世界は支配する側とされる側に分かれつつある。その武器はインターネットとAIだ。シリコンバレーはAIによる大失業の恐怖を煽り、ベーシックインカムを救済策と称するが背後に支配拡大の意図が潜む。人は専制的ディストピアを受け入れるしかないのか?
『テクノ専制とコモンへの道 民主主義の未来をひらく多元技術PLURALITYとは?』(集英社新書)の著者、李舜志氏(法政大学社会学部准教授)と、江戸研究の第一人者である田中優子氏(法政大学名誉教授)が、最新の「デジタル民主主義」のテクノロジーと、江戸文化の意外な接点について語り合った90分。あたらしい専制とAIが支配的になると予想される近未来に備えて、今からできることとは? 3回にわたりこの対談をお送りします。
構成=高山リョウ 撮影=岩根愛

新たな帝国主義と究極自由主義のはざまで
田中 「新たな帝国主義と自己利益を追求する究極自由主義。そのいずれでもない第三の道を示す希望の書」。御著書である『テクノ専制とコモンへの道』を拝読して、私は以上の推薦の言葉を寄せました。まず頭に浮かんだのは、この本はテクノ専制でもリバタリアニズムでもない「第三の道」を示す希望の書であると。
次に「大国が小国を吸収する新たな帝国主義」という言葉が出てきた。実際の本の中では、「統合テクノクラシー」という言葉で説明していらっしゃるけど、それがわかる人は私の世代ではいない。「帝国主義」というと、今のトランプ現象とかプーチンであるとか、習近平のような「かつての帝国主義」を思い浮かべる人が多いんです。それと全く違うわけではないけれど、「統合テクノクラシー」は、ITの技術を介したデジタルテクノロジーの中での話だから、正確に言うと違う。でも、私の世代の人たちにもわかっていただくために、「新たな帝国主義」という言葉を使いました。
そして最後に「際限なく自己利益を追求する究極自由主義」という言葉。これも本の中では「企業リバタリアニズム」という言葉を使っていらして、この言葉も国際情勢に関心のない方はわからない。ただ、現在の選挙の状況などを見ていて、「自由主義の究極というものはどこに行ってしまうのか?」ということを懸念している人は非常にたくさんいて、それはかなり高い年齢層にまで及んでいます。ですから「究極自由主義」という言葉を使いました。
李 「新たな帝国主義」という言葉は、本当に適切にパラフレーズしていただいたと思っています。最近発売されたユヴァル・ノア・ハラリの『NEXUS 情報の人類史』(邦訳:上下巻、河出書房新社)という本にも書かれているのですが、やはり「デジタル帝国主義」という現象が起こりつつある危惧はありまして、昔の帝国主義が原材料とか農作物を被植民地から収奪しているタイプだとすると、新しいテクノロジーを使った帝国主義は、データを収奪している。それによって自分たちの国を豊かにする代わりに、被植民地は貧困のままにとどめておく。現在、そういう事態が起こっているので、「帝国主義」は時宜にかなった言葉ですし、「自由主義」に関しても、今回の私の著書で使っている「企業リバタリアニズム」という言葉は、ひと握りの経営者が「自分たちで国を作ろう」みたいな、海上都市を作るだとか、民主主義から脱出するところまで行き着く自由主義を指すものです。ですからそこに「究極」という言葉がつくのは正確だと思いました。
田中 「新たな帝国主義」と「究極の自由主義」、この二つが今まさに目の前に展開されていて、この書籍はそのどちらでもない「第三の道」を示している。そしてその第三の道とは、「多元性」と「デジタル民主主義」という言葉に象徴されている。
実際の状況はもうすこし複雑で、たとえばイーロン・マスクは自己利益を追求するリバタリアンだと思うけれども、じゃあ、そのイーロン・マスクの言うことをトランプは聞くのかというと、聞いてないですよね。マスクの主張とは随分違うことをやっている。だから、そこはどうなんだろうって。リバタリアンの中での分裂が起こっているのか? 今日の本題ではないですけれど。
李 イーロン・マスクとトランプが喧嘩しているという話はその通りで、なぜかというと、リバタリアンたちは確かに、トランプに代表される右派とか保守派と共闘はしているんです。ピーター・ティールもトランプに莫大な資金を援助している。でもリバタリアンたちは、トランプを支持している一部の保守派や、あるいは福音派を馬鹿にしているんです。
リバタリアンは、「アメリカの伝統を守ろう」とか「キリスト教を中心とした国家をつくろう」とかの「連帯」が嫌いな人たちなので、「アメリカ人で団結しよう」みたいな動きは軽蔑して、そこで亀裂が生じているんです。だから関税をイーロン・マスクが批判しているのは、単純に「自分の会社が儲からないから」ですけど、トランプの関税政策を支持している保守派は、関税を課すことによって「アメリカの純粋性や一体性が強まる」と思っている。ここはもう対立して必然なんです。だからその点では、これからリバタリアンと保守派の亀裂がどんどん広がっていくとは思います。
複雑系科学と江戸時代の「連」
田中 本題に戻って、「新たな帝国主義」である「統合テクノクラシー」とは、どういうものなのか? これからのデジタル社会について考える時、AIについての楽観的な見方と悲観的な見方の両方があって、どちらにしても何かの期待を持っていますよね。だけれども結局、「AIによる統合テクノクラシーは起こり得る」と本の中で分析していらっしゃる。それから、リバタリアニズムが進んでいって、もしかしたらそちらのほうで崩壊が起こるかもしれないという予感についても、いろんな論者の考えも引きながら分析して、その上で「第三の道」を書いていらっしゃる。
この第三の道は「デジタル民主主義」という、オードリー・タンとかグレン・ワイルがもたらしたものであり、実際に、私たちが知らない間に台湾では実現されている。だから夢みたいな話ではなくて、既に台湾にあって、それが香港の動きによってもたらされてという筋道で書いてあるので、現実性を感じます。「日本はそういう道に行くのか?」という問題提起をしていると思うんですね。
李 そうですね。台湾の話で若干危惧しているのは、確かにオードリー・タンたちの取り組みは素晴らしくて、日本でもオードリー・タンの本とか写真をたくさん見るんですけど、どうも「オードリー・タンという天才がいて、その天才が何でもやってくれる」みたいに思っている節がある。「だから日本も早く、オードリー・タンみたいな天才が登場してくれ」というような。

田中 そうそう、コロナの時代があったからそうなっているのよね。台湾はデジタル技術を駆使した政策で、国民にマスクが行き渡る仕組みをいち早く作り、大規模な感染を抑止した。
李 そうなんです。でも、オードリー・タンたちの発想は、日本の風潮とは真反対で、「天才が一人で上から率いる」のではなく、「みんなで一人ずつ協力して、ボトムアップで難局を乗り越えていこう」というものでした。そのあたりがよく理解されていないのではないか。今回の本で、みんなが自ら参加する「デジタル民主主義」のあり方が、しっかり伝わっていけばいいなと思っています。
田中 そしてさらに「Plurality(多元性)」という面白い言葉もあって、これは複雑性の科学から発想を得ている。複雑性の科学って1980年代ぐらいに起こってきた随分昔の話なんだけれども、そこから刺激を受けて物を考える人はとても多くなった。多くなったけれど、その影響で社会とか政治のほうで何かが起きたかというと、大きな動きはなかった。だけど今、複雑性に刺激を受けた「Plurality」という方法があるということを書いてくださったから、私としては非常に面白かったです。
李 複雑系の話については、田中先生にお聞きしたいことがあります。複雑系って、すごく単純化して言うと、「部分の総和が総和以上のものを生み出す」というか、1+1+1が3にならずに、10にも100にもなるという話なんですよね。これって考えようによっては、すごく神秘的じゃないですか。だから従来のニュートン的な科学、近代科学では捉えきれないものとして登場したのですが、先生の著書を読んでいくと、江戸時代の「連(れん)」の話がたくさん出てきます。連とは、身分を超えて形成された俳諧や狂歌のネットワークですが、これも「複雑系」ではないのか?と考えました。
たとえば狂歌の連では、人々がつながり合って歌をつくるだけではなくて、そこに神性というか、神みたいなものが降りてくるといった話を書かれています。連を形成することで、普段は一人ひとりの意識の表面に上ってこない力、すなわち神が働くのであると。これは牽強付会かもしれないですけど、やはり人々が集うことによって、一人ひとりが今まで持っていなかった「創造性」が発揮される。それを以て江戸時代の人たちは「ここには神がいる」と感じたのではないか。そのように思ったのですが、いかがでしょうか?
江戸に「個人」は存在しなかった
田中 たしかに「一人の天才が何かをやる」という考え方は、江戸には全くなかったです。だから連を作る時も、たとえばすごく目立った人として、平賀源内みたいな人がいたとしても、「この人に全部任せよう」なんて思ってなくて、むしろみんなが馬鹿にしながら付き合っているということをやるわけです。連では、そうやってお互いに自分を「分岐」させますから、分岐したところで他の人とつながります。自分の中にA、B、C、Dという人格があるとすると、Aでつながる人、Bでつながる人、Cでつながる人、Dでつながる人という具合に別々につながる。そして他の人たちもA、B、C、Dと分岐して、それぞれがつながっていくから、膨大なネットワークになるんです。
そしてこのA、B、C、Dというのは、自分で決めて分岐するものではなく、「この人と付き合ったらAという自分が生まれちゃった」とか、「これをやっていたらBという自分が生まれちゃった」というような感覚を持っているんです。これは関係が及ぼす力、つまり、「関係というものが生み出してしまう自分」なんですね。だから、自己主張を全然していないし、それから大体、江戸では「個人」というものが存在するなんて思ってもいないので、全てが関係の中で作られていく。複雑性とはそういうことです。
まず個という単位があって、個と個が結びつくのではない。そうではなく、全体的な関係性の中で、ある要因が別の要因に刺激されながら、別の分岐をしていく。だからたとえば「無限のツリー分岐」という概念も複雑性の中にあるけれど、でも、そういうものは自然界にはごく普通にあって、それが個別のものが合わさっているわけではないということを、私たちは感覚的にわかりますよね。
李 そうですね。

田中 それをちゃんと科学にしましょうと言っているだけのことなんです。だから不思議でもないし、あまり私は神秘的とも思ってないわけで。たとえば連句の場合には、桜が咲いている時に桜の木の下で連句会をやったりするんです。それは神様仏様というより、「自然界とつながることによって引き出される自分がある」という感覚をみんな直感的に持っているんですよ。それが連のやり方なんです。
連句に学ぶ「つかず離れず」の距離感
李 田中先生は御著書で、連で分岐していく人格を「アバター」になぞらえた話もされていました。今回の本で僕は最新のテクノロジーの話をしましたが、複雑系にしても欧米から最新のアイディアを輸入することも大事ですけども、江戸時代に結構ヒントがあると思っています。明治の近代化にあたって自分たちが捨て去ってきたもの、先生はその「捨て去ってきたものの豊かさ」を研究されてきたんですけど、それを再検討する機会ではないかと思います。
田中 非常に似ているところがあるなとは思いますね。もう一つ複雑系では、御著書でも書いていらっしゃったけれども、「カオスの縁(ふち)」という問題。必ず何かが生じる時にはエントロピーがマイナスになるから、カオスというのは自分自身で秩序を作っていく。この「自分自身で」というのがすごく大事なことで、だからカオスの縁に何かが起こる。現代の私たちは「秩序とカオス」というふうに二分岐で考えてしまうけど、つねに創造はその「間(あいだ)」で起こるんです。だから分岐する前の「縁」と言っていることが、とても大事で。私は「あいだ」という言葉もとても大事にしています。「あいだ」って「間(ま)」とも書くんだけども、間の考え方というのは日本の伝統の中に確実にあるんです。
普通の座敷でもそうだけど、「間(ま)」は何か用途が決まっているのではなくて、誰かがそこに入った途端にその場ができる。そういうふうに場と人間が相互作用してしまう。だから、そういうような「あいだ」の感覚というのかな、それがこの本の「多元性」の問題にも出てきているのですごく面白かった。
李 ありがとうございます。「カオスの縁」と少し関連する話でいうと、田中先生は松岡正剛さんとの対談で、「高度経済成長が進むに従って、近所というものが変わった」という趣旨の話をされています。高度成長以前の日本には「つかず離れず」の近所関係があったと。それは江戸時代の連にも通じるもので、人々は助け合うけれど、組織的、全体主義的にはならない。個人と個人の間の隙間が維持されつつ、でも協同もしあう。そういった関係がなぜ成立したのか、すごく興味のあるところです。
田中 そうね、理由は私もよくわからないのだけど。でも、連的な関係ってやっぱりそういうふうになっていて。連句で説明することが私は多いのですが、俳句じゃないんです。俳句というのは近代の言葉なので、江戸時代はまだ連句といっている。連句の場合には、複数の人間がいないと句が作れない。結局、場がないと句は作れない、場がないと文学は生まれないって考えているんです。まず「場」があって、何人かの人がそれを共有している。そうすると、五七五七七、五七五七七と複数で詠んでいく時に、前の人とつきすぎると同じになってしまう。同じになった途端に動きが止まる。前の人を無視して、全く違う自分だけの境地で詠んでも離れてしまう。離れすぎても動きが止まる。だから、つきすぎないで離れすぎない、そういうまさに「あいだ」の関係をつくっていくことこそ人がやるべきことで、それは今、連句を例にしたけれども、人間関係についてもそう思っているわけですね。
だから人間関係というのは、距離を測るものだと。たとえば敬語の使い方にしても、彼らは私たちほど厳密にはやっていないですよ。適当にやっているんだけど、でも敬語を使う工夫をしながら、人との距離を測っているんです。その距離の中の「あいだ」をつくっていくことで社会が成り立っているので、江戸には「集団」という考え方がない。
李 僕も田中先生の書かれたものを読んで、ひとつ諳(そら)んじることができまして。「市中は物のにほひや夏の月」。これが野沢凡兆で、それを受けて松尾芭蕉が「あつしあつしと門々の声」。
田中 そのとおり!
李 先ほどおっしゃったように、近代的な「俳句」という考え方だったら、凡兆が完成品を作って、もうそれでおしまいですけど、でもそこに芭蕉という、原作者でない人が句をつける。しかもそれが絶妙に、全く一緒でもなく、全く違う句をつけるのでもないというような、その「あいだ」のさじ加減で創造的な句が生まれる。
田中 次の人が前の人を相対化してしまうんですね。だから、絶対存在にしないということかな。
李 そうですね。その本で先生は「俳諧というのは相対化していくことだ。句と句、人と人がどんどんつながる形で」という話をされていました。
田中 そういうふうに私は、自分がやってきたことと李先生の御著書とを結びつけて考えることはなかったけど、そう言われればそうか。新たな発見だな。
もうひとつ、御著書の言葉で、「私たちが何者であるかということの大部分は、他者と共有するさまざまな経験によって決まる」ということを書いていらっしゃるじゃない? まさにそれなんですよね。江戸時代の人はその感覚を持っていた。要するに、他者がいなければ自分はいない。
「西洋近代」の終焉を迎えて
李 他者がいなければ自分はいない。それは現在、小説家の平野啓一郎さんが「分人」という概念で提唱していますし、田中先生と松岡正剛さんの対談でも、「個人」とか「集団」という概念は西洋から来て、それによって「連」という考え方が消えてしまったという話があった。たしかに連というのは集団でもないんだけど、個人でもない。そういう考え方がかつての日本にあったことは、いま想起されるべきことだと思います。
田中 今まさに「集団でもない、個人でもない関係」が、「第三の道」として大事だというふうになってきたのはなぜなんだろう?
李 最近、文化人類学者のジョセフ・ヘンリックという人が『WEIRD 「現代人」の奇妙な心理』(邦訳、上下巻、白揚社)という本を出して、WEIRDはアルファベットの頭文字で、Western, Educated, Industrialized, Rich and Democratic。要するに「西洋近代」的な、民主主義国家で産業化されていて、いわゆる近代教育も受けている階層のことです。でもこれは歴史的に見ると、ある特殊な時期に現れただけで、実は普遍的ではないという話をしています。WEIRDの人たちの特徴って、物事を切り分けて見てしまうんです。だから個人というのは、本当に個人として完結しているというふうに見て、他者との関係性を捨象してしまう。
現在、いわゆる資本主義とか民主主義が行き詰まっているのは、もう対症療法ではどうにもならず、むしろ「西洋近代そのものに問題があるのではないか」という危機意識があります。そこでWEIRD的なものとは違う人間観とか宇宙観が必要で、「個人でも集団でもない」とか、「デジタルを活用した新たなネットワーク」とかが注目されているのかなと思いました。
田中 なるほど。WEIRDというのは、アメリカの民主党の中心部にいるような、白人エリート層が持っている近代的感覚ですね。一見新しいように見えるけれど、実は古い。「現代」ではなく「近代的」な価値観を以て「民主主義」ということを言っているわけだから。それに違和を感じる人たちが出てきているんでしょうね。
李 そうなんです。ただ、そのエリート的な近代の考え方に対するカウンターが、全体主義だったり、究極自由主義だったりというのは、さすがに問題があります。だからそうでない形で改めて、人間や世界のあり方を考え直すための概念的道具として「WEIRDではない、ものの考え方」というのが世界的には注目されている。そして僕は、それは江戸にもあるのではないかと思っています。日本は明治になる時、近代化することで、江戸にあった豊かな文化を切り捨ててしまったのではないかと。
プロフィール

(たなか・ゆうこ)
1952年、神奈川県横浜市生まれ。法政大学社会学部教授、同大学総長などを経て、同大学名誉教授、同大学江戸東京研究センター特任教授。専門は日本近世文学、江戸文化、アジア比較文化。『蔦屋重三郎 江戸を編集した男』(文春新書)、『遊廓と日本人』(講談社現代新書)、『苦海・浄土・日本 石牟礼道子 もだえ神の精神 』(集英社新書)、『江戸の想像力』 (ちくま学芸文庫)ほか著作多数。

(リ・スンジ)
1990年、神戸市生まれ。法政大学社会学部准教授。東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。学術振興会特別研究員、コロンビア大学客員研究員などを経て現職。著作に『ベルナール・スティグレールの哲学 人新世の技術論』(法政大学出版局)。