著者インタビュー

わたしたちは「未来倫理」をいかに語れるか

戸谷洋志×吉川浩満 『未来倫理』刊行記念対談
戸谷洋志×吉川浩満

わたしたちの社会はテクノロジーの発達によってもたらされた、さまざまな深刻な問題を抱えています。

気候変動、放射性廃棄物の処理、生殖細胞へのゲノム編集……。

現在世代は未来世代に対しての倫理的な責任をどのように考え、どのように実践したらよいのでしょうか。

それらの問いを考えるための一冊が、戸谷洋志さんの新刊『未来倫理』です。

本書の刊行を記念して、著者の戸谷洋志さん、ゲストに文筆家・編集者の吉川浩満さんをお迎えしました。

吉川さんには聞き手として、そもそも「未来倫理とは何か」という問いにはじまり、本書の内容の核心に迫っていただきました。

※3月25日、東京・マルジナリア書店さんで行われたトークイベントの模様を記事化したものです。

吉川浩満さん(左)と戸谷洋志さん(右)

「未来倫理」とは何か

吉川 まずはお祝いから。『原子力の哲学』(集英社新書)で2022年度の日本原子力学会社会環境部会、優秀発表賞を受賞されたそうですね。おめでとうございます。

戸谷 ありがとうございます。

吉川 ここでこの話題を取り上げたのは、単にお祝いのためだけではありません。今回の新刊『未来倫理』と『原子力の哲学』が密接に関わっているからです。それでは、さっそく『未来倫理』の話に入っていければと思います。

 この本を読んで第一に感じたのは、タイトルにある「未来倫理」という言葉の新鮮さです。確かに「未来」という言葉も、「倫理」という言葉も、私たちが普段慣れ親しんでいるものです。ところが、「未来倫理」となるとどうか? 友人数人に尋ねてみたのですが、この言葉を知っている人はいませんでした。

戸谷 「未来倫理」とは、未来世代をめぐる倫理について考える学問のことです。つまり、100年後、あるいは1000年後の未来に生まれてくる私たちの子孫に対する倫理的な配慮をどう考えるか、それが未来倫理のテーマであり、倫理学の中の一分野ということになります。

 多くの方にとってこの「未来倫理」という言葉が耳慣れないのは、おそらくこのテーマがこれまで日本語で「世代間倫理」と呼ばれてきたことと関係があるように思います。この言葉は日本では人口に膾炙していますが、世界的にはほとんど使われていないのが現状です。

「世代間倫理」という呼称が日本で多くの方に知られるようになったのは、1990年代にヘーゲル研究者として有名な倫理学者の加藤尚武氏がきっかけだったと思います。加藤氏はヘーゲルの研究のみならず、環境倫理学の日本への紹介者としても知られており、その彼が「世代間倫理」という言葉を使い始めたわけです。環境問題のことを考える際に、有用な概念でもありますしね。

 ただ、海外では違った表現がなされることの方が多いです。実際、ドイツなどでは、Zukunftsethikといった言い方が一般的だったりします。英語にすると、future ethicsですね。そうした事情もあって、今回の本では「世代間倫理」ではなく、「未来倫理」という表現を採用しています。

 また、この「世代間倫理」という表現には、もう一つ大きな問題があると思っています。それは、「世代間」という日本語からは、どこか双方向性のようなものをイメージしてしまう、ということです。

 双方向性、あるいは対称性のようなものがあれば、一方は他方に対して反撃することができます。しかし、未来世代と現在世代の間でそうしたことが起こることはありえません。現在世代が未来世代に迷惑をかける可能性は十分ありますが、未来世代が現在世代に同じことをやり返すことはできません。つまり両者は双方向性を欠いた、非対称的な関係にあります。そしてそれこそが、未来倫理を考える際の本質的な部分なのです。

 自分が相手に何をしても、決して相手から復讐されない──そうした条件のもとで、どのようにして相手を配慮することが可能なのか。それが、未来倫理の核心にある問いです。その論点について関心を持ってもらいたいという願望もあって、『未来倫理』というタイトルを付けました。

未来倫理が重要性を増す現代

吉川 タイトルの由来、たいへんよく分かりました。倫理学という学問自体は古代ギリシャからあるわけですよね。東洋でも、孔子などの時代から倫理について議論をされている。それにもかかわらず、未来倫理が日本で注目されるようになったのが、1990年代以降だったというのが驚きでした。

戸谷 一応、研究者によっては、未来倫理的な発想は、カントにまで遡ることができると主張する方もいます。ただ、未来倫理がここまで大きく注目されるようになってきたのは、今、吉川さんがおっしゃったように、ここ数十年の話です。

 その背景にあるのは、やはり環境問題ですよね。特に、気候変動の問題が深刻です。20世紀のようなペースで人類が自然破壊を続けていくと、やがて取り返しのつかない災厄を引き起こすことになる。その危険性は1970年代頃から研究者によって指摘されてきたわけですが、21世紀に入って、世界中の多くの地域で環境破壊が実感されるようになってきた。

 さらに、最近になって注目されてきているのが、放射性廃棄物の問題です。先ほど話題に出た『原子力の哲学』の中でも、私は放射性廃棄物の問題について論じています。放射性廃棄物は、いったん生まれると、10万年間にわたって地球環境に負の影響を与え続ける恐れがあるものです。ですから、私たちが残した放射性廃棄物を、100年後の未来人が「嫌だな」と思っても、もう取り返しがつかないわけです。これは、非常に深刻な問題です。

 この問題を考えるとき、私はよく授業で、こんな思考実験を披露します。たとえば私が道に石を置くとしましょう。それから100年後に、誰かがその石に躓いて、怪我をしたとする。このとき私は100年後の未来世代を傷つけたことになります。しかし、道に置いた石なら、100年後の人々はそれをどけることができます。つまり、この場合には未来の人々が問題に対応し、それをなかったことにできます。

 ところが、気候変動や放射性廃棄物の問題では、そうはいきません。未来世代の人たちがどんなに頑張っても、現在世代が引き起こした災厄は取り返しがつかないわけです。ここにテクノロジーによって引きこされる未来への問題の困難さがあります。そしてそうした状況が出現したのは、やはり20世紀以降ですから、未来倫理に関心が高まってきたのが20世紀後半からであるということも、私としては必然であるような気もしますね。

ハンス・ヨナスと未来倫理

吉川 20世紀になって、急速にテクノロジーが発達したと。

戸谷 そうです。『未来倫理』の中でも書いていますが、元々私はハンス・ヨナスという哲学者を専門的に研究しています。ヨナスは倫理学の起源を古代ギリシャの詩の中に見ています。古代ギリシャでは、自然というものを、人間には制御不可能の脅威と見做していました。そして、その荒々しい自然から身を守るため、人間は協力して城壁などを作り、自らを自然と分離していったと。そうした人工的な共同体の中で、互いの人間関係をマネジメントするために生まれたのが倫理学であると、ヨナスは指摘するわけです。

 つまり、長い哲学史の中で、倫理学は自然から切り離されたものだったわけです。自然のほうが圧倒的に人間より強かったですからね。ところが、現代においては人間の力は日々増大し、自然を破壊し、制御することも可能となりつつあります。このような状況下では、倫理学は自然への影響について深く反省せざるをえない、ということがヨナスのスタンスです。私もそれは正しいと思っています。

吉川 少し前に、斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』がベストセラーになりましたね。あの本に書かれている「人新世」という概念も、未来倫理とのつながりの中で理解したほうがいいのでしょうか?

戸谷 その通りです。人新世というのは、地球環境の地層を指す言葉です。産業革命以降、それまでの時代と異なり、人間が作った産業廃棄物が新しい地層を形成するようになってきた。もはや人間の手によって地球が作り変えられているのであって、そうした時代における新しい責任意識を斎藤氏は私たちに問いかけているわけですね。ですから、「人新世」と「未来倫理」は非常に密接に関係しあう概念であると言えます。

倫理とは「このように生きるべきだ」という規範

吉川 なるほど、よく分かりました。『未来倫理』に戻ると、私がこの本で素晴らしいなと思ったのは、倫理学という学問分野全般の入門書にもなっているという点です。読者の中には、一生倫理学に触れる機会がない、という人も多くいると思います。そこで、今日の対談でも、非常に根本的なところからお聞きしたいな、と思っているのですが、戸谷さんにとって、倫理学とは何でしょうか?

戸谷 大変難しい質問ですね。というのも、倫理学があまり日本で浸透していない理由の一つに、日本語固有の問題があると思うのです。日本語では、「倫理」「倫理学」「道徳」といった用語が、ごちゃ混ぜになって使われている。

 ところが英語圏では、事情が違います。英語では「倫理」も「倫理学」も同じ「ethics」で、区別が無いわけです。「道徳」は英語では「moral」になりますよね。ですが、語源をたどっていくと、moralはラテン語で、ethicsはギリシャ語で「習慣」を指す言葉なのです。ですから、大本は共通した概念ではあると言えます。

 ただ、大学などで学生たちに倫理について説明する際には、「このように生きるべきだという規範」を「倫理」として定義し、そうした規範の正しさを問う学問が「倫理学」なのだと、説明をしています。

 個人の抱く規範は、人それぞれ異なります。ある人は、「人を助けるためだったら、うそをついてもいい」という規範を持って生活をしている。また別の人は、「どんな状況でもうそをつくべきではない」という規範を持っている。こうした人々が共同生活を営んでいくなかで、規範と規範が衝突しあう局面があります。そういったシチュエーションにおいて、どちらの規範のほうが合理的なのか、説得力があるのかといったことを探求する学問が、倫理学なのではないかと私は考えています。

様々な哲学理論のメリット・デメリットを比較してみる

吉川 非常に明快なご説明をいただきありがとうございます。あらためて本の内容に戻れたらと思います。本書では未来倫理の課題の具体例として、「気候変動」「放射性廃棄物処理」「ゲノム編集」の3つが選ばれているわけですが、この3つを選ばれたのには、どのような理由があるのでしょうか?

戸谷 未来倫理にも様々なテーマがありますが、特に注目されているのが、その3つということで選びました。ただ、この3つの問題は、未来に与える被害という観点からすると、大きく性質が異なると思うのですね。その辺りをきっちりと腑分けしたいな、というのは今回の本を書いていて思ったことです。

吉川 いまおっしゃった、問題の異なる性質の腑分けはきわめて重要だと思います。これは倫理学者に対する私の偏見かなとも思うのですが、倫理学者の方は、いったん自分の理論を決めたらどのような問題でもその理論で解決していこうとする傾向があるように思います。結果として、ある問題ではその理論が通用しても、別の問題ではどうもうまくいかない、というようなことがよくあるような気がします。その辺りはいかがでしょうか?

戸谷 その吉川さんの意見は100%正しいと思います。これまで出版されてきた世代間倫理に関する本にも明確にそのような傾向があります。例えば、ロールズの理論を使って世代間倫理を考察する、または功利主義の立場から世代間倫理を考えるといったようなものですね。私がこの『未来倫理』の中でおこなったような、一人の著者が複数の理論を並べ、そのメリット、デメリットを比較するといったタイプの本は、本邦初だと思います。

吉川 私はそのスタイルを採用したことが、本書のもっとも優れた点だと思います。現代社会の様々な問題について、一つの理論だけで何もかも説明・解決しようとするのは難しいでしょうし。

戸谷 例えばゲノム編集の問題を、功利主義の立場から分析すると、かなり無理のある話になってしまう。ある種の覇権主義的な国家が、全国民をゲノム編集することが許されるかどうかといった極端な想定も、功利主義の上では成り立ちますからね。そもそも功利主義とは快楽と苦痛の総和を計算するという発想に基づくものですから、マクロの問題に落とし込まないと適用できないのです。

 ですが、ゲノム編集の最大の問題というのは、自分の身体が他者によって設計されてしまうという部分にあるわけですよね。ゲノム編集によって、異常な記憶力を持った人が生まれたとする。その人が大人になって、世界的に優れた研究者になったとしましょう。ですが、それは自分の力によって得た成果だと言えるのかどうか? 親によって与えられた能力のおかげに過ぎないのではないか? そう考えだすと、自分の人生を自分のものとして生きられない、自分を自由だと思えなくなるわけですよね。このように、技術によって人間から自由が失われていってしまうかもしれないということが、ゲノム編集について考える際の核心にあるわけです。それは、功利主義では決してうまく説明できない。ですから、私は本書の中で、責任原理や討議倫理といった理論を駆使して、ゲノム編集について考察してみました。

吉川 特に図表があるのが素晴らしいですよね。なかでも125ページと127ページの図表によって、未来倫理だけでなく倫理学全般への見通しがきくようになっている。倫理学の本で、こうやって図表によって議論が整理されているものは、これまであまり見たことがないですね。

戸谷 この本を書いた意図として、私自身の考え方や思想を読者に押し付けたいというのはありませんでした。それよりはむしろ、この本を手掛かりにして、考えたり、議論をしてほしい。そのように思った場合に、最善の形式となるのはどのような本か、ということを考えたら、自然とこうした構成の本になりました。

質疑応答

吉川 それでは、質問にも少しお答えしていきましょうか。

Q 未来倫理では、気候変動の問題が重視されていますよね。将来破滅的な事態が起こることが予想されるので、気候変動への対策が重要だということは理解できるのですが、では今ウクライナで戦争が起こっているときに、気候変動への対策が優先されるのか? というと今一つ納得がいかないのです。戦争の例が極端だと言われるなら、その部分をコロナ対策や、世界の飢餓問題への対応と入れ替えても構いません。私が問いたいのは、未来に生じるであろう問題への対策が、現在すでに生じている問題への対策より優先されるのはなぜか? ということなのですが、そのあたり戸谷さんはどのようにお考えでしょうか?

戸谷 非常に本質を突いたご質問かと思います。この場合、ロールズの理論が参考になるのではないかと思います。ロールズは、功利主義に批判的です。ロールズに言わせれば、功利主義の立場に従うのなら、私たち現在世代は、生活レベルを無限に下げなければならない、ということになります。私たちの引き起こす環境破壊は、100年後、1000年後にも影響を及ぼしますから。1000年後の未来人に配慮をするならば、私たちはもう一切、石油も電気も使わないというのが正しい解答になってしまうわけです。

 でも、そんなのはちょっとおかしいですよね? ロールズは、そうした功利主義的立場に反対し、あくまでも現在の社会制度の中で一定の水準を満たしてから、その上で未来世代のために配慮をすればいいのだと主張をしました。例えば現在の社会の中に経済格差という問題があるのなら、まずはこちらを解決しないといけない。現在世代がある種の公正な社会を生きられるようになった上で、その後で未来世代に配慮をするべきだというのがロールズの考え方なのです。

吉川 しかし、もしその順番で問題に取り組むとしたら、結局のところ未来に対しては何もできないということになってしまうのではないでしょうか? 満足できる程度の社会的公正がいつか実現されるという保証もありませんし……。

戸谷 ロールズの提唱した概念の一つに「無知のベール」というものがあります。私たちがどのような社会制度が望ましいかを考える際には、一度自分がいかなる属性を持つか分からない状態にし、そのうえで社会制度を構想してみるという、一種の思考実験です。例えば「男女平等な社会を実現すべきか」という命題を考える場合に、無知のベールを被って、自分の性別が分からない状態にすれば、どんな性別であっても望ましい社会を考えようというインセンティブになりますよね。

 そして、ここがロールズの面白いところなのですが、彼は私たちが無知のベールを被った場合に、資産の有無や性別などは分からなくなるのだけれど、必ず子孫がいるという前提を定めています。子どもがいない、という場合は想定しない。そうすると自ずと、私たちは自分たちの子孫についても配慮をしながら、社会を構想することになるわけです。ですから、まずは今生きている私たちの問題について検討するのだけれど、それと同時に未来の子孫にも配慮をする。それが、ロールズの思想なんだと思います。

吉川 すると、ロールズは誰もが子どもを持つことを前提に考えているわけですね。ただ、そう考えた場合に、反出生主義のような立場はどう考えたらよいのでしょうか?

戸谷 反出生主義というのは、この世界に生まれること自体が苦痛なのだから、人間はもうこれ以上この世界に生まれてこない方がよい、したがって人類は絶滅した方がよい、という思想ですね。反出生主義のイデオローグにデイヴィッド・ベネターという哲学者がいますが、彼は本気で人類は絶滅すべきであると考えている。そして、人類を絶滅させるためには、具体的にどのような政策が必要かということまで考えているわけです。おそらく誇大妄想的に聞こえるかもしれませんが、これは結構笑い事でもなくて、イギリスなどでは既に、反出生主義を推し進めるための政党なども出現しています。その背景には、社会の中で生きづらい人が増えてるということがあるのではないかと、私は推察しています。

 それに対して、ハンス・ヨナスや討議倫理の立場の哲学者たちは、人類はむしろ存続するべきであるという立場を取っていまして、私もその一人です。ただ、今の情勢ですと、人類は存続すべきであるということを正当化するほうが難しいですね。私は反出生主義のほうが、人々の直感に訴え掛ける議論としては有利かな、と思っています。

 ですがその一方で、討議倫理では討議ができる理性的なコミュニケーション能力を持った存在というのは、別に人類ではなくてもいいと考えられているのです。『未来倫理』の中で私はアーペルという哲学者を紹介していますが、アーペルは人間の胎児よりも、言語能力をもった異星人の方が理性的でありえると主張しているのですね。ですから、討議倫理では人類が滅びた後で理性的な別の生物が出現してきたら、その生物に対して私たちは責任を負うということになるのではないかと思います。そこまで踏まえて考えていくと、人類の絶滅と両立するような、さらに次の生物種まで見据えた未来倫理みたいなことも考えられるかもしれないですね。

吉川 そう考えてみると、未来倫理というのは、非常に射程の長い理論であると言えますね。戸谷さん、今日は本当に長い時間、ありがとうございました。

撮影/三浦咲恵

構成/星飛雄馬

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プロフィール

戸谷洋志×吉川浩満

戸谷洋志(とや ひろし)
1988年東京都生まれ。哲学研究者、関西外国語大学准教授。法政大学文学部哲学科卒業、大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現代ドイツ思想を中心にしながら、テクノロジーと社会の関係を研究。著書に『ハンス・ヨナスを読む』『原子力の哲学』『ハンス・ヨナス 未来への責任』『スマートな悪』、共著に『僕らの哲学的対話 棋士と哲学者』『漂泊のアーレント 戦場のヨナス』などがある。新刊に『未来倫理』がある。

吉川浩満 (よしかわ ひろみつ)
文筆家、編集者、ユーチューバー。1972年3月、鳥取県米子市生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。国書刊行会、ヤフーを経て、現職。晶文社にて編集業にも従事。哲学愛好家。単著に『哲学の門前』『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である 増補新版』『理不尽な進化 増補新版――遺伝子と運のあいだ』など。共著に『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。――古代ローマの大賢人の教え』『人文的、あまりに人文的――古代ローマからマルチバースまでブックガイド20講+α』などがある。

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わたしたちは「未来倫理」をいかに語れるか