアルなのか、現実そのものと言い切れるのかと問い詰められれば、答えはNOである。タレントやスタッフがその場にいる場合はもちろん、彼らに対応する自分になるし、いなかったとしても、カメラを意識した自分に変質する。それを「ありのままの自分です!」とは到底言うことができない。事実・真実・現実……どの言葉を当てはめてもちょっとズレはある。とはいえ、100%フェイクですよ、というわけでももちろんない。

ここで僕は映画監督の森達也さんが言っていたことを思い出した。その名も『ドキュメンタリーは嘘をつく』という著書の中で、こう述べている。

撮られる側は演じる。つまり嘘をつく。自覚的な嘘の場合もあれば、無自覚な場合もある。(*7)

ここに書かれている通りだ。僕自身、撮られる側になって思ったが、自覚的にも無自覚にも嘘をついていたのである。先に自分で思いついた嘘を書いたが、まだ自分でも気づいていない嘘もあるだろう。森さんはさらにこうも述べている。

ドキュメンタリーが描くのは異物(キャメラ)が関与することによって変質したメタ状況

そう、カメラが関与することで、現実は変質する。カメラによって映されることで、すべての〝リアル〟は〝リアリティ〟に変わるのだ。

ここまで、「ドキュメンタリーが映すのは現実そのものなのか」という問いに、実際に撮られたときの具体的な話をもとに、ひとつの答えを出した。撮った段階で、既に〝リアル〟ではなく〝リアリティ〟に変わっている、というのが答えである。

「リアル」を「リアリティ」に変換する

だが、実際は撮るだけではない。そのあとに編集という行為が入る。

わかりやすいのは、時間だ。『NHKスペシャル』では3時間はかけて撮ったものが10分弱に、『金曜日のソロたちへ』では夕方から寝るまでの約10時間が20分ほどに編集されていた。もちろん、そのとき起きたことの全ては映せない。放送された番組では僕が『星の王子さま』を読んだ気配は全く感じられなかったし、りゅうちぇるさんが僕の家の壁紙の色を褒めてくれるという個人的にかなり嬉しかった瞬間も当然、映ってはいなかった。

実際にその場にい続けた人と、編集された番組を見た人では印象が異なるはずだ。それが悪いと言っているのではない。そういうものなのである。

当然、その限られた時間の中に何を残すのかというのも印象を左右する。『NHKスペシャル』で言えば、3時間も話せば、僕の話を聞いてくれた2人が、笑うところも、同意することころも、疑問を呈するところもある。当然、タレントとして場慣れした、りゅうちぇるさんのほうが女子大生よりもリアクションはいい。リアクションひとつとっても、誰を・どこを使うかで、僕の話の印象は大きく変わるが、そのチョイスの権限はディレクターの手に委ねられている。出演する側の〝見せたい自分〟通りになることは不可能と言っていいだろう。

カメラに映されるということ、そして編集を通してそれが番組になって放送されるということ。それは、〝リアル〟が〝リアリティ〟に変わるということなのだ。

〝リアル〟ではなく〝リアリティ〟という話は、先のフィクションとドキュメンタリーの境界線といった話にも通じてくるだろう。先に紹介した黒沢清の「どう考えても、ドキュメンタリーとフィクションの境目はないですね」という言葉はこう続く。

「ドキュメンタリーって言ったって、ある程度ヤラセはあるでしょうし、フィクションって言ったって、まったく偶然起こることはたくさんありますから。程度の差はあっても同じですね。ましてや、あとでそれを編集するという作業は、全くドキュメンタリーもフィクションも同じだと思います。そこであるものを構築していくわけですね」(*3)

カメラに映されること、そして編集を通すことで〝リアル〟は〝リアリティ〟に変わっていく――。これを、見る側や出る側、そして作り手の側はどう考えているのだろうか。

まず、見る側=視聴者に関して言えば、〝リアリティ〟を〝リアル〟だと思ってしまったときに問題が起こる。その代表例が、番組という〝リアリティ〟を見て生まれた怒りの感情を、SNSなどを通して出演者本人という〝リアル〟にぶつける行為だ。それは、ドキュメントバラエティという言葉が残した負の遺産と言ってもいいかもしれない。誹謗中傷として、ときに出演者を自殺に追い込むこともあり、社会問題になっている。

出演者本人にとっては、自分を基にはしているが自分そのものではない〝リアリティ〟の自分を観た人たちが、〝リアル〟の自分そのものを攻撃してくるという構図なわけで、その対策法すらわからないはずだ。

ここでは、かなりの字幅を使って〝リアル〟ではなく〝リアリティ〟である、ということを説明してきたが、それを各出演者がSNS上で行うのは難しいだろうし、したところで聞く耳を持たずに叩いてくる人もいるだろう。これは〝リアリティ〟なのだという自覚を持ってみることは、リアリティーショーの視聴者が持つべき最低限のリテラシーなのである。

また、具体的に何が起こったか、実際はどうだったかという背景は、出演の契約時に公にしないように契約を結んでいる場合もある。基本的に、出演者は〝リアリティ〟が独り歩きしていっても、〝リアル〟を説明できない状況にある。ときに、その契約を破棄して〝告発〟する人もいるが、それも、自分が撮影時に経験した〝リアル〟と、番組を通して観る〝リアリティ〟の乖離に驚いている証拠とも言えるはずだ。

だが、やはり、初めてリアリティショーに出演するとなった場合、そんなことは予測するのは難しいだろう。これから自分が挑むものは〝リアル〟なのか〝リアリティ〟なのか。それが他者に見られたときに、どちらに受け取られるのか。そこまで自覚的にはなれないはずだ。

余談だが、出演者自身が、自分が出演するということをどう捉えているかが垣間見える瞬間もある。たとえば『バチェラー/バチェロレッテ』の場合でいえば、異性を選考する立場であるバチェラー/バチェロレッテ側が、番組を「自分のドキュメンタリー」だと捉えているときは、本当に好みの人を残していく傾向にある。

逆に「ショー」だと捉えているバチェラー/バチェロレッテは、そんなに好きではなくても、面白いことを言ったり、他の出演者との調和をかき乱したりするような人も意識的に残したりする。

つまり、番組をショーとして面白くできる人を、より長い時間出演させようとするのである。そのタイプは、自分は主演でこそあれ、演出家ではないことの自覚がある。だからこそ、自分に権限があるキャスティング(誰を残すか)で、ショーの面白さに寄与しようとするのだ。

ドキュメンタリーは主観である

さて、ここでは、森達也さんの「ドキュメンタリーは嘘をつく」というフレーズを借りながら、論を進めてきた。森さんは、テレビドキュメンタリーからそのキャリアをはじめ、オウム真理教の信者を被写体にした『A』や佐村河内守を撮った『FAKE』などのドキュメンタリー映画、そして近年では『福田村事件』などの劇映画も高い評価を受けている。

森さんは、ドキュメンタリーが持つ加害性にも自覚的だ。『A』では、転び公妨という明らかにマズいことをしている警察官が出てくるのだが、そんな男に対しても、家族がいたら子どもがいじめられるかもしれない、など憂慮する。公開前には、作品がそういった他者を加害することに怯えていたことなど、著書の中では、その煩悶や自問自答の様子が克明に記録されている。

15年の間、単独のドキュメンタリー監督作品がなかったことに関しても「ドキュメンタリーは人を傷つけるから、1本とるとHP(ヒットポイント)がゼロになる。『A2』でも、いっぱい人を傷つけているし、『A』『A2』と続けて2本撮ったから、もうゼロというか、マイナスになっていて。しばらくドキュメンタリーは撮りたくない、っていう状況になっていた」と語ってくれたこともある。(*8)

筆者自身、学生時代に森さんの講義を受けており、森さんには尊敬の念を抱いている。傾倒していると言ってもいいかもしれない。ここに書いたことも意識的・無意識的に関わらず、強く影響を受けているはずだ。そして優れたドキュメンタリストには、多かれ少なかれ、森さんのような思考が通底している。

真実は映せるのかを問い、自分の勤める局の中にカメラを向けた『さよならテレビ』を監督した東海テレビの土方宏史はこう断言する。

「被写体との間にカメラを入れた段階で、そこには作り手の意図が入る。作り手がいる以上、偏っていない表現なんてない」(*9)

たとえば『さよならテレビ』では、土方と同じ東海テレビの社員が、嫌な人たちにも見える構成だが、そう感想を告げると「そう見えるように意図的に編集した部分もあります」とも語っていた。(*10)

筆者は編集長を務めるWEBメディア・チェリーで、森さんや土方さんを含め多くのドキュメンタリストを取材してきた。そのときに基本的には、この森さんや土方さんのようなスタンス――客観的な表現など存在はせず、全ては作り手の主観によって構成されている――で取材に臨んでいた。

だが筆者が取材している際に、「ドキュメンタリーは主観である」という価値観に対して明らかに不快感を表したり、怒ったりするドキュメンタリー作家もいた。つまり、全員が森さんや土方さんのような自覚をもってカメラを回しているわけではないのだ。

これはあくまでも筆者の私見だが、作り手の主観を否定するドキュメンタリー作家の多くは、テレビ局の報道出身である場合が多い。彼らの中には、報道は客観的であるべきという思想が強く根底にあるからこそ、自分の作品を主観の表現のカテゴリに入れられるのが嫌だったのかもしれない。報道の血が入った人が、客観性にこだわりたい気持ちは否定しない。特に公共の電波を使用するテレビ報道では、客観的であろうとする意識は必要なはずだ。

ただ不思議と客観性を強調する作家の作品に限って、解釈の余地があるというよりも、啓蒙したいメッセージが明白なものが多い。観客に委ねるというよりも、特定の価値観に誘導する道筋が明確に見えてしまうのであるだ。もしかしたら、主観であることの背徳感があり、客観性を装いたいという思いが、僕の指摘に対して、不快な表情を作り出したのかもしれない。報道で「客観的であるべき」という教育を受けすぎて、主観での表現であるドキュメンタリーに向き合えていない可能性すら感じた。

一方で、逆に、土方さんはヤクザを被写体にした『ヤクザと憲法』を撮った際に「自分でも不思議なんですが、この作品を見てこう思って欲しい、というのはないんです。(中略)彼ら(筆者注:ヤクザ)も僕らと同じ人間ですよ、ということさえ、なんとなく伝われば、あとは見た人がどう思ってもいい」(*11)と語るなど、見方を限定するスタンスをとらない。先に紹介した「偏っていない表現なんてない」というスタンスと、一見矛盾するように感じるかもしれないが、むしろ、そもそもの表現は偏っているという自覚にたどり着いているからこそ、受け手に取り方を委ねる余裕が生まれるのかもしれない。

僕のこの「ドキュメンタリーは主観の表現ですよね」というスタンスは、局所的な流行語――ひろゆきの言うところの「それってあなたの感想ですよね」――に近く聞こえるかもしれない。人を論破するための言葉としては、僕はこの言葉は好まない。たが、究極的にはあなたの感想の集積が作品になる。作り手に必要なのは、それが、自分の感想であることを隠す態度ではなく、考え抜かれた感想であることを堂々と開示し、それを世に対して問うような覚悟なのではないだろうか。

そもそも、自分のフィルターを通す以上、〝リアル〟そのものを伝えることは無理で、それらはすべて〝リアリティ〟になってしまうのだから。

「これこそが〝リアル〟だ!」と断言する傾向は、最近はSNS上でも多く散見される。だが、何かを他者に発する以上、〝リアリティ〟であるという自覚をすることが、表現をする上で、少なくとも持っておくべき誠実さなのかもしれない。

そして、言葉として「これは完全な〝リアル〟ではないですよ」と先に宣言しているに等しい、リアリティショーという言葉は、やはりひとつの発明だと思うのだ。

(次回へつづく)

【引用・参考文献】
*1 TBS系列『情熱大陸』2025年6月22日放送
*2『ゴダール 映画史(全)』筑摩書房 2011
*3『曖昧な未来、黒沢清』2003年公開・藤井謙二郎監督
*4 日本経済新聞 2021年10月10日 ドキュメンタリーかつフィクション 濱口竜介のたくらみ ドキュメンタリー映画新時代(1)
*5ゲンロンYoutube「ドキュメンタリーはどこへゆく──『ゆきゆきて、神軍』から『水俣曼荼羅』まで」2023/4/28収録 https://www.youtube.com/watch?v=6GmIPzONQm4
*6永遠のオトナ童貞のための文化系WEBマガジン・チェリー『指南役のTVコンシェルジュ第56回 サブカル論(後編)』https://social-trend.jp/57717/ 2025年02月16日
*7 森達也『それでもドキュメンタリーは嘘をつく』角川文庫・2008
*8 永遠のオトナ童貞のための文化系WEBマガジン・チェリー 「佐村河内守の純愛映画として撮っています」森達也が語る『FAKE』https://social-trend.jp/26701/ 2016年06月14日
*9 日本経済新聞2021年10月10日 企画書1枚、熱意100% ドキュメンタリー監督圡方宏史 ドキュメンタリー映画新時代(2)ドキュメンタリー映画新時代 
*10 永遠のオトナ童貞のための文化系WEBマガジン・チェリー 「“弱い人を忘れたテレビ”はサヨウナラ」東海テレビ・内部からの提言https://social-trend.jp/54040/ 2019年12月27日
*11 永遠のオトナ童貞のための文化系WEBマガジン・チェリー 東海テレビドキュメンタリー新たな意欲作『ヤクザと憲法』監督独占インタビュー https://social-trend.jp/21818/) 2015年12月31日

 第2回
リアリティショー化する社会

いま世界中でさまざまなヒットコンテンツが生まれている「リアリティーショー」。恋愛、オーディション、金融、職業体験など、そのジャンルは多岐にわたり、出演者や視聴者層の年齢も20代のみならず50代・60代以上にも開かれつつある。なぜいまリアリティショーが人々に求められているのか。芸能コンテンツの批評やウェブメディアの運営を行ってきた著者が代表的な番組を取り上げながら、21世紀のメディアの変遷を読み解く。

プロフィール

霜田明寛

しもだ あきひろ

エンタメライター、編集者。1985年生まれ、東京都出身。早稲田大学商学部卒業。9歳でSMAPに憧れ、18歳でジャニーズJr.オーディションを受けた「元祖ジャニオタ男子」。大学在学中に執筆活動をはじめ、3冊の就活・キャリア関連の著書を出版した後、タレントの仕事哲学とジャニー喜多川の人材育成術をまとめた4作目の著書『ジャニーズは努力が9割』(新潮新書・2019)を発売。3万部突破のロングセラーとなり、今も版を重ねている。カルチャーWEBマガジン「チェリー」の編集長を務めるなど、エンターテインメント全般に造詣が深く、テレビ・ラジオをはじめ多くのメディアに出演・寄稿している。また、音声配信サービス・Voicyでの自身の番組『シモダフルデイズ』は累計再生回数250万回・再生時間 20 万時間を突破し、人気パーソナリティとしても活躍中。近刊に『夢物語は終わらない ~影と光の”ジャニーズ”論~』(文藝春秋)。

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