1.日本で最初の「積ん読」本こと「円本」全集
●円本の成功と驚異の初版部数
1923年、関東大震災が日本を襲った。
それは出版業界にも、当時広がりつつあった民衆の読書文化にも、大打撃を与えた。火災によって書籍も、書籍になる前の紙も、たくさん燃えた。書籍の値段も上がる。そもそも第一次世界大戦後の物価高騰によって書籍の価格は急上昇していたのだ。これ以上単価が高くなってしまっては、せっかく本を読もうとしていた民衆が手を出せなくなる。そして不況によって雑誌の売れ行きも落ち込んだ。
つまり大正末期――出版界はどん底にあった。
そんな出版不況どころの話ではない出版界に革命を起こしたのが、「円本」だった。
それは、倒産寸前だった改造社の社長がイチかバチかの賭けに出た結果だった。円本は、日本の読書を変えることになる。
近代日本出版史について書こうとすれば、昭和初期は「円本」を語らずして通り過ぎることはできない。なぜなら「円本」はなんと初版20~30万部という信じられない大部数で始まったからだ。
たとえば、現代においても東野圭吾の小説『白鳥とコウモリ』(幻冬舎)が重版を重ねて20万部というのだから、初版で20万部ってそりゃちょっと大判振る舞いすぎないか、と私なんかは慄いてしまう。いくらベストセラー作家の作品が入っているとはいえ、初版20万部はちょっと多すぎる。
だが改造社の円本は、結果的にその20万部という初版大部数を可能にし、大成功して更に部数を伸ばした。
1926年12月、つまり大正の終わり、昭和が始まるとともに突風のように始まった「円本」ブームは、日本の読書風景を変えたのだった。
この「円本」とは何だったのだろう?
要は「全集」のことだったのだが、前章で見たように、大正時代から日本に登場した、会社で働くサラリーマンたちが、せっせとこの「円本」を集めていたようなのだ。
●改造社の『現代日本文学全集』の大博打
円本という言葉の由来は、1冊1円というその料金による。
円本を日本で初めて売った、改造社の『現代日本文学全集』――それは当時の日本の作家たちの「これを読んどきゃ間違いない」という作品集だった――はまず予約募集制をとった。つまり「予約した人しか買えない」うえに、「欲しい巻だけを買う」こともできず、さらに「全巻を買うことが必須」という思い切ったシステム。消費者の身になると、全巻予約必須とはなかなか思い切ったシステムだと思うのではないだろうか? 現代ですら、読んだことのない名作漫画全集を全巻予約必須と言われても躊躇ってしまうように感じる。
しかし出版社側には、この「全巻予約必須」システムに踏み切るだけの理由があった。
一冊一円、という価格設定は、当時において破格の金額だったのだ。
当時、書籍の単行本は2円~2.5円が相場だった。しかも『現代日本文学全集』には、通常の単行本の4~5冊分の量が収録されている(現代の文庫本でいうと、約5冊の文字数だ)。つまりは10分の1ほどの値段だった。安い。ものすごく安い。
出版社側はその安さを初版部数の多さで補うという大博打を目論んだのだった。そしてその博打は大勝利に終わる。予約読者は23万人を超えた。結果的に募集を繰り返し、40~50万の予約に至ったという。改造社は当初全37巻、別巻1冊だった出版計画を変更する。結果的には全62巻、別冊1巻に及び、6年以上かかって刊行は完了した。
そしてこの「円本」システム、つまりは全集をまとめて安く売ることの大成功っぷりに驚いた他の出版社も、さまざまな円本全集を刊行した。それは現代日本作家の作品に留まらず、海外文学篇や思想篇に至るまで、多様なジャンルの全集ブームとなっていった。
戦前は、本が安くなって、みんな本を読むようになった時代だった。そこにはこの円本という仕掛けがあった。
そして戦前のサラリーマンたちは円本を購入していたのだ。サラリーマンが本を買うようになる文化も、円本全集の登場を契機に、本格的にこの時代から始まるのだった。
しかしなぜこの「円本」システムは成功したのだろう? 値段が安くなったからといって、皆が突然、本を買うようになるだろうか? そこまで豊かではない家計と忙しいはずの時間のなかに、どこに『世界文学全集』を買うモチベーションがあったのだろう?
今回はこの昭和初期の円本ブームと、戦前のサラリーマンの読書の風景に迫ってみたい。
●円本ブーム成功の理由①「書斎」文化のインテリアとしての機能
一、本全集あれば、他の文芸書の必要なし。
二、総額一,〇〇〇円のものが毎月たッた(原文ママ)一円。
三、内容充実し、普通版の四万頁に相当す。
四、明治大正の不朽の名作悉く集まる。
五、菊判六号活字総振仮名付最新式の編集法。
六、瀟洒な新式の装幀で書斎の一美観。
七、全日本の出版界は其の安価に眼を円くす。
八、本全集あれば一生退屈しない。
これが『現代日本文学全集』の内容見本に挙げられた、八つの特色だった。注目したいのが、「瀟洒な新式の装幀で書斎の一美観」つまり“書斎”に置く本として美しいインテリアであることを強調している点だ。
塩原亜紀は、2002年の論文「所蔵される書物――円本ブームと教養主義」で、当時中流階級の間で増えていた和洋折衷住宅において、洋式の「書斎」の部屋が誕生し、さらにその「書斎」は「応接間」の役割も兼ね備えていたことを指摘する。つまり家に客人が来た時に、書斎の本棚を見せるような設計になっていた。そして当時の本棚にぴったりだったのが、円本だったのだ。
実際改造社の『現代日本文学全集』の装丁を担当した杉浦非水は、「室内装飾」の中に書物をいかに入れてもらうか? をコンセプトとしていたと語る。たしかに単行本をそれぞれ買って並べるよりも、統一された全集の背表紙のほうが、インテリアとして映える。円本は当時増えていた洋式の部屋にインテリアとして重宝されたのだった。
このような実情は当時既に揶揄されていた。1928年(昭和3年)の『出版年鑑』は「現在は、いわゆる円本が読まれるよりは飾られ、貯えられるために出版され、購求されている観がある」と書かれてある。つまり「円本は読まれてない、飾られているだけだ」という指摘である。
当時、本を読んでいることは、教育を受け学歴がある、つまり社会的階層が高いことの象徴だった。中高等教育を受けた学歴エリート階層=新中間層が、労働者階級との差異化のために「教養としての読書」を重視していたことは、前回に見た大正時代から続く傾向である。そう、ずらりと本棚に並べられる円本全集を予約購入することは、「実際に読まなくても読書している格好」をするための最適な手段だったのだろう。
読書することで自分の階層を「労働者とは違うんだ」と誇示したい新中間層=当時のサラリーマン――それはまさに出版社が円本全集のターゲット層として狙っていたのだった。
たとえば新潮社が出した円本全集『世界文学全集』の新聞広告には、こんな宣伝文句が掲載されている。
丸ビルだけでも一万幾千人からの勤め人が居られますが、その方々の悉くが私共書店として一番の得意である読書階級でありますので、お昼の時間なども実物見本の引っ張り合です。
(『東京朝日新聞』1927年2月10日に掲載された『世界文学全集』の広告における書店員の言葉)
書店員の言葉を載せる新聞広告の手法は今も昔も変わらないのだな、と微笑ましくなってしまうが。それはそうとして、この書店員が述べている「読書階級」という言葉に着目したい。
丸の内のオフィス街で、お昼の時間に書店に寄るようなサラリーマン――つまり労働者階級ではない新中間層にこそ、全集を買ってほしい、そのような出版社の狙いが見て取れる。出版社としても、「新しく家を持つような少しお金を持ったサラリーマンが書斎に置いて自慢する材料」としての円本全集を企図していたのだ。
そしてそれは当時の日本に登場したサラリーマン層の需要とぴったり噛み合っていた。自分は労働者階級ではない、自分はちゃんとした家のちゃんとした主人なんだ、と誇示したい当時のサラリーマン層にとって文学全集は打ってつけのインテリアであった。
時代の風と、的確な企画意図。その噛み合わせの妙によって、円本全集はサラリーマンの家のインテリアとして君臨することに成功したのだ。
●円本ブーム成功の理由②サラリーマンの月給に適した「月額払い」メディア
永嶺重敏は「モダン都市の〈読書階級〉–大正末・昭和初期東京のサラリーマン読者」(1999年)で、労働者や農民に比べ、新中間層は恵まれた給与水準であった――それが彼らを「読書階級」に押し上げた一因であると述べている。だが、冷静に考えて、いくらサラリーマンが安定した給料をもらっていても書籍に無限の金額を注ぎ込めるわけではない。
戦前の給与制度について詳しい岩瀬彰は『「月給100円サラリーマン」の時代: 戦前日本の〈普通〉の生活』(筑摩書房、2017年)で、戦前サラリーマンの給料を「月給100円」だったと解説する。ビール大瓶は35銭、総合雑誌は50銭、新聞は1か月1円だった時代のことだ。だとすれば円本全集の1冊1円は、現代でいえば1冊2000円ほどである。そこまで高くもないが、安くはないのではないだろうか。もちろん円本登場以前の文学書の高さから比べると破格であろうが……それにしたってサラリーマンのファッションアイテムとしてバカ売れするほど安くないんじゃないか、という気にもなる。
なぜ当時のサラリーマンは1冊1円の円本全集を買おうと思えたのだろうか?
これについては、円本全集が現代の〈サブスク〉と同じシステム――つまり月額払いだったことが大きく関係している(谷原吏『〈サラリーマン〉のメディア史』慶應義塾大学出版会、2022年)。
日給払いの労働者とは異なり、当時のサラリーマンは(今もそうだが)月給払いだったのだ。そう、円本は、月々に料金を支払うシステムだった。つまり月給払いのサラリーマンにとって、単発でそれぞれ料金を払う単行本よりも、逆に給料日と共に「毎月いくら」という形で支払う円本のほうが、財布のひもが緩むのだ。月給支払いと月額払いは相性がいい。それは現代において尚ほとんどの定期支払いが月額であることを考えると、納得できることだろう。昭和の戦前にすでにその制度を作っていたのは驚嘆するが。
ちなみに、同じく月額で定期的に支払うメディアといえば、当時は雑誌があった。だが当時、1925年(大正14年)に創刊された雑誌『キング』の流行などもあり、雑誌というものはかなり「大衆的で誰でも読める読み物」というイメージがついていたのだ。その点、円本全集は見た目も内容も、「教養のある家庭の人間だけが読める読み物」というブランディングがしっかりなされていた。
月額払い、つまり給料が入って来るタイミングで支払うことのできる円本全集は、まさに出版社がターゲットとするサラリーマン層の懐事情を考慮したシステムだったのだ。
●円本ブーム成功の理由③新聞広告戦略、大当たり
円本には大量の宣伝費がつぎ込まれた。新聞・雑誌の広告、内容見本、そしてビラなど、あらゆる宣伝方法を駆使した。これは円本が薄利多売の売り物だったことが一因にあるが、円本のおかげで書籍の宣伝や書店と協力して売るシステムなどがかなり発達したのだった。
改造社の『現代日本文学全集』の第一回配本の『読売新聞』広告は、なんと新聞一面を使って、〈善い本をより安く読ませる! この標語の下に我社は出版界の大革命を断行し、特権階級の芸術を全民衆の前に解放した〉というキャッチコピーを載せている。そしてこれが成功したことにより、広告合戦は円本が増えるにつれ加速したのだった。
実際、新聞の広告で円本全集の存在を知った人も少なくなかったらしい。文芸評論家の中村光夫(『私の読書法』)は、両親ともにまったく文学に明るくなく、そもそも書物は10冊も持っていない家庭に育ったが、「ある日新聞の大きな広告を見て、新潮社の『世界文学全集』をとることに決心」したと語っている。大きな新聞広告の効果は絶大だったことがよく分かるエピソードである。
戦前の新聞の購読率は、大学卒であれば65%ほどだった(山本武利「戦前の新聞読書層調査」『関西学院大学社会学部紀要』29号、1974年)。そう考えると、たしかに新聞への広告は、「円本全集を買ってほしい層」つまりある程度新聞を読むくらいの教養と社会への興味がある層に届けるメディアとして、ぴったり合致するだろう。
一方で、円本ブームが円熟するにつれ、新聞広告は出版界の泥沼を露呈する場でもあった。というのも『小学生全集』(全88巻、興文社、菊池寛と芥川龍之介の編集)と『日本児童文庫』(全76巻、アルス、北原白秋編集)は、どちらも児童向けの全集ということで、ターゲットと内容がぴたりと競合した。するとアルスが興文社に対して「企画を盗んだ」という名目で訴え、両全集の責任編集者(菊池と北原)は新聞紙上で攻撃しあったのだった。どちらも引くに引けなくなった両社は、ある日の新聞の広告欄をこの二つの全集で埋め尽くした。つまりは新聞広告合戦をやってのけたのである。泥沼である。
結局、広告費で損害を被った両社は、どちらも収益マイナス終わったらしい。芥川の自殺はこの事件が契機の一つでもあったのではと言われており、なんとも悲しい末路である……
ちなみに作家にとっては、再録も多かった円本は多大な収入源となったらしく、永井荷風や谷崎潤一郎はこの円本の登場によって大いなる高収入を得たと言われている。島崎藤村も円本で得た収入を子どもたちに配分する短篇小説を書いており、やはり当時の作家たちの大きな収入源となったことは確かであろう。
2.円本は都市部以外でも読まれていた
●円本=日本で最初の「積読」セット?
まとめると、円本は新中間層という新しい階層のある種のファッションアイテムとして機能した。そこには出版社の支払い制度への工夫と広告戦略が功を制していた。
円本が出る以前、明治時代や大正時代に高価な書籍を自ら購入し本棚に並べる人々はエリート階層のなかでも稀少であった。庶民の多くは、小説といっても新聞連載で触れる程度だっただろう。当時のエリート階層であるサラリーマン層ですら、総合雑誌で教養を得ることはあれど、高い単行本を買う余裕は存在しなかったのだ。つまり「そもそも本を購入し読書するという習慣がない」層が多かった。だが震災後、彼らにとって円本という存在が現れたことによって、「とにかくこれだけ集めたらOK」という本のパッケージが用意されたことは大きかった。
そう、「教養によさげな本を読みたい・買いたい」という需要はあったのだ。だが値段も高く、それでいて内容が良いかどうか分からない。そんな状態では本は買えない。当時の出版社が円本という形で提示した、「とにかく安くて・買いやすくて・これだけ読んで並べておけばいい」全集を売る戦略は、間違っていなかったのだ。
本をひとつひとつ選んでいる暇なんてない。そんなに高い本も買えない。だが教養的な存在は手に入れたい。そんな需要のある層に対し、全集というパッケージそのものを、出版社側が「これだけ読んでおけばOK」な本たちを、渡す。円本はこうして日本の読書人口を増やすに至ったのだった。
よく「料理が嫌いなわけではなく献立を考えるのが面倒だ」という声があるが、そういう意味で「今月の献立=おすすめの名作はこれだ」と送るのは、たしかに読書に慣れていない人であればあるほどありがたいパッケージではないだろうか。
●農村部でも読まれていた円本
だが、はたして購入された円本は、どれだけ読まれていたのだろう?
さすがに購入された円本のうち「積読」率がどれだけ高かったのかは分かっていない。が、戦前の円本にまつわる言説を集めた植田康夫の研究(「<円本全集>による「読書革命」の実態―諸家の読書遍歴にみる―」『出版研究』14号、1983 年)では、「親や親戚が購入した円本全集を、子どものときに読み耽っていた」という体験談が多々寄せられている。まさに、親の世代は円本を買っただけで実際に読みはしなかったかもしれないが、本棚に円本を並べて「積読」しておいたおかげで、子に読書習慣がついたという例が大量にあったのである。
そして書店で購入された円本全集は、ブーム終了後、大量に古本屋や露店に出回っているのを見て取れたらしい(永峯重敏『モダン都市の読書空間』日本エディタースクール出版部、2001年)。これは円本が実際に読まれた末に売られたのかもしれないし、むしろ読まれることがないから売られたのかもしれない。
しかし当時古本屋に出回ったことが、むしろ円本の寿命を延ばした。
都市部のサラリーマンたちが購入した円本は、価格が大幅に下がった「古本」という姿で、より貧しい労働者や農民層へ、渡ることになったのである。
たしかに円本のなかにはルビが振られているものも多いため誰でも読みやすく、さらにしっかりとした装幀は古本になってもボロボロにならずに読むことのできる、寿命の長い書物だった。円本はおそらく出版社が想定した以上に長い時間、そして多くの地域で、多くの人々に読まれたのだ。
植田(1983)は作家の瀬戸内晴美や黒井千次、そして政治学者の志水速雄の語りを引用しつつ「円本は都市部だけでなく農村部においても広く読まれていた」「村のインテリから借りたり、古本屋で買い集めたりした人々によって、農村部でも読まれていた」例を示している。
それは雑誌という保存性の低いメディアではなし得なかった、書籍だからこそ可能だった読書体験だったのだ。
たしかにインテリアとして「積読」されることも多かった円本だが、それは回りまわって、古本屋や親戚・知人間の貸し借りを経て、農村部で文学にはじめて触れる読者を多く作り出したのだ。
3.円本のアンチテーゼ・大衆小説
●「受動的な娯楽」に読書は入るか?
本連載の冒頭では、現代の映画『花束みたいな恋をした』で読書ではなくスマホゲーム〈パズドラ〉に興じるサラリーマンの姿を示した。しかしこの〈パズドラ〉は、戦前においては〈演劇や映画〉といった受動的な娯楽、あるいは〈大衆向け雑誌〉といった娯楽要素の大きい雑誌を読むことだ、と言われていた。
というのも、戦前の労働と余暇の関係について調査し提言を行っていた社会学者・権田保之助は、日本の娯楽についてこのように述べているのだ。――日露戦争後「金も暇もない」労働者が増えた。その「金も暇もない」消費者こそが、演劇や映画、寄席といった、消費者がお金を払って一方的に受動的に楽しむ娯楽が増えた一因なのだ、と。
権田にとって演劇や映画、寄席は受動的な趣味、という印象だったらしい。現代のスマホゲームを見たら何と言うだろうか、自分からゲームを仕掛けているぶん異なった印象になるのだろうか、と思うが、それはそれとして権田はそのような趣味を「金も暇もない労働者が飛びつく娯楽」としてみなしていた。
ここに「読書」が入らないのは、現代の我々からすると、やや意外に感じる。映画と演劇と寄席、と、読書、は現代であればほとんど同じ括り、つまり「文化的な趣味」なのではないだろうか? それはまさに映画と演劇とお笑いと読書を「文化的な趣味」として置いている『花束みたいな恋をした』を見れば一目瞭然である。
だが当時、「読書」はいまだ、教養のある階層に許された趣味であった。つまり「勉強」そして「修養」の一部だと思われていた。
このような「読書」を教養が必要でエリート階層にしか許されない趣味であるという風潮から解体したのが、円本ブームの後に売れ始めた、大衆向けの小説だった。
●日本のエンタメ小説の幕開け
大正時代末期から、『キング』『平凡』といった大衆向け雑誌が立て続けに刊行され、広く読まれるようになった。それらの雑誌は、前回で見たような『中央公論』などの教養主義を押し出した総合雑誌とは異なり、もっと大衆向けのイメージを強く打ち出していた。
そしてそれらの大衆雑誌においては、小説が多数連載されていた。その小説たちは、のちに「大衆小説」「エンタメ小説」と呼ばれ、「純文学」とは一線を画するジャンルに成長した。そう、日本のエンタメ小説の幕開けである。
そこにあるのは、円本全集に代表されるような教養主義的な読書とは異なる存在だった。映画化されて売れることも多い、きわめて大衆主義的な読書だったのだ。
たとえば現代の「エンタメ小説」といえば、その評価の最高峰である「直木賞」を受賞した小説たちを連想するかもしれない。まさにその「直木賞」の「直木」こと直木三十五こそ、この時代に活躍した小説家のひとりだった。たとえば『南国太平記』(直木三十五、KADOKAWA)は、昭和1桁年代のベストセラーのひとつだった。この時代小説は巻数を重ねるごとに売れ、映画化されてまた売れた。ちなみにこの小説のおかげで直木の月収は1000円を超えたと言われており、通常のサラリーマンが月収100円だとすると、なんとも夢のある話である。
『南国太平記』のほかにも、時代小説はこの時期によく売れた。たとえば吉川英治の『宮本武蔵』も長編だが、巻を追うごとに人気になり、全八巻の普及版の刊行によって初版10万部が完売したという。
また、雑誌『少年倶楽部』に連載された少年向けの軍事冒険物語『敵中横断三百里』(山中峯太郎、講談社)や、雑誌『主婦之友』に連載された『女の一生』(山本有三、新潮社)など女性や子どもたちが読む書籍もベストセラー入りしている。大人の男性だけでなく、さまざまな階層の人が小説を読むようになったことも、戦前の大衆小説の特徴のひとつだろう。
●戦前サラリーマンはいつ本を読んでいたのか?
今挙げたようなベストセラー小説たちは、どれも新聞や雑誌に連載され、それをまとめて単行本化し売れたのだった。そう、この時代に「雑誌や新聞連載で人気が出た小説が、単行本になりベストセラー化する」という流れができていたのだ。
戦前の読書空間について研究した永嶺(1999)は、「戦前のサラリーマンはいつ本を読んでいたのか?」という問いに対して、「週休制の普及による休日数の増加」と「郊外住宅地の発展による通勤時間という名の読書時間の発生」の二点を挙げている。つまり戦前のサラリーマンたちは、企業に決められた休日と通勤時間で本を読んでいたのではないか、ということだ。たしかにそう考えてみると、時代小説がよく売れているのも、当時のサラリーマンが電車のなかで読むのに適したからだと考えると合点がいく。
さらに戦前の日本の労働時間について研究していた安藤政吉(1944)は、著作の中で「一般家庭の理想的な一日」を提言しているのだが、そこで興味深いのは「新聞・雑誌を読む時間=休憩の時間」と「読書などをする時間=趣味娯楽の時間」に分けていることである。
詳細に書くと、「休憩」とは「新聞・雑誌・ラジオ・レコード・運動など」としている。一方で「趣味娯楽」とは「映画・芝居・浪花節・稽古など」を指している。つまり雑誌・新聞は明らかに読書と位相の異なる行為として置いているのだ。たしかに新聞は朝ごはん中に読まれることも多いことを考えると、読書のような集中しておこなう趣味とは違った「休憩」なかもしれない。
しかし重要なのは、この休憩時間に読まれた「新聞・雑誌」にも多数の小説が連載されていたということだ。先述した「新聞・雑誌で小説の人気が出る→書籍がベストセラー」という流れは、まさに「休憩時間に小説=エンタメが目に入る→興味を持つ」という流れを作ることができていたからではないか。
新聞、雑誌のような、庶民の休憩時間に目を通されていたメディアに、そもそも小説が置かれていた。それこそが当時の大衆小説のヒットの一因だったのだろう。現代に置き換えると、スマホを眺めているときにSNSで動画や漫画が流れてきて、つい読んでしまうようなものだろうか。おそらく何らかの小説を読もうと思って書店に行く層よりも、新聞・雑誌というタッチポイントがあったからこそ、小説に触れた層のほうが多かったはずだ。
だとすれば「戦前のサラリーマンはいつ本を読んでいたのか?」という問いに対しては、もちろん電車の中や休日に読書していた、という答えは正しいが、それ以外にも「新聞や雑誌で小説を偶然読んでいた」という体験も忘れずにいるべきだろう。
●忙殺されるサラリーマンたち
また安藤政吉は『国民生活費の研究』(麹町酒井書店、1944年)で戦前のサラリーマンの休日の過ごし方についても調査を行っている。そのなかで「読書」は「郊外散歩」「スポーツ」「劇映画」「自宅静養」と並ぶ過ごし方として挙がる。やはり休日に本を読んで過ごすサラリーマンは一定数存在していたことが伺える。
だが一方で、安藤を研究した大城亜水(「近代日本における労働・生活像の一断面 : 安藤政吉論ノート」『経済学雑誌』117号、2016年)は当時のサラリーマンの日常について、ほとんど忙殺されながら機械的な働き方をして無気力になっていた人も多かったことを指摘する。大城は「実際の職業生活の現状は学歴(教育程度)重視で情意本位の場当たり式な人事管理が多く、また、その管理者自身も各部門間の対立、縄張り、派閥の波に巻き込まれながら、重役会議に忙殺されるという「水車式多忙幹部」の続出が相次いだ」という分析をおこなうが、この姿は現代と変わらない。会議と調整に追われるいかにも日本的なサラリーマン像と何も変わっていない。
だとすると、彼らが時代小説のような、腕一本でのし上がる武士が修行して強くなり、敵を倒したり人情に感謝されたりする世界観に憧れを覚えたのも、よく分かることだろう。
●都市部サラリーマンとエロ・グロ・ナンセンスの時代
サラリーマンの間で時代小説が流行していた傍ら、1930年(昭和5年)、「エロ・グロ・ナンセンス」が流行語となっていた。戦前、東京ではカフェやシネマといった「昭和モダニズム」の都市大衆文化が花開いていたのだ。そしてこの都市文化の担い手こそが、当時の都市圏のサラリーマンであった。
鈴木貴宇は『〈サラリーマン〉の文化史 あるいは「家族」と「安定」の近現代史』(青弓社、2022年)で、当時の雑誌『アサヒグラフ』にて「モダンガールという洋装の女性と、丸の内で働く洋装のサラリーマン」をモダン都市のアイコンとして描いていることを指摘する。そう、サラリーマンとは、その不安な心情とは裏腹に、メディアでは「新しい文化の担い手」として持ち上げられる存在でもあったのだ。おそらくそれは不安だからこそ、メディアで煽ることで消費を促すような構造にあったのだが。
当時、日中戦争に向かっていく日本は、国内の政治・経済情勢も悪化し、不況の中で閉塞的な空気が漂っていた。そしてなによりサラリーマン層の生活は苦しくなっていた。せっかく親の世代とは異なる、しっかりとした教育を受け学歴をつけたにもかかわらず、戦前の不況は彼らから高い給与を奪ったのだ。
サラリーマンとは、明治時代の立身出世のゴール「お役人」ではなく、大正時代~第一次世界大戦後のエリート階級「銀行・会社員」だった。つまり不況によって月給も変われば失業の恐怖も存在する。実際、戦前のサラリーマンは減俸と貧困に喘ぎ、失業に怯えた。「エロ・グロ・ナンセンス」の文化は、そんなサラリーマンの不安と恐怖の逃避先として最適だったのだ。
ちなみにこの「エロ・グロ・ナンセンス」の流れを汲む作品は、文芸の世界に限定すると、ほとんどアンダーグラウンド――つまり同人誌で作品が発表されていた。が、そのなかでも世に出ていまだに人気を博しているのが、江戸川乱歩と夢野久作の二人だ。
とくに江戸川乱歩に関しては、当時経営危機にあった平凡社が『江戸川乱歩全集」(全13巻)を刊行したことによって、会社が立ち直る程の売り上げを記録した。
だがその江戸川乱歩の小説をはじめとして「エロ・グロ・ナンセンス」の世界は、検閲との闘いが常に存在していた。戦前はおろか、戦時中に至っては、江戸川乱歩の小説がほとんど絶版となるなど、世の人々にとって簡単に手を出せる文化ではなくなったのだった。
●もはや本を読むどころではない戦時中
戦時中になると、もはや本を読むどころの話ではなくなってしまう。
といっても、日中戦争初期にはまだベストセラーが存在していた。たとえば国際情勢の報道も多くなった昭和10年代、パール・バックの『大地』、マーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』、エーヴ・キュリーの『キュリー夫人』などの翻訳書のベストセラーが出た。戦争がはじまるとともに海外の小説や映画は発禁処分になったかと思いきや、意外とそんなこともなく、むしろ民衆の興味は海外にさらに向くことになったのだった。もちろん、これが太平洋戦争時になるともはや英語すら禁じられてしまうのだが。
あるいは谷崎潤一郎、吉川英治、山本有三といった戦前からのベストセラー作家が次々と小説を刊行し、そして作品は売れていた。が、彼らの本格的な活躍はやはり戦時中の出版統制が終わった、戦後を待たなくてはならなかった。
参考文献一覧
安藤政吉『国民生活費の研究』(麹町酒井書店、1944年)
岩瀬彰『「月給100円サラリーマン」の時代: 戦前日本の〈普通〉の生活』(筑摩書房、2017年)
植田康夫「<円本全集>による「読書革命」の実態―諸家の読書遍歴にみる―」(『出版研究』14号、1983 年)
大内兵衛ら『私の読書法』(岩波書店、1960年)
大城亜水「近代日本における労働・生活像の一断面 : 安藤政吉論ノート」(『経済学雑誌』117号、2016年)
澤村修治『ベストセラー全史【近代篇】』(筑摩書房、2019年)
塩原亜紀「所蔵される書物–円本ブームと教養主義」(『横浜国大国語研究』20号、2002年)
鈴木貴宇『〈サラリーマン〉の文化史 あるいは「家族」と「安定」の近現代史』(青弓社、2022年)
谷原吏『〈サラリーマン〉のメディア史』(慶應義塾大学出版会、2022年)
永嶺重敏「モダン都市の〈読書階級〉–大正末・昭和初期東京のサラリーマン読者」(『出版研究』30号、1999年)
永嶺重敏『モダン都市の読書空間』(日本エディタースクール出版部、2001年)
山本武利「戦前の新聞読書層調査」(『関西学院大学社会学部紀要』29号、1974年)

「大人になってから、読書を楽しめなくなった」「仕事に追われて、趣味が楽しめない」……そのような悩みを抱えている人は少なくないのではない。しかし、それは現代だけの悩みなのだろうか。書評家・批評家の三宅香帆が、明治時代から現代にかけての労働と読書の歴史を振り返ることで、日本人の読書観を明らかにする。
プロフィール

みやけ かほ
作家・書評家。1994年生まれ。高知県出身。京都大学大学院人間・環境学研究科博士前期課程修了(専門は萬葉集)。著作に『人生を狂わす名著50』(ライツ社)、『文芸オタクの私が教えるバズる文章教室』(サンクチュアリ出版)、『副作用あります!?人生おたすけ処方本』(幻冬舎)、『妄想とツッコミで読む万葉集』(だいわ文庫)、『(読んだふりしたけど)ぶっちゃけよく分からん、あの名作小説を面白く読む方法』『女の子の謎を解く』(笠間書院)、『それを読むたび思い出す』(青土社)、『(萌えすぎて)絶対忘れない!妄想古文』(河出書房新社)。