1.司馬遼太郎はなぜ70年代のサラリーマンに読まれたのか?
●なぜ70年代のサラリーマンは『坂の上の雲』を買ったのだろう?
「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。」
――その文章が掲載されたのは、昭和43年、1968年4月22日の『産経新聞』夕刊だった。
言うまでもなく、タイトルは『坂の上の雲』である。明治維新を経た日本が、近代国家として日露戦争に向かっていった時代。その歴史を生きた三人の男を主人公に据え、明治時代の日本を描いた物語だ。
『坂の上の雲』というタイトルからも分かる通り、この物語の主軸は、「意気揚々と坂を上っていくことができた」時代のロマンチシズムにある。
仙波にいわせれば、平民の子でも刻苦勉励すれば立身することができる、これは御一新のおかげであり、この国をまもるためには命をすてる、といった。
立身出世主義ということが、この時代のすべての青年をうごかしている。個人の栄達が国家の利益に合致するという点でたれひとり疑わぬ時代であり、この点では、日本の歴史のなかでもめずらしい時期だったといえる。
(司馬遼太郎『坂の上の雲』一、p254、文春文庫、1999年)
そう、立身出世の時代の物語だったのだ。
たしかに明治時代といえば、本連載でも見てきたとおり『西国立志編』――”Self-Help”が流行し、立身出世が叫ばれたはじめての時代だった。日本の自己啓発の源流、「仰げば尊し」の世界観である。『坂の上の雲』が舞台としたのは、まさしく「坂の上をみつめ、坂をのぼってゆく」明治時代だった。
本書がベストセラーとなったのは1970年代。
高度経済成長期を終わらせたと言われるオイルショックの最中、文庫創刊が相次ぎ、さらにテレビという新しい娯楽が登場した時代のことである。
●司馬作品の魅力の源泉
司馬遼太郎は、当時のサラリーマンたちに愛された作家だった。司馬作品の受容を研究した福間良明は、70年代の司馬作品読書について、「司馬作品は(それまでの主婦層や若い青年層に愛されたベストセラー作品と異なり)ビジネスマンに偏って読まれていた」ことを指摘する。福間は司馬作品に挿入される「教養」が読み込まれた結果として、70年代ビジネスマンに広く受容されたのだ、と説明する。
司馬作品は、ビジネスの短期的・中期的な実利に直結するものとして読まれたのではない。あくまで「歴史という教養」を通した「人格淘冶」が、読書を通じて模索された。そこには、ビジネス教養主義とでもいうべきものが、浮かび上がっていた。
(福間良明『司馬遼太郎の時代 歴史と大衆教養主義』p190、中公新書、2022年)
たしかに福間が指摘する通り、当時のビジネスマンのある種の手軽な教養主義――つまり「歴史という教養を学ぶことで、ビジネスマンとしても人間としても、良い存在に上がることができる」という感覚――こそが、司馬遼太郎に辿り着かせたという点もあるだろう。だが一方で、たとえば冒頭に引用した『坂の上の雲』はかなり長い作品である。全8巻もある超大作だ。この長い作品を、単なる「歴史豆知識本」として読むことができるだろうか?
司馬作品が読まれたのは、本当にその教養主義の香りによるものだけだったのか。司馬作品にしばしば見られる、「乱世に活躍する人物」というヒーロー像への陶酔は存在しなかったのだろうか。
司馬作品はとくに70年代、サラリーマンを中心に売れたという。70年代を生きた日本のサラリーマンにとって、「司馬遼太郎を読む」という体験は、いかなるものだったのだろう?
2.テレセラーの誕生と週休一日制のサラリーマン
●テレビによって売れる本
さて、時計の針を少し戻そう。
パチンコに明け暮れるサラリーマンの姿が見られるようになったのは、戦後――1950~60年代のことだったと前回綴った。時代はやや流れて1970年代、日本の娯楽界において、突然人々の話題と時間をかっさらっていった新星が現れる。
テレビである。
しばしば「1964年の東京オリンピックとともに、日本の家庭にテレビが普及した」という言説が説かれるが、本格的にお茶の間の主役となるのは1970年代のことだった。1970年に開催された大阪万博はカラーテレビで放映される。この大阪万博の顔といえば、岡本太郎による「太陽の塔」。思えば彼の「芸術はバクハツだ!」という言葉が流行したのも、テレビが家庭に普及していたからこそであった。1970年初頭、それは凋落する映画と入れ替わるように、テレビが娯楽の覇権を握り始めた時代だったのだ。ちなみに1976年にはカラーテレビの普及率が94%に達したというのだから、ほぼ日本人全員がテレビに触れていたと言えるだろう。
テレビドラマの存在感が強くなったのもこの頃。1970年代には『太陽にほえろ!』(1972年~1986年)『必殺仕掛人』(1972年~1973年)そして『寺内貫太郎一家』(1974年)といったドラマが大ヒット。小説家の松本清張や五木寛之の作品もまたドラマ化され、お茶の間に浸透していった。そしてそれは出版にも影響を与えた。「テレセラー」つまり「テレビによって売れる本」という呼称ができたのも60年代末~70年代のことだった。三浦綾子の『氷点』(1965年)をはじめとして、テレビドラマによって小説が売れる、という循環がそこには生まれていた。
●土曜8時のテレビと週休一日制
テレセラーはドラマ原作とは限らない。現代にもしばしば見られる「バラエティ番組から出る本」もこの頃生み出された。
たとえば当時のゴールデンタイムこと土曜8時に、1975年から開始した『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(フジテレビ)。一時的に『8時だョ!全員集合』(TBS)を抜くほどの人気番組となった。すると、視聴者のコントを集めた本『欽ドン――いってみようやってみよう』(集英社、1975年)が新書版で刊行され、瞬く間にシリーズ化、1975年のベストセラー3位に入っている。当時の「テレセラー」がどれほど強いものだったのかよく分かる。
しかしなぜ「土曜8時」がこんなにも人気になっていたのだろう? なんせ1970年代には “土8戦争”と呼ばれていたらしい。『コント55号の世界は笑う』(フジテレビ)とドリフターズの『8時だョ!全員集合』(TBS)。その後、『お笑いオンステージ』『ワンマンショー』なども放送される人気時間帯が、「土曜8時」だったという。
なぜ「土曜8時」が人気だったのか? ここにはサラリーマンたちの休息の問題がある。70年代、サラリーマンたちにとって週休1日制が主流だったからだ。
一九七二年(昭和四七)年五月十一日号の『週刊現代』記事「平均的サラリーマンの〈休日〉白書」によると一〇人中四人が、休日は家でゴロゴロしてテレビを見て過ごすのだそうで。
「ねえ、お父さん、休みなんだから家族でお出かけしようよぉ」
「オレは毎日働いて疲れてるんだから、週に一度の休みくらいウチでゴロゴロさせてくれよ」
などという、昭和のお父さんの鉄板イメージが定着したのがこの時代。
(パオロ・マッツァリーノ『サラリーマン生態100年史 ニッポンの社長、社員、職場』角川新書、2022年)
そう、日曜の過ごし方に「テレビを見てだらだらする」が入ってきたのが、この頃だった。
多くの企業が週休2日制を導入するには、1980年代を待たなくてはいけなかった。とするとまずは日曜をどのように過ごすか、という問題がある。日曜8時。その時間に放送されたのが、NHK大河ドラマだった。
●「テレビ売れ」に怒る作家、「TikTok売れ」に怒る書評家
テレセラー、つまりは「テレビのおかげで売れる本」。その筆頭が、大河ドラマによる歴史小説売れ、であった。NHK大河ドラマ『竜馬がゆく』(1968年放送)『天と地と』(1969年放送)の成功により、書店にも原作本が大量に並ぶ、という現象が起きたのだ。
たとえば海音寺潮五郎『天と地と』。本書は上杉謙信を主人公に据えた、戦国時代の歴史小説である。1962年に朝日新聞出版社から刊行された時は2万部程度の売り上げだった。が、1969年の大河ドラマ放送後、朝日新聞社は廉価版を刊行。合計150万部程を売り上げ、69年のベストセラー2位になった。
が、作者はこのような傾向に腹が立ったことを隠さなかった。なんと、海音寺潮五郎は、「テレビが栄えて、文学がおとろえつつある」と述べて引退宣言を発表したのだ(澤村修治『ベストセラー全史【現代篇】』筑摩選書、2019年)。
……突然個人的な感想を挟んで恐縮だが、私はこの逸話を読み、正直「TikTokで本が売れることを嘆く現代の大人と一緒だ!」と叫んでしまった。そう、ここにあるのは現代と変わらない構造ではないか。[i]
TikTokは短時間で動画が移り変わることが重視されている新しいメディアであり、個人でじっくり読ませる小説というメディアと対極の存在かもしれない。だが、それでも入り口はTikTokだろうがなんだろうが、本と出会えるなら何でもいいのではないだろうか。と私なんかは思うのだが、この「海音寺潮五郎、テレビ売れにブチギレ引退宣言」を見る限り、「新興メディアの登場によって文学の影響力が後退することを危惧する」傾向は、昭和から令和に至るまで変わっていないように感じられる。実際、テレビが娯楽の中心となり、サラリーマンの「休息」の象徴が、小説ではなくテレビとなったのは確かであろう。それはまさに現代の私たちの「休息」の象徴が、小説ではなくスマホとなったのと同様に。
実際、1970年の時点で、テレビの登場によって読書の影響力の弱体化を危惧する声はあったのだ。だがテレビによって小説はむしろ、歴史小説やエンタメ小説といったジャンルのベストセラーを生み出すことに成功したのではないか? 事実、『天と地と』はテレビがなかったらここまで影響力を持たなかったのだ。
私たちは書店に行かないと本が選べない訳ではない。書店の外側で――ある時はテレビで、ある時はスマホで――本の入り口を得ているのである。
[i] TikTokで本が売れることを批判的に語る風潮については、飯田一史「書評家が本紹介TikTokerけんごをくさし、けんごが活動休止を決めた件は出版業界にとって大損害」(URL:https://news.yahoo.co.jp/byline/iidaichishi/20211211-00272115、2021/12/11更新、2023/07/13閲覧)に詳しい。
3.70年代に読む司馬作品のノスタルジー性
●通勤電車と文庫本は相性が良い
70年代、それは出版界における文庫創刊ラッシュの時代だった。1971年に講談社文庫、73年に中公文庫、74年に文春文庫、77年から集英社文庫が創刊する。戦後刊行されていた新潮文庫や岩波文庫を追いかける形での創刊ラッシュ。オイルショックによる紙不足も深刻だった中、それでも文庫創刊に踏み切ったことで、各出版社は新たなベストセラーを生み出すに至った。廉価で形態も便利な文庫は、今に至るまで書籍購入のハードルを下げている。
とくに「通勤電車のなかで文庫本を読む」という風景は、この頃強く根付いたのだった。
国土交通省作成「大都市交通センサス」によれば、首都圏の鉄道定期利用者のうち平均移動時間は1970年(昭和45年)には1時間以下が70%だった。が、1980年(昭和55年)には1時間以下が46%――つまり70年代を経て、首都圏の日本人の過半数は1時間以上かけて電車に乗っているのが普通になったのだった。
ちなみに近畿圏でも同様の傾向になっており、1970年代には1時間以下が76%だったのが、1980年代には55%となっている。首都圏よりも全体的に所要時間は短いものの、それでも半分近くが毎日1時間以上かけて通勤通学しているのである。スマホもない時代、本や雑誌を読む時間が必要だったということがよく分かる。
冒頭に引用した司馬遼太郎の作品もまた、文庫本になって更に広く受容されたことを、福間良明(『司馬遼太郎の時代』)は指摘する。司馬の単行本の多くは1960年代に刊行されたが、文庫化されたのはそこから10年経った1970年代だった。
たとえば文春文庫は1974年に創刊され、1975年には『竜馬がゆく』、1978年には『坂の上の雲』を文庫化している。これについて当時の文藝春秋社の編集者であった阿部達二は、以下のように語る。
司馬遼太郎さんの『燃えよ剣』は「週刊文春」連載だったのに、単行本も文庫も新潮社から刊行された。返してくれと何度も申し入れたけれどダメ。(中略)当時は「雑誌が売れていればそれでいい」と考える人も社内に多くて、特に古い社員ほどそうだった。だから雑誌で原稿を頂いていても、単行本や文庫が他社から出てしまうことがよくあったんです。若手は歯噛みして悔しがっていた。やはりウチも文庫を出さないと、他社にみんな持っていかれてしまうという危機感がありましたね。(中略)
当時、社内のさまざまな意見を調整して文庫の創刊に踏み切ったK氏は、「太郎、次郎、三郎の連載しかいらない」と公言してはばからなかった。司馬遼太郎、新田次郎、城山三郎で、この3人は、それくらい売れていた。
(「危機感からの創刊、そして読者層の拡大へ 座談会(1)」文春オンライン、2014年)
1970年代に刊行された文春文庫のなかで売り上げ1位は『竜馬がゆく』、6位が『坂の上の雲』であった。どちらも文庫本にして全8冊という大長編小説である。
これらの長い小説を、サラリーマンたちは、はたして通勤電車のなかで読めたのだろうか? この長さに、彼らは耐えていたのだろうか?
●70年代と企業文化の定着
そこには70年代という時代背景が存在していた。
70年代、それは高度経済成長期がオイルショックによって終わり、公害問題が叫ばれた時期であった。文芸評論家の斎藤美奈子はこの季節を「資本主義の綻びが見えた時代」と評する(『日本の同時代小説』岩波新書、2018年)。
しかし一方で、戦後に突貫工事のように企業を作り上げていた世代が、現在に至るまでの「企業」のフレームワークをしっかり規定した時代でもあった。つまりこの時代、日本政府も日本企業も、俺たちは「終身雇用、年功序列賃金制度、企業別労働組合」でいこう、それが一番だ、と決めたのだった。
「え、でも70年代ってオイルショックで不景気になって、高度経済成長期が終わったんじゃないの? なんで企業の型を高度経済成長期のままにするの?」と思われた方もいるかもしれない。しかしこれについて社会学者の小熊英二は、むしろ日本政府はオイルショックがあっても解雇を避けるように補助していたことから、逆に「オイルショックがあっても耐えた」この日本型企業の仕組みに、日本政府も人々も自信を持ったのだ、と説明する。
そう、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の結果は日本型企業雇用によってこそ生み出されたのだ、という自信である。
石油ショックによって失業の危機がおきると、政府は日本企業の雇用慣行を活用して、解雇を避けるように補助した。その具体策として、一九七四年に雇用保険法を制定し、雇用調整給付金で休業手当を補助し、関連企業への出向を支援した(原文注7)。
労働組合も雇用の維持を優先し、賃上げ要求を抑制して、配置転換をいっそう容認するようになった。一九七九年、大槻文平日経連会長が年頭あいさつを行い、石油ショックを乗り切ったのは減量経営・生産性向上・賃金抑制に取りくんだ成果であり、その背景にあるものは日本的労使慣行であり、なかでも労使一体感や運命共同体的な考えにある企業別組合の存在だと述べた(原文注8)。
(小熊英二『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』講談社現代新書、2019年 原文注7:兵藤ツトム『労働の戦後史』下、353-355頁、東京大学出版会、1997 原文注8:木下武男「企業主義的統合と労働運動」渡辺治編『高度成長と企業社会』所収、151頁、吉川弘文館、2004)
つまりこの時代にこそ、私たちが想像する「日本企業的文化」が定着した、と言えるだろう。
●企業の「自己啓発」重視文化の誕生
そして1970年代に入り、もうひとつ企業文化に変化が訪れる。企業内教育において「自己啓発」という言葉が使用され始めたのだ。
というのも、オイルショック以前の1960年代高度経済成長期において問題となるのは、とにかく労働力不足だった。人が足りないなかで、学歴のない従業員にいかに技術をつけさせるか――つまり企業の労務管理は人的能力開発をいかに行うか、という論点が主だったのだ。
そのなかで、日本の企業は企業内部昇進制を定着させてゆく。これは一般に私たちが想像するような昇進制度、つまりは年功序列制と職能資格制を合わせた形の昇進制度である。新卒で社員全員が同じ条件のもとで入社し、研修や実務を通して、ビジネススキルの向上を目指していく。そのような制度が高度経済成長期に一般的になった。
しかしその後、1970年代に入り、実質経済成長率がマイナスに転じる。すると企業は、とにかく解雇がないから、人が余っている状態になっていく(ちなみにこの頃、人が余っていったために導入されたのが、ジョブローテーション、OJTといった多くの日本企業に存在する制度である)。しかしそのなかで、内部昇進制で評価を定めなくてはいけない。すると従業員の自発的意志による能力開発が評価されるようになったのだった。
企業内教育を研究する増田泰子は、高度経済成長期に普及した企業内部昇進制が円滑に機能するために、「情意考課」つまり「努力や組織との適合性が評価される」点が欧米と異なっていたことを指摘する。しかし当然ながら、主観的な評価になってしまう。すると自己啓発という概念を導入することで、公平性を担保する、という工夫に企業は出たのである。自発的意志で能力を上げている、という項目を作ることで、現在の能力値ではなく、積極性という「態度」を評価することができるようになった。
自己啓発概念は、ある時はセミナー受講であり、ある時は読書であり、ある時は体調管理であるとされた。つまりは企業が期待するサラリーマンであってくれるための努力を、企業の時間外に、自発的におこなうこと――それがすべて「自己啓発」の能力に収斂されていったのである。
それは60年代的な、高度経済成長期の企業文化にたしかにあった「みんなが横並び」「みんなで頑張る」世界観の綻びでもあった。前章で見たように、60年代には会社仲間で休日にスポーツをやるような組織も多かった。が、70年代には高度経済成長期は終わり、自分で自分を努力させるような能力が評価されるようになっていったのである。
自己啓発というと現代的な価値観に思えるが、その萌芽は70年代から存在していた。
●「国家」と「会社」の相似性
さて、そんな企業文化の変化に適合させられている最中のサラリーマンたちは、司馬遼太郎を読んでいた。
司馬は『坂の上の雲』第一巻のあとがきで、このように述べている。
明治は、極端な官僚国家時代である。われわれとすれば二度と経たくない制度だが、その当時の新国民は、それをそれほど厭うていたかどうか、心象のなかに立ち入ればきわめてうたがわしい。社会のどういう階層のどういう家の子でも、ある一定の資格をとるために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも官吏にも軍人にも教師にもなりえた。そういう資格の取得者は常時少数であるにしても、他の大多数は自分もしくは自分の子がその気にさえなればいつでもなりうるという点で、権利を保留している豊かさがあった。こういう「国家」というひらけた機関のありがたさを、よほどの思想家、知識人もうたがいはしなかった。
(「あとがき」一)
この「国家」を「会社」に変換すれば、それはそのまま60年代論になる――と私は感じてしまう。
会社に入りさえすれば、という夢があった時代ではなかっただろうか。受験勉強を経て、学歴を得られたら、つまり必要な記憶力と根気さえあれば、社会を上向きに登ってゆけるという予感がそこにはあった。
「そういう資格の取得者は常時少数であるにしても、他の大多数は自分もしくは自分の子がその気にさえなればいつでもなりうるという点で」、企業への就職という在り方が、たしかに60年代においては、「ひらけた」ものだったのではないだろうか。
だが『坂の上の雲』が文庫化して広く読まれた70年代、そんな高度経済成長期は既に遠いものだっただろう。
だとすれば『坂の上の雲』という明治時代の立身出世の物語とは、高度経済成長期へのノスタルジーそのものではなかっただろうか。
●社会不安の時代に読む『竜馬がゆく』
70年代、『ノストラダムスの大予言』(五島勉、祥伝社)が1973年に刊行され、あるいは同年刊行の『日本沈没』(小松左京、光文社)といった社会不安を煽るような作品がベストセラーとなる。あるいは認知症を主題にした小説『恍惚の人』(有吉佐和子、新潮社)も大ヒットする。
社会不安を感じさせる作品が流行した頃、やはり文庫でベストセラーとなった『竜馬がゆく』もまた、幕末という乱世を、世渡りによって生きてゆく主人公の物語だった。
第一流の人物というのは、少々、馬鹿にみえる。少々どころか、凡人の眼からみれば大馬鹿の間ぬけにみえるときがある。そのくせ、接する者になにか強い印象をのこす。
(『竜馬がゆく』一)
このような竜馬の姿は、まさに「情意考課」という「人柄や態度によって査定が決まる」日本社会において、ヒーローそのものだっただろう。黒船がやってきて明日どうなるとも知れぬ幕末の時代を、「事をなさんとすれば、智と勇と仁を蓄えねばならぬ」と言いながら、仁義を切りつつ成功してゆく竜馬という存在。それはまさに、70年代の社会不安を反映したキャラクターにも見える。
だが一方で、司馬自身は、そのように企業的立ち振る舞いと歴史上の人物を重ねて気持ち良くなるような読み方を快く感じていなかったらしい。
なんと司馬は、「経営者やビジネスマンが、私の書いたものを、朝礼の訓示に安直に使うような読み方をされるのはまことに辛い」と漏らしていたという(『司馬遼太郎の時代』)。
だが司馬の意図とは反して、文庫というメディアで広がる彼の作品は、「司馬ブーム」を引き起こし、70年代というオイルショックの時代を牽引することになる。
●『坂の上の雲』は懐メロだった?
社会学者の小熊は、1970年代を「日本人論が流行した時代」でもあったと述べる(『日本社会のしくみ』)。基本的にそれらの要旨は日本の企業経営や労使関係が「イエ社会」「農村集団主義」を起源としている、という文化論だった。が、それは決して日本の伝統的な関係性ではなく、単に1960年代以降に大企業に普及した雇用慣行のことを述べているに過ぎないと看破する。つまり、それは日本人の文化的伝統ではなかったと小熊は指摘する。
たしかに70年代、土居建郎『甘えの構造』(弘文堂、1971年)、梅棹忠夫・多田道太郎論集『日本文化』(講談社現代新書、1972年)など次々に日本人論が発表されていたが、それらの論調の多くは西洋と比較したときの日本人を肯定するものだった(谷口浩司「社会学と日本人論」1987年)。
だが司馬作品の戦国武将や明治の軍人たちのあり方に、サラリーマンが自分の組織論や仕事論を投影して読む在り方は、まさにこの時代の「日本人論」と通じるものだろう。つまり、高度経済成長期を経て、欧米と肩を並べる日本という存在を考えた時、歴史や日本文化の伝統を持ち出しながら、日本人的振る舞いを肯定したくなる。だが一方でその裏には、不安があった。このまま昔と同じように、日本が坂の上を目指して、ただ坂道をのぼってゆける時代はもう来ないのではないか、という不安である。
竜馬や秋山兄弟のように、乱世で、近代国家として先進国に追いつこうとした男たちのように――自分たちが生きられた時代がたしかにあった。それはノスタルジーそのものだろう。
たしかに司馬が危惧したような「朝礼の訓示に安直に使える」教養の小ネタ集であったこともまた、司馬作品が読まれた理由のひとつではある。だが、一方で司馬作品には、香り立つような60年代の高度経済成長期的な「坂をのぼってゆく」感覚が閉じ込められている。
政府も小世帯であり、ここに登場する陸海軍もうそのように小さい。その町工場のように小さい国家のなかで、部分々々の義務と権能をもたされたスタッフたちは世帯が小さいがために思うぞんぶんにはたらき、そのチームをつよくするというただひとつの目的にむかってすすみ、その目的をうたがうことすら知らなかった。この時代のあかるさは、こういう楽天主義からきているのであろう。
(中略)
楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天に一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。
(「あとがき 一」)
会社外での自己啓発が求められたりせず、会社内ですべて仕事と人間関係を完結できていた、「小さい」会社だった時代。「その目的をうたがうことすら知らなかった」楽天家たちの、時代。
それはまさに、失われた高度経済成長期の物語そのものだった。
だからこそ『坂の上の雲』も『竜馬がゆく』もあんなに長いのに、それでも通勤電車で読んでいられたのではないか。ノスタルジーこそが、もっとも疲れた人間を癒すことを、彼らは知っていたからだ。
懐かしさに陶酔する姿は、もしかすると傍から見たら滑稽かもしれない。しかし懐かしさだけが救える感覚があることを、もしかすると、司馬作品を読む人々は知っていたのではないか、とすら思う。
(次回に続く)
〈参考文献〉
司馬遼太郎『坂の上の雲』文春文庫、文藝春秋、新装版1999年
福間良明『司馬遼太郎の時代 歴史と大衆教養主義』中央公論新社、2022年
澤村修治『ベストセラー全史【現代篇】』筑摩書房、2019年
パオロ・マッツァリーノ『サラリーマン生態100年史 ニッポンの社長、社員、職場』KADOKAWA、2022年
増田泰子「企業における「自己啓発援助制度」の成立」『大阪大学教育学年報』4、1999年
増田泰子「高度経済成長期における「自己啓発」概念の成立」『人間科学研究』2、2000年
大澤絢子『「修養」の日本近代 自分磨きの150年をたどる』NHK出版、2022年
小熊英二『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』講談社、2019年
羽鳥好之「危機感からの創刊、そして読者層の拡大へ 座談会(1)」WEBサイト「本の話」(URL:https://books.bunshun.jp/articles/-/1772、2014/04/09更新、2023/07/13閲覧)
斎藤美奈子『日本の同時代小説』岩波書店、2018年
谷口浩司「社会学と日本人論 「社会と個人」再考」『社会学部論叢』21、1987年
司馬遼太郎『竜馬がゆく』文春文庫、文藝春秋、新装版1998年

「大人になってから、読書を楽しめなくなった」「仕事に追われて、趣味が楽しめない」……そのような悩みを抱えている人は少なくないのではない。しかし、それは現代だけの悩みなのだろうか。書評家・批評家の三宅香帆が、明治時代から現代にかけての労働と読書の歴史を振り返ることで、日本人の読書観を明らかにする。
プロフィール

みやけ かほ
作家・書評家。1994年生まれ。高知県出身。京都大学大学院人間・環境学研究科博士前期課程修了(専門は萬葉集)。著作に『人生を狂わす名著50』(ライツ社)、『文芸オタクの私が教えるバズる文章教室』(サンクチュアリ出版)、『副作用あります!?人生おたすけ処方本』(幻冬舎)、『妄想とツッコミで読む万葉集』(だいわ文庫)、『(読んだふりしたけど)ぶっちゃけよく分からん、あの名作小説を面白く読む方法』『女の子の謎を解く』(笠間書院)、『それを読むたび思い出す』(青土社)、『(萌えすぎて)絶対忘れない!妄想古文』(河出書房新社)。