なぜ働いていると本が読めなくなるのか 最終回

2000年代の労働と読書―仕事がアイデンティティになる社会

三宅香帆

1.労働で「自己実現」を果たす時代

自己実現の時代

自己実現、という言葉がある。

その言葉の意味を想像してみてほしい。すると、なぜか「仕事で自分の人生を満足させている様子」を思い浮かべてしまうのではないだろうか。

趣味で自己実現してもいい。子育てで自己実現してもいい。いいはずなのに、現代の自己実現という言葉には、どこか「仕事で」というニュアンスがつきまとう。それはなぜか? 2000年代以降、日本社会は「仕事で自己実現すること」を称賛してきたからである。

思えば、本連載冒頭で紹介した『花束みたいな恋をした』も、「自己実現しきれない若者」の物語だった。やりたい仕事であったはずの、イラストレーターで食べていけない。好きなことを仕事に、できない。でもそれは生活のためには仕方がないと思っている。

麦「でもさ、それは生活するためのことだからね。全然大変じゃないよ。(苦笑しながら)好きなこと活かせるとか、そういうのは人生舐めてるって考えちゃう」

(坂元裕二『花束みたいな恋をした』p114、リトル・モア、2021年)

好きなことを活かせる仕事―麦くんの言う通り、それは夢物語で、モラトリアムの時期だけに描くことのできる夢なのかもしれない。しかし問題は、それが夢物語であること、ではない。むしろ、好きなことを仕事にする必要はあるのか? 趣味で好きなことをすれば、充分それも自己実現になるではないか? そのような考え方が、麦くんにとってすっぽり抜け落ちていることこそが問題なのだ。

自己実現が果たせる仕事に就けることが最高の生き方だ。好きなことを仕事にするのが理想的な生き方だ。―そのような考え方はそもそもどこから来たのか? 

答えは、2000年代のベストセラーにあった。

ゆとり教育と『13歳のハローワーク』

2002年に「生きる力」を重視する教育――通称・ゆとり教育が開始された。ゆとり教育の開始と時をほぼ同じくして、ある一冊の本がベストセラーとなる。

村上龍『13歳のハローワーク』。子どもが好きなことに応じて、その好きを活かせるような職業が紹介されているという、職業辞典のような本である。たとえば「文章が好き」という項目をひらくと、「作家」という職業の説明が載っている……という体裁になっている。ちなみに「作家」の説明には「最後の職業」とある。さまざまな経験や職業をしてからなっても遅くはない、犯罪者でもなれる職業なんだから焦ってなろうとする必要はない、という意である。そんなこと書かれても、24歳で鮮烈なデビューをかました村上龍にだけは言われたくねえ、と思う人は多いのではないか。私も思う。ちなみに本書が刊行された2003年、綿矢りさ(当時19歳)と金原ひとみ(当時20歳)が史上最年少で芥川賞作家となっていた。

さて『13歳のハローワーク』はなんと130万部のベストセラーとなり、2000年代初頭のベストセラー史に燦然と輝いている。そんな本書のまえがきには、このような一文がある。

子どもが、好きな学問やスポーツや技術や職業などをできるだけ早い時期に選ぶことができれば、その子どもにはアドバンテージ(有利性)が生まれます。

(村上龍『13歳のハローワーク』幻冬舎)
 

「好き」な学問/スポーツ/技術/職業があることは、子どもの将来にとってアドバンテージになる。たしかにこの一文通り、『13歳のハローワーク』は、「好き」と「将来の仕事」を結び付けるというコンセプトの本だ。

このような思想は、2000年代に行われたゆとり教育にも反映されている。岩木秀夫『ゆとり教育から個性浪費社会へ』(ちくま新書、2004年)は、サッチャー政権やレーガン政権が採用した新自由主義改革に倣おうとした結果、規制緩和の理念から「ゆとり改革」を採用してしまったという流れを解説する。つまり1990年代から徐々に社会へ浸透していた新自由主義的な思想が、教育現場にも流れ込み、「個性を重視せよ」「個々人の発信力を伸ばそう」という思想に基づいた教育がなされるようになった。

臨教審当時の国策であった規制緩和・内需拡大は、いまなお色こく経済政策や教育政策の基本に残りつづけており、あらたな欲望を発見し、追究する生き方(自己実現の追求と呼ばれている)が、政策の根底におかれているといえます。その意味では、「働き方・生き方」よりは、「消費する生き方」にピントが合わされているといったほうが正確です。

(『ゆとり教育から個性浪費社会へ』)

岩木はこのような社会について「グローバル・メリットクラシー(国際能力主義)社会と、イディオシンクラシー(個性浪費)社会という、二兎を追う社会」と的確な言葉で名付けている。競争しなければいけないのに、個性を活かさなければならない―この二重のジレンマは、この時代に作られたものだったのだ。

また90年代後半、すでに「やりたいこと」「好きなこと」を重視するキャリア教育は取り入れられ始めていた。教育社会学を研究する荒川葉は、労働市場が崩れ始めた90年代後半から、「夢」を追いかけるメディアが氾濫していたと指摘する(荒川葉『「夢追い」型進路形成の功罪―高校改革の社会学』東信堂、2009年)。実際、学生が想像できる「夢」、つまり楽しそうな進路は「服飾・家政」や「文化・教養」など就職率の低い領域であることも多かった。が、そういったリスクを伝えず、高校のキャリア教育は夢を追いかけることを推奨した。

しかしこのような風潮が、自分の「好き」を重視する仕事を選ぶことを良しとする『13歳のハローワーク』ベストセラーにつながったことは、確かだっただろう。

労働者の実存が労働に埋め合わされる

「好き」を活かした「仕事」。そのような幻想ができたのは、90年代から00年代のことだった。その背景には、日本にもやってきた新自由主義改革があった。

このような状況を社会学者の永田大輔は以下のように説明する。

近年では、こうした労働者の実存が教養ではなくむしろ労働によって埋め合わされる傾向にあり、そのことが学校文化・消費文化とそれぞれいかに結びつくかが問題化されるようになった。

(「序章 消費と労働の文化社会学」『消費と労働の文化社会学』永田大輔・松永伸太朗・中村香住編著、ナカニシヤ出版、2023年)

そう、労働者の実存は、労働によって埋め合わされるようになってしまったのだ。それ以前だと、本連載が見てきたように、本を読んだりカルチャーセンターに通ったりして「教養」を高めることで労働者の階級を上げようとする動きもあった。だが新自由主義改革のもとで始まった教育で、私たちは教養ではなく「労働」によって、その自己実現を図るべきだという思想を与えられるようになった。

2001年の日本労働研究機構によるフリーターへのヒアリングは、そのうちの四割が「やりたいこと」という言葉で自分がフリーターになった経緯を説明している。この事実について、速水健朗の『自分探しが止まらない』(ソフトバンク新書、2008年)は当時の就職活動や高校教育において、いかに仕事における「やりたいこと」や「自分らしさ」の重要性が強く刷り込まれていたかを解説する。

80年代のバブル経済時、田中康夫『なんとなく、クリスタル』(河出書房新社、1980年)や上野千鶴子『「私」探しゲーム―欲望私民社会論』(筑摩書房、1987年)を参照すれば、消費による自分らしさの表現が可能だったことが分かる。しかし90年代のバブル崩壊を経て、00年代の新自由主義社会化による労働環境の変化の影響を受けた若者たちは、もはや消費で自己表現することは難しくなった。速水はそう説明する。その結果、労働そのものが「自分探し」の舞台になったのだ。『13歳のハローワーク』はその文脈をうまく汲み取ったベストセラーだった。

余暇を楽しむ時間もお金もない

『搾取される若者たち バイク便ライダーは見た!』(集英社新書、2006年)で社会学者の阿部真大は、このような風潮に否を唱える。阿部は本書で趣味を仕事にする職業としてバイク便ライダーを取り上げ、それに没入する若者を批判的に「自己実現ワーカーホリック」状態と名付ける。そのうえで当時問題になっていたニートについて、やりたいことを仕事にすべきだという風潮こそが生んだ存在であることを指摘した。

『搾取される若者たち』について、本田由紀らとの鼎談の中で阿部は以下のように述べる。

直接的には、村上龍の『13歳のハローワーク』(幻冬舎)に対する批判として書いたものです。ようするに仕事で自己実現するのもいいんだけど、それが流動的な下層のサービス職である場合、非常に危険な状態であるということをいっています

(中略)

仕事はつまらないもので、必要悪であるという認識をもったうえで、自己実現は余暇ですればよいというのが、これまでの二冊の本の主張です。余暇を楽しむために仕事をする。そういった働き方ができていない状況になっているというのが、大きな問題だと思います。

(「まやかしに満ちた社会からの脱出〈鼎談〉本田由紀・阿部真大・湯浅誠」本田由紀『軋む社会 教育・仕事・若者』2008年、河出書房新社)

1980年代と比較し、2000年代のフルタイム男性雇用者の平日平均労働時間は長くなっていた(大沢真知子「日本の労働時間の課題と解決のための方向性」)。パートタイム労働者が増えたり週休二日制が普及したりしたため、一見日本人の労働時間は下がっているように見えるが、実は平日フルタイム労働時間はどの時代より長い。それが2000年代の労働の実態だった。時代は長時間労働。阿部の指摘する通り、彼らは「余暇を楽しむために仕事をする働き方ができていない」状況にあった。

しかしそれでも、「自己実現」という夢が、若者を長時間労働にのめりこませてしまっていた。

仕事への過剰な意味づけが、2000年代という時代を覆っていた。

2.本は読めなくても、インターネットはできるのはなぜか?

そんな状態で人々が読書する時間は、壊滅的に減っていた。

『読書世論調査』(毎日企画サービス)の調査によれば、10代~50代の2000年代読書時間は全年齢で減少。60代以上は唯一横ばいか上昇しているが、つまりは「働く年齢」であると本が読めなくなっていることの証左であろう。

そう、本格的に「読書離れ」が始まったのが、2000年代なのである。

(読書時間の推移「読書世論調査についてのレポート」2022年

ではこの2000年代に何が起きていたのか。―そこにあったのは、「情報」の台頭だった。

2000年代、IT革命と呼ばれる、情報化に伴う経済と金融の自由化が急速に進んでいった。情報化とグローバル化が一気に進み、先述した新自由主義改革が社会に浸透していく。デジタル化・モバイル化が加速し、インターネットが新しい地平を作っていた。

「情報」が輝いていたのだ。あの頃は。

『電車男』とは何だったのか

ベストセラーのなかにも「情報」の輝きを誇る小説が登場する。

『電車男』(中野独人、新潮社、2004年)である。インターネットの電子掲示板である(当時の)「2ちゃんねる」への書き込みをそのまま掲載した本書は、ドラマ化や映画化を経て、100万部を超えるベストセラーとなった。

本書の特徴。それは、語り手の男性が片思いする場面から始まる純愛物語でありながら、さらに実話であり、なによりも掲示板の人々が伝えてくれる「情報」によって恋愛を成就させていくプロセスが描かれているところにある。つまり、当時流行していた『冬のソナタ』(2002年放映、「冬ソナ」流行語大賞ノミネートは2004年)や『世界の中心で愛を叫ぶ』(小学館、2001年刊行、映画は2004年)、『恋空―切ナイ恋物語』(スターツ出版、2006年)と連なるような「純愛ブーム」の王道となる作品であるのと同時に、インターネットの情報の価値を知らしめるような作品になっていた。

興味深いのは、『電車男』という物語が、ある意味「エルメス」と呼ばれる手の届かない女性に対して、さまざまな掲示板の「情報」を駆使して、「モテない」主人公の男性(電車男)がアプローチをかけていくところである。つまり、物語の構造としては「モテ」の階級を超えた恋愛を成就させるための武器として、掲示板で交わされる「情報」が存在するように描かれているのである。ちなみにこの「階級」とは現実での社会的階級という意ではなく、「モテ」というヒエラルヒーを基準にしたとき、「エルメス」は主人公にとって手の届かない位置にいる女性として描かれることを述べている(それにしても主人公二人が、「エルメス」という貴族の乗り物である馬具メーカーから始まった高級ブランドと、「電車」という誰でも乗れる近代的インフラとして対置されている点は興味深くはあるが)。

掲示板にいる人々は、お店の選び方やコミュニケーションの方法に至るまで、電車男をサポートする。それは「情報」が電車男とエルメスのヒエラルヒーを飛び越える存在だったからだ。

インターネットの情報の「転覆性」

インターネットの本質は「リンク、シェア、フラット」にある、と語ったのはコピーライターの糸井重里だった(『インターネット的』PHP文庫、2001年)。とくに「フラット」というのはつまり、「それぞれが無名性で情報をやりとりすること」と糸井は説明する。

インターネットのやりとりに、本名ではなくハンドルネームというものを使い合ってるというのは、悪いことばかりじゃなく、みんなを平らにするための、ある種の発明だったとも言えます。ネットというのは、ある種の仮面舞踏会でもあったわけです。

(糸井重里『インターネット的』)

現実での階級を仮面で隠し、ただ情報を交わすことに集中する。そこには、現実のヒエラルヒーを無効化する、という効果もあった。

つまり『電車男』と『インターネット的』はほとんど同じことを述べる。インターネットの情報とは、社会的ヒエラルヒーを無効化し、むしろ現実の階級が低い人にとっての武器になり得る存在だった、ということである。そこにあるのは、「フラット性」というよりもむしろ「転覆性」という性格を帯びているのかもしれない。つまりインターネットにおいては、社会的ヒエラルヒーを転覆する道具として、情報を使うことができる、ということである。現代でもSNSで、権威ある人物が情報によって転覆させられている様子を見ることがあるが、これと同じような構造をもたらす性質がインターネットの情報にはそもそも備わっていたのだ。

このようなインターネット情報の持つ「転覆性」ともいえる性質をうまく使ったのが、「2ちゃんねる」掲示板の創設者でもある、ひろゆきという人物だった。そう説明するのは社会学者の伊藤昌亮である。

 そうして彼は自らを、いわば「情報強者」として誇示する一方で、旧来の権威を「情報弱者」、いわゆる「情弱(じょうじゃく)」に類する存在のように位置付ける。その結果、斜め下から権威に切り込むような挑戦者としての姿勢とともに、斜め上からそれを見下すような、独特の優越感に満ちた態度が示され、それが彼の支持者をさらに熱狂させることになる。

 このように彼のポピュリズムは、「情報強者」という立場を織り込むことで従来のヒエラルキーを転倒させ、支持者の喝采を調達することに成功している。

(「〈特別公開〉ひろゆき論――なぜ支持されるのか、なぜ支持されるべきではないのか」WEB世界、2023/3/11公開)

情報とは、従来のヒエラルヒーを転倒させる力がある。「歴史性や文脈性を重んじようとする従来の人文知」や「リベラル派のメディアや知識人など、とりわけ知的権威とみなされている立場」に対して、彼は情報という価値でもって、その権威性を転覆させようとする。それはまさに、インターネットの情報が、従来の知的権威を転覆させる性格を帯びていることを利用したトリックスターのあり方だった。

本は読めなくても、インターネットはできるのはなぜか?

しかし伊藤はこのようなひろゆきの発信する情報を「安手の情報知」と呼び、安直で大雑把だと批判する。

 実際、彼のライフハックはその自己改造論にしても社会批判論にしても、自己や社会の複雑さに目を向けることのない、安直で大雑把なものであり、知的な誠実さとは縁遠いものだ。

 しかしその支持者には、彼はむしろ知的な人物として捉えられているのではないだろうか。というのも彼の反知性主義は、知性に対して反知性をぶつけようとするものではなく、従来の知性に対して新種の知性、すなわちプログラミング思考をぶつけようとするものだからだ。

 そこでは歴史性や文脈性を重んじようとする従来の人文知に対して、いわば安手の情報知がぶつけられる。ネットでの手軽なコミュニケーションを介した情報収集能力、情報処理能力、情報操作能力ばかりが重視され、情報の扱いに長(た)けた者であることが強調される。

(「〈特別公開〉ひろゆき論――なぜ支持されるのか、なぜ支持されるべきではないのか」)

情報とは、従来のヒエラルヒーを転倒させる力がある。「歴史性や文脈性を重んじようとする従来の人文知」や「リベラル派のメディアや知識人など、とりわけ知的権威とみなされている立場」に対して、彼は情報という価値でもって、その権威性を転覆させようとする。それはまさに、インターネットの情報が、従来の知的権威を転覆させる性格を帯びていることを利用したトリックスターのあり方だった。

情報も自己啓発書も、階級を無効化する

インターネット的情報は、現実での階級を仮面で隠し、ただ情報を交わすことに集中できるという特徴がある。そう述べたのは2001年の糸井重里だった。一方で前章でも参照した、自己啓発書を研究する牧野智和は、自己啓発書もまた、現実での自己啓発書は読者の階級を無効化し、今ここの行動に注目するところが特徴だと説明する。

啓発書は読者の出自に関係なく、今ここで新たに獲得されようとする感情的ハビトゥスによって今までの自分、あるいは他者との差異化・卓越化を促していると考えられる。

(太字部分は本文「、」が付されている 牧野智和『日常に侵入する自己啓発 生き方・手帳術・片づけ日常に侵入する自己啓発』勁草書房、2015年)

実際、牧野の研究によると啓発書購読行為と親学歴の間には有意な関連がみられなかったという(『日常に侵入する自己啓発 生き方・手帳術・片づけ日常に侵入する自己啓発』)。

2000年代、自己啓発書は1990年代にも増して売り上げを伸ばしていた。出版科学研究所の出すベストセラー一覧において、2000年代には『生きかた上手』(日野原重明、ユーリーグ、2001年)、『人は見た目が9割』(竹内一郎、新潮新書、2005年)、『夢をかなえるゾウ』(水野敬也、飛鳥新社、2007年)などがランクインする。

情報も自己啓発書も、共通点は読者の社会的階級を無効化するところにある。

コントロールできない社会のノイズは除去し、自分でコントロールできる行動に注力する。そのための情報を得る。それはバブル崩壊後、景気後退局面に入りリーマンショックを経ながらも、社会の働き方は「自己実現」が叫ばれていた時代に人々が適合しようとした結果だったのではないだろうか。まさに就職氷河期の若者にとって、求めていたものが、インターネットや自己啓発書の中にあったのである。

インターネット的情報が転覆性を帯びるように感じられるのは、そのような時代背景の中で、社会階級を転覆させようとした人々が連帯した結果だったのかもしれない。

3.本が読めない社会なんておかしい

過去はノイズである

2000年代をまとめると、昭和的な一億総中流社会が崩れ去り、バブル崩壊やリーマンショック等の景気後退、そして若者の貧困が広まるなかで、「階級を無効化する」知識のありかたが求められていた。文脈も歴史の教養も知らなくていい、ノイズのない情報。あるいは社会情勢や読者の過去を無視することのできる、ノイズのない自己啓発書。それらはまさに、自分の階級の低さに苦しめられていた人々のニーズにちゃんと応えていた。

つまり、過去とはノイズなのである。文脈や歴史や社会の状況を共有しているという前提が、そもそも貧困に「今」苦しんでいる人にとっては重い。

伊藤はひろゆき的知性の批判として、陰謀論や差別的感性にきわめて近くなりやすい点を挙げている。が、それは同時に、陰謀論や差別的感性が、自分の外部にある文脈や社会を共有せずに「今」ここの知識のみで成立する、ということの証左にほかならない。

倫理や教養は、常に過去や社会といった、自分の外部への知識を前提とする。しかしそのような外部への知識は、そもそも持っている文化資本が必要である。経済資本・文化資本が、知識の前では歴然として差異が見える。

しかし情報は、「今」ここが重要である。たとえばインターネットで共有されるマネー情報は、刻一刻と変わっていく。最先端の情報を知っている人が「情報強者」とされ、過去の情報のみを知っていてもそれはむしろ「情報弱者」に認定される。「今」の情報を手に入れる能力こそが、情報の感度になる。

だとすれば、平成前期の2000年代―昭和的な一億総中流社会が崩れ去り、格差社会が広まり、ネオリベラリズム的思想が広まるなか―階級の持つ文化資本を無効化し、むしろ現在の行動によって得られる情報が重視されることは、時代の必然性があったのだろう。

情報とは、ノイズの除去された知識である

2000年代、インターネットというテクノロジーによって生まれた「情報」の台頭と、入れ替わるようにして「読書」量が低下していた。「情報」と「読書」のトレードオフが始まっていたということである。しかし「情報」の増量と「読書」の減少に相関があるかどうかは、もちろんこれだけで導き出せるものではない。

だが一方で、それでは情報とは何なのか? 読書で得られる知識と、インターネットで得られる情報に、違いはあるのか? という問いについて考えてみると、どうだろうか。

最も差異になるのは、前章で指摘したような「読書」で得られる知識のノイズ性である。

つまり知識にはノイズ―偶然性が含まれる。教養と呼ばれる古典的な知識や、小説のようなフィクションには、読者が予想していなかった展開や知識が登場する。文脈や説明のなかで、読者が予期しなかった偶然出会う情報を、私たちは知識と呼ぶ。

しかし情報にはノイズがない。なぜなら情報とは、読者が知りたかったことそのものを指すからである。コミュニケーション能力を上げたいからコミュニケーションに役立つライフハックを得る、お金がほしいから投資のコツを知る、それは情報である。

情報とは、ノイズの除去された知識のことを指す。

だからこそ「情報」を求める人に、「知識」を渡そうとすると「その周辺の文脈はいらない、ノイズである、自分がほしいのは情報そのものである」と言われるだろう。

インターネットとは、検索したりフォローしたり、自分の欲しい情報を得るための場である。もちろんそのなかで偶然の知との出会いがあったり、ノイズとなるような情報と出くわすこともあるだろう。しかし本質的には、インターネットの情報が求められているのは「ノイズなく、欲しい情報を得られること」だろう。だからこそ『電車男』の主人公は、掲示板という情報交換サイトを通して、自分の状況にカスタマイズされた情報を掲示板の住民から得ることができたのである。

欲しい情報を得たり広げたりする速さは、糸井が「インターネット的」と呼んだ性質そのものの利点である。一方で、欲しい情報以外の偶然性を含んだ展開には、インターネットでは出会いづらい。しばしば「新聞を毎日めくっていたころは自分の興味のないニュースも入ってきたが、インターネットを見るようになってからは自分の興味のないニュースは入ってこない」と述べる人を見かけるが、それもまた知識と情報の差異である。

読書は欲しい情報以外の文脈やシーンや展開そのものを手に入れるには向いているが、一方で欲しい情報そのものを手に入れる手軽さや速さはインターネットに勝てない。

読書は楽しまれることができるか?

そしてそんなインターネット的情報が台頭してきたなかで、インターネットの外の外部環境――労働環境は、新自由主義(ネオリベラリズム)の空気に覆われ、さらにそのような社会を促進する、仕事で自己実現という言葉が流行していた。

前章で説明したような、市場適合と自己管理の欲望が促進される社会で、ノイズのない「情報」の価値は上がり続けていく。前述した阿部の『搾取される若者たち バイク便ライダーは見た!』において、趣味を楽しむ余裕もないまま仕事にのめり込む様子が批判的に綴られているが、趣味もまた仕事にとってはノイズになる。そのような社会で、読書のような偶然性を含んだ媒体が遠ざけられるのは、当然のことだろう。

自分の好きな仕事をして、欲しい情報を得て、個人にカスタマイズされた世界を生きる。それが2000年代の「夢」なのだとしたら、「働いていると本が読めなくなる」理由は、ただ時間だけが問題なのではないだろう。

読書という、偶然性に満ちたノイズありきの趣味を、私たちはどうやって楽しむことができるのか、というところにある。

時は経って2010年代半ば、労働はさまざまな経緯を経て、働き方改革の風が吹く。

働き方改革のひとつの契機となった2015年の電通社員過労自殺事件の被害者である高橋まつりさんのTwitter(現X)には、このような言葉が綴られていた。

就活してる学生に伝えたいこととは、仕事は楽しい遊びやバイトと違って一生続く「労働」であり、合わなかった場合は精神や体力が毎日磨耗していく可能性があるということ。。

まつり@matsuririri 2015年11月15日投稿
(X(旧Twitter)より掲載)

「労働」は、楽しい遊びやバイトとは違う。そのことに気づいていないのが、おそらく2000年代までの日本だった。

だとすれば2010年代の「夢」はまた少し変わっていたのではないだろうか。次章で考えてみたい。

本が読めない社会なんておかしい

さて、2010年代に入る前に、私は最後にこれだけは言っておきたい。

本が読めない社会なんて、おかしいだろう。

私は心底そう叫びたくてこの連載を始めたのだ。

―おかしいと思いませんか? おかしいだろ。もちろん、本に興味のない人に本を読んでくれ、なんて言っても無駄だと分かっている。私だって『スラムダンク』を読んでいるときに『こころ』を読めと言われたらブチギレ激怒である。人生には時期によってやるべきことがあり、本を読んでいる暇がない時期もたくさんある。

そういう意味では、映画『花束みたいな恋をした』に対しては、新卒一年目くらい『人生の勝算』を読む彼氏を許してやれよ、と絹ちゃんに対しては思うし、それでもそんなささやかな断絶が恋の終わりに至る時期もあるだろうなとも思う。

だが、本を読みたい気持ちはあるのに、しかし本を読む余裕がずっと取れない人々が多い社会は、おかしい。普通にそんな社会、本を読まない人にとっても良くないだろう。と、私はずっと思っている。

仕事は大切だ。お金を稼ぎ、生活していくことは大切だ。しかし労働にアイデンティティを仮託しすぎて、労働がうまくいかないと人生の大半が終わったように感じてしまう社会は、不健全だと私は思う。労働は労働だし、アイデンティティをそこに見出しすぎると、そこを搾取してくる企業はたくさんあるだろう。企業は企業であり、人間のことを考えてはくれない。

だとすれば、本を読めるくらい余裕のある社会のほうが、みんな病まずに、健康に生きられるはずではないか。

本を読み、労働のノイズを取り入れ、労働だけがすべてじゃないなーと休日に笑う。労働にすべてを注ぎ込まなくても、生きていくお金を稼げる社会になる。そのほうがずっと健全ではないだろうか。

もちろん一労働者に景気は左右できないし、隣の国が戦争を始めてしまって物価が変わってしまうなんてことは個人にとってはどうしようもないことかもしれない。しかしそれでも、自分の職場で働きすぎないように構造を変えたり、隣の友人が労働にアイデンティティを預けすぎていたらちょっと危ないんじゃないと声をかけたり、あるいは本や漫画をひとりで読んで「仕事がすべてじゃない」と自分に言い聞かせたりすることは、私たちひとりひとりに可能な行為である。

自分がほしい情報でなくとも、読書は、自分以外の世界や他者についての興味を誘発してくれる。それは好奇心となって、自分のいる世界の文脈や、他人のいる世界の過去や未来の文脈について、興味を持たせてくれる。

自分以外の他者の文脈に興味を持つことは、決して人生のノイズではない。

だからこそ、本を読める社会にしよう。本を読める社会をつくろう。私は本連載で、そう語りかけたい。

(『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は、今回で最終回です。本連載は内容を大幅加筆、書下ろしの章を追加のうえ、来春発売予定です)

 第8回
なぜ働いていると本が読めなくなるのか

「大人になってから、読書を楽しめなくなった」「仕事に追われて、趣味が楽しめない」……そのような悩みを抱えている人は少なくないのではない。しかし、それは現代だけの悩みなのだろうか。書評家・批評家の三宅香帆が、明治時代から現代にかけての労働と読書の歴史を振り返ることで、日本人の読書観を明らかにする。

プロフィール

三宅香帆

みやけ かほ 

作家・書評家。1994年生まれ。高知県出身。京都大学大学院人間・環境学研究科博士前期課程修了(専門は萬葉集)。著作に『人生を狂わす名著50』(ライツ社)、『文芸オタクの私が教えるバズる文章教室』(サンクチュアリ出版)、『副作用あります!?人生おたすけ処方本』(幻冬舎)、『妄想とツッコミで読む万葉集』(だいわ文庫)、『(読んだふりしたけど)ぶっちゃけよく分からん、あの名作小説を面白く読む方法』『女の子の謎を解く』(笠間書院)、『それを読むたび思い出す』(青土社)、『(萌えすぎて)絶対忘れない!妄想古文』(河出書房新社)。

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2000年代の労働と読書―仕事がアイデンティティになる社会