対談

カント倫理学が今日どこまで通用するか?

秋元康隆×戸谷洋志 『いまを生きるカント倫理学』刊行記念対談
秋元康隆×戸谷洋志

さまざまなテクノロジーの発達も手伝い、善悪の基準がますます曖昧となっている現代社会。ビジネス、道徳教育、生殖・医療、環境問題、AI、差別問題……。
現代社会で巻き起こるあらゆる倫理的な問題について、私たちはどう判断すればよいのか。
その答えは「カント」にあります。
哲学・倫理学における重要な古典としてつねに参照され続ける一方、難解と評されることの多いカントですが、本場ドイツでカント倫理学の博士号を取得した著者が、限界までやさしくかみ砕いて解説。
その上で、現代を生きる私たちが「使える」実践的な倫理として提示した一冊が、ドイツ在住のカント研究者・秋元康隆さんの『いまを生きるカント倫理学』(集英社新書)です。
この刊行記念トークイベントのゲストに著者の秋元さんと、ハイデガーやヨナスを中心に研究し著作を上梓されている哲学研究者の戸谷洋志さんをお迎えします。
この現代社会の倫理的問題について、カントの倫理学でどこまで何が言えるのか?
お二方がそれぞれの観点から迫っていきます。
※2022年8月12日、本屋B&Bにて行われた配信トークイベントの模様の一部を記事化したものです。

秋元康隆さん
戸谷洋志さん

カント倫理学の魅力とは

秋元 このたび、集英社新書から『いまを生きるカント倫理学』という本を上梓しました。今日は、ドイツからオンラインという形になってしまいますが、哲学研究者の戸谷洋志さんと対話させていただけるということで、楽しみにしております。

戸谷 今日は秋元さんの新刊の刊行記念イベントということですので、まずはぜひ、秋元さんから簡単に、著書の内容についてご説明いただけますでしょうか。

秋元 では、簡単に。皆さんは、カントとか倫理学と聞いて、どんなイメージを持つでしょうか。おそらく、多くの方にとっては、読んでもわからない、難解なもの、というイメージではないでしょうか。でも、倫理というものは、人間なら誰でも関係があるものですよね。ですから、私は、倫理学の本というものは、本当は誰が読んでも理解できるように書くべきだし、それは可能だと思っています。そうした思いがあって、私はこの本を書きました。

 私はいつも他人から「カントの倫理学とはどういうものですか?」と聞かれたら、それは「人間の内面に関心を寄せて評価をする思想」だと答えるようにしています。

 私たちが行動をするとき、その判断の根拠は何なのかを問う。また、その行動をしたときの動機は何なのかを問う。そしてそれが、自分のためじゃなく、道徳的に正しいからするのが大事だということです。

 ですが、今の世の中を見ていると、むしろ逆の傾向が強いように思うのです。自分さえよければいいとか、結果がすべてという言葉を、よく聞きますよね。でも、私はそういう言葉を聞く度に、それは違うと思っています。

 おそらく、皆さんの周りにも、受験や就職で挫折して、それが心の傷になっている方がいると思うのです。実際、私の周りにも何人かいます。そういう人たちに対して、もう少し周囲が彼らの内面に関心を持って評価する人がいたならば、違った結果があったのではないかと思うのです。他者の内面に関心を払い、評価する人がもっと増えてほしい。そうした社会になってほしい。それが、私の願いです。

なぜ応用的な話題を重視したのか

戸谷 ありがとうございました。それでは次に私が感じた点なのですが、普通、『いまを生きるカント倫理学』というタイトルの新書ですと、カントの生涯の説明から始まって、全編にわたってカント倫理学の解説がされているのかと思いきや、ビジネスや生殖・医療倫理の問題といった、応用的な話に多くのページが割かれていますよね。

 このような構成にされた理由や動機について、よろしければお聞かせいただけますか?

秋元 本の構成についてですが、まず、今回の企画を編集者の方から提案いただいたときに、例えば、AIや医療・生命倫理とか、差別の問題などという今日的な問題を、カントの観点から語った本が書けないか、というお話だったのですね。

 そこで、そうした応用的な話題を中心にした草稿が書きあがったところで編集者の方に見てもらったのですが、そのときに、序章としてカント倫理学の基本的なことを説明したほうがいいのではないかというアドバイスをいただきました。それには私も納得したので、最後に序章を書き加え、また、その序章の内容が、応用的な話題を理解する上でのベースとなるように配慮いたしました。

戸谷 なるほど、よくわかりました。この本を一読して、私が一番感動したのは、カントの基礎理論の話が序章で終わっているということでした。たった30ページで、カント倫理学のエッセンスを説明しつくしている。この要約力が、素晴らしい。

 ただ、単なるコンパクトな説明というわけじゃないのですよね。コンパクトだから内容が薄いというのとは全然違って、その後に続いていく章の中で、序章で説明された理論が、何度も活かされていく。カントが説く、自分で考えるってどういうことなのかとか、内面性を重視するってどういうことなのかというのが、具体的な事例について考えていく中でより深まっていくように書かれている。これはすごいな、と思いましたね。

秋元 ただ、一般の読者にはいいと思うのですが、カントを専門的に学んでいる研究者からすると、ちょっと簡単にし過ぎじゃないか、という批判はあるかと思います。

戸谷洋志さん

動機主義一本でカントを読み解く

戸谷 私はカントが専門ではないので、その辺りのことは分かりませんが、秋元さんの本を読んで、私のカント観が変わったことは間違いありません。

 一般的に、カントというと、定言命法がイメージされるじゃないですか。そうしたカント観に対して、秋元さんは動機主義というか、内面性を重視する読み方を、カントの著作に対して打ち出している。これは新鮮でしたね。

秋元 はい。そこは私も重視した点ですね。本来は善い動機から行為するための補助装置としての定言命法であるはずなのですが、おそらくそちらが難解で、多くの説明を要するからみんなこぞって取り上げるのだと思います。道徳法則を導く手段としての定言命法ばかりにスポットライトが当てられ、本丸であるはずの動機主義の側面が蔑ろにされているような印象を私は持っています。イベントの来場者の方々にちょっと補足をすると、定言命法というのは、カント自身の言葉によると、「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理に妥当しうるよう行為せよ」となります。なんだか、難しいですね。

 これはつまり、普遍的な法則というのなら、自分だけではなく、万人に妥当する、みんながそれを望ましいと思う、そういう原理でなければならないとカントは言うわけです。ここで誤解してほしくないことは、定言命法が求めるのは、現実にみんなが望ましいと判断するはずである規範が、いわば「正解」として存在していて、それを導けなければならないということではないという点です。だって、みんなが同じ結論に達するなんて、そんなことありえないでしょう。不可能です。定言命法が要求しているのは、あくまで行為主体である私が普遍的な視点に立って考え、判断を下すことなのです。私は、客観だけでも、主観だけでも、道徳は成り立たないと思っています。定言命法は、客観的な視点に立って考えた上で、主観的に判断することで、主観と客観の融合を図っているのです。

戸谷 私も大学で教えていて、カントの話をすると、学生から特定のケースを持ち出されて、「カントの定言命法によると、みんなが受け入れられる、いわゆる「正解」はどうなるのでしょうか?」と聞かれ、答えに窮することがあります。でも今日のお話を聞く限り、カントという人は「正解」を導けなければならない、それができなければ道徳性に支障が出るなどとは考えていないということなのですね。

秋元 その通りだと思います。もっとも私の立場とは異なり、例えば、うそという行為は定言命法によって例外なく禁止される、という解釈をとる研究者もたくさんいます。つまり、「うそは不正解」「真実(少なくとも自分の知っていること)を言うのが正解」ということです。いかなる状況であろうと、いかなる動機からであろうと、ということです。でも私は、それはおかしいと思うのです。そうした考えは、カントの動機主義、動機が大事なのだという考え方とは矛盾する。一方では、道徳性は動機にかかっているのだと言っておきながら、うそという行為そのものが道徳的に悪であるという。その整合性は一体どうつくのか? そうして思索を深めた結果、私はカント倫理学とは、動機主義一本で解釈すべきだと結論したのです。

戸谷 なるほど。少し話がそれますが、私は今年、『スマートな悪』という本を出版いたしました。その本の中で私は、今の日本は世間の空気に迎合し、自分を世間に最適化させて生きている人が多いのではないかと提起したのですね。そして、そうした態度を「スマートさ」という概念と関連付けて論じたのですが、やはり、私はそうした動きには抵抗すべきであると思っています。

 では、その抵抗する力とは、何なのか? そうして思索を深めていったとき、思いついたのが、自分で問い直す力が大事なのだと。そして、そうした自分で自分のことを問い直す力を養うには、カントの倫理学が大きな手掛かりになるのではないかと、本書を読んで感じました。

秋元康隆さん(上)はドイツの自宅からリモート参加。

反出生主義の流行について

戸谷 今日、特に秋元さんにお伺いしたかったのは、反出生主義についてです。この本のなかでもかなり触れられていますよね。反出生主義は、2017年にデイヴィッド・ベネターという哲学者の『生まれてこないほうが良かった』という本が邦訳されて、日本でも広く知られるようになりました。

 このベネターの主張を簡単に要約すると、人間というのは誰であっても、存在するよりもむしろ、存在しないほうが道徳的によい、というものです。なぜかと言うと、理由は単純で、存在しなければ苦痛を感じることもないからですね。そして、苦痛を感じないことはすごくよいことなのだけど、一方で、快楽がないことは別に悪いことではないとベネターは考える。

 生まれてきてしまうと、快楽も苦痛も両方あるけれど、生まれてこなければ快楽も苦痛も両方ないので、両者を比較すると、生まれてこないほうがよい。したがって、人類はもうこれ以上子どもを生むべきではなく、段階的に絶滅していくべきである。これが、ベネターの唱える反出生主義です。

 こうして改めて述べるとかなり特異な考え方に聞こえますが、こうした考えが今、日本でもすごく注目を集めている。こうした反出生主義について、カント倫理学ではどう考えるのか、秋元さんからご説明いただけますでしょうか。

秋元 『生まれてこないほうが良かった』を読むと、今すぐ人類が子供を産むことをやめろとは言っていないのですね。段階的に子供を産む数を減らしていけと主張している。そこが、私は不徹底だと思う。

 なぜなら、その理屈だと、今生きている世代は、大きな負担を被らなければならないことになりますよね? なぜ、今生きている世代だけ、過剰な負担をしなければならないのか? その意味がさっぱり分かりません。

 私自身は、反出生主義者ではありません。しかし、もしベネターの理論を突き詰めるなら、全人類が一瞬で絶滅するような爆弾といった兵器を製造し、地球そのものを破壊すべきです。もちろん、これは私自身がそういったテロリズムを支持しているわけではないですよ。

戸谷 なるほど。私自身も秋元さんと同じく、反出生主義者ではありません。ベネターの論証にもいろいろと疑問を感じます。たとえば彼の説明は、個人のレベルだと理屈は理解できるのですが、人類のレベル、つまり絶滅へのプロセスの話になると、急に功利主義になるのです。今、生き残っている人類が、いきなり絶滅した場合の苦しみの総量と、段階的に絶滅していった場合の苦しみの総量を比較して、どちらが大きいかという話になっていく。そこには飛躍があるような気がします。

 その一方で、ベネターの議論の中には、説得力を感じるものもあります。例えば、病気や障害などで、生まれつきすさまじい苦痛とともに生きている人もいますよね。また、虐待など極めて劣悪な生活環境で育つ子供などもいたりします。

 ですから、私たちは生まれてくる前に、どんな環境のもとに生まれるか選べないわけです。それを、ベネターはロシアンルーレットにたとえていて、そんな残酷なゲームに強制的に参加させることになるのなら、子供など存在させないのが道徳的なのだと、彼は主張するのです。

「親ガチャ」という言葉が、最近若者の間でよく使われますよね。ある種決定論的な世界観で、生まれ落ちた家柄や環境で、その後の人生が全部決まってしまうという。こういった世界観は、カント倫理学ではどう捉えられるのでしょうか?

秋元 カントの倫理学は、決定論的な世界観ではありません。もちろん、人間にとって生育環境というのは、非常に大きいファクターですよね。例えば、押しつけがましい親の元で育ったために、自分で思考する能力が乏しい人もいるかもしれない。また、生まれつき能力の制約があり、考えることが苦手な人もいるかもしれません。

 そんな場合にカントは、それはその人の限界、能力だから、それを超えたものは要求しません。能力が足りないからといって、それ自体が倫理的落ち度に直結するということはないというのが、カントの考えです。

 ただ、だからといって、そのままでいいとはカントは言いません。能力が低いというのは倫理的落ち度ではないけれど、そこから這い上がるために、必死で努力をすることが大事です。私たちは、自分自身の能力を陶冶する義務がある。そうした努力を怠るのは、倫理的な落ち度だとカントなら言うと思います。

 先ほどの親ガチャの話でいうと、生まれが悪かったから私にはどうしようもできない、私は悪くないのだというのは、それはカントなら言い訳だというでしょうね。私も、そうした考えは言い訳だと思います。生まれた環境はその後の人生に影響するでしょうが、それが100パーセントというわけではないのですから。

生殖の問題について

戸谷 ちょっと違う視点でのご質問になってしまうかもしれないのですが、カント自身は生殖の問題については、どのような考えを持っていたのでしょうか。

秋元 生殖の問題については、カントはかなり問題含みな発言をしているのですよね。というのも、カントは婚外交渉のようなものはよくないということを言っているわけです。カントはその理由として、性というものは種の存続のためにあるのであり、それ以外の目的で使用することは自然に反する、という言い方をするのです。いろいろ突っ込みどころがありますが、そもそも婚姻関係のない二人が生殖活動をして子供をもうけることなど想定されていない点が象徴的だと思うのです。同じ論調でカントは、自慰行為や同性愛なども許されないと言います。でもこれって定言命法とはまったく関係ない話で、単に目的論的な説明ですよね。「そこには目的が備わっているのだから、その目的に適った使用以外は認められない」と言われても、「なるほど、納得!」とはならないでしょう。

 私はカントの研究者ですが、この問題に限らず、カントの意見に100%賛同しているわけではありません。カントといえども時代の制約というものがありますし、当時の常識的な考えに沿って議論を展開しているケースも多くあります。ですから、そうした点には注意しながら、カントの著作を読んでいく必要はあると思っています。

質疑応答

戸谷 それでは、質問にも少しお答えしていきましょうか。

Q 私は秋元先生と同世代の、いわゆるロスジェネ世代です。日本は民主的・経済的繁栄を謳歌した世代が30%いる中で経済的停滞を続けており、競争原理や他者比較によって自分の存在意義を確認し、不安を抱えながら生きています。そのような特殊な環境での、カント的意義をご教授ください。

秋元 現代の日本社会において、カント倫理学の意義は、大いにあると思います。今の日本って、結果ばかり追い求める社会になっていると思います。ですから、これからの日本は、結果ばかりではなく、人の内面に関心を寄せて評価する社会にしなくてはなりません。

 これは、他者評価だけではなく、自分自身への評価にもつながる話です。自分自身の肩書や社会的地位、年収などだけではなく、内面であるとか、どんな動機を抱いて生きているかを重視する。そういうことが大事ですね。

 私もね、かつてはドイツで博士論文を書いて、日本で就職したいと思っていたのです。そうして長年苦闘してきたのですが、どうしても日本の大学で常勤のポストを見つけることができませんでした。

 そうしてずっと、日本に帰りたい、日本の大学に就職したいと囚われていたのですが、あるとき吹っ切れたのですね。自分を見つめ直して、お前は何のために生きているのだと。お前がやりたいのは、日本の大学に就職することではなく、カントの研究じゃないかと。そのために生きているんじゃないのか、と自分に言い聞かせることにした。

 そうすると、スーッと肩の荷が下りて、本当に気が楽になったのです。人生の意義とは、肩書や年収にあるのではなく、自分の内面にあるのだと。私自身も、自分自身によくそう言い聞かせて生きているのですよ。

戸谷 私も普段から大学で学生たちに接していますが、皆、インスタグラムをはじめとしたSNSをやっているのですよね。それで四六時中、同級生たちが今どこにいて、どんなキラキラした日常生活を送っているのか、絶え間なく見せつけられている。ある意味では地獄ですよね(笑)。僕の授業中も、講師の話なんか聞かないで、必死にスマホでインスタグラムを見ているのです。

秋元 でも、それってすごく辛いですよね。一日中、自分と他人を比較しながら暮らしている。私たちは、あくまで自分の内に物差しを持って、生きていくべきなのです。

戸谷 ちなみに、秋元さんはなぜ、大学で哲学を専攻し、研究者を志したのですか?

秋元 普通の高校生は、そのままストレートで高校から大学に入学するか、せいぜい一、二年浪人して、大学に入るわけですよね。私はそうしたまっとうなルートとは全然違う道を歩んで研究者になったのですね。高校時代は野球部で野球に打ち込んでいたので、勉強はほとんどしていませんでした。

 それで、受験勉強もしていませんから、高卒で就職しました。会社名は言いませんが、それなりに有名な大企業に就職しました。でもね、入社したらつまらない単純作業ばかりやらされてね。まだ18、19歳の若僧ですから、これから一生、こんな単純作業をしていくだけで終わるのか、と考えちゃったのですね。一体俺は、何のために生まれてきたのだろうかと。

 それで、やっぱり大学で本格的に勉強をしよう、哲学をやろうと思って、仕事を辞めて受験勉強をゼロから始めて、日本大学の哲学科に入りました。

戸谷 研究者としては、かなり特殊なキャリアですよね。あまりそういう人は、研究者の業界にはいないですよね。すごいですね。

秋元 今では、それが自分の長所だと思っています。あまり他の人のことは言いたくありませんが、学者さんって、本当に勉強ばかりやってきた人が多いのですよ。一般企業に入ったことがないどころか、アルバイトもしたことがない人が、結構いますからね。やったとしても家庭教師とか、要するに先生と呼ばれるような仕事しかしたことがない。そういう人間と、私みたいに一般企業の経験がある人間は、違いますからね。そういった人生経験は、今私がやっている哲学、倫理学にも生かされていると思いますね。

戸谷 大学院生の時点で学振(日本学術振興会)の特別研究員になってしまい、そのまま研究者として働く人も多いですからね。そうすると、まったく就業経験がないまま、大学教員になってしまう。そんな人が大半のコミュニティの中で、秋元さんみたいなキャリアパスは、すごく珍しいなぁと思います。

Q 近年、日本で健常者が、知的障害のある方を多数殺害するという事件がありました。そのとき、犯人が被害者を殺すかどうか判断する基準としたのが、自分の名前を呼ばれたときに、それを理解できるかどうかという点だったそうです。自分の名前も理解できない場合には、人間としての認知は働いていない。イコール、生きていないという理由です。私は、こうした犯人の考えには反対ですが、カントの哲学も、ある意味人間が考えることができるということを前提にしているように思います。この点について、どのように考えればよいかご教示いただけますでしょうか。

秋元 すごくいい質問ですね。これは、相模原障害者施設殺傷事件の話ですね。かつて、植松聖死刑囚が障害者施設に侵入し、多数の方を死傷したという事件がありました。植松は、重度の障害があるような人は生きている意味がない、むしろいないほうがいいと考えたのですね。

 この事件については、『いまを生きるカント倫理学』の中で詳しく取り上げたので、ここでは簡単なコメントにとどめますが、私は植松の供述には整合性がないと考えています。色々言っているけれど、結局は利己的な感情から殺人を犯しているにすぎない。ですから、彼の主張はまったく正当化できないと考えています。

 仮に、その人に障害があって、人間としての認知が働いていないとしても、殺していいなどという理屈は、絶対に成り立ちません。このことだけは、ぜひ覚えておいてください。カントであっても、そのようなことは絶対に言わないと思います。

戸谷 刺激的な質問をたくさんいただきましたが、そろそろこのイベントも終了のお時間ということで、秋元さんから最後に一言いただけますでしょうか。

秋元 最初に言ったことと重複してしまいますが、私が一つだけ、どうしても言いたいことと問われたなら、人の内面に関心を寄せて評価することの大切さ、これに尽きると思っています。私はそれを、今後の人生を通じて伝えていきたいと思っていますし、もしそれが今日、皆さんに伝わったとしたらうれしく思います。■

撮影/野本ゆかこ
構成/星飛雄馬

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いまを生きるカント倫理学

プロフィール

秋元康隆×戸谷洋志

秋元康隆(あきもと・やすたか)
1978年生まれ。トリア大学講師、トリア大学附属カント研究所研究員。専門は倫理学、特にカント倫理学。日本大学文理学部哲学科を卒業し、日本大学大学院の修士課程修了後、カント研究の本場ドイツに渡る。トリア大学教授でありカント協会会長であるベルント・デルフリンガー教授のもとで博士論文を執筆し、博士号取得。ドイツ在住。著書に『意志の倫理学――カントに学ぶ善への勇気』(月曜社)、『いまを生きるカント倫理学』(集英社新書)がある。

戸谷洋志(とや・ひろし)
1988年東京生まれ。法政大学文学部哲学科卒業、大阪大学大学院文学研究科文化形態論専攻博士課程修了。現在、関西外国語大学英語国際学部准教授。博士(文学)。専攻は哲学。現代ドイツ思想を中心にしながら、テクノロジーと社会の関係を研究すると同時に「哲学カフェ」を始めとした哲学の社会的実践にも取り組んでいる。著書に『Jポップで考える哲学――自分を問い直すための15曲』(講談社文庫)、『原子力の哲学』(集英社新書)、『ハンス・ヨナス 未来への責任──やがて来たる子どもたちのための倫理学』(慶應義塾大学出版会)、『スマートな悪──技術と暴力について』(講談社)などがある。

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カント倫理学が今日どこまで通用するか?