金時鐘の大きな文学的業績を垣間見るとき、本書は優れたチチェローネ(水先案内人)の役目を果たすことだろう 四方田犬彦
金時鐘は世界的な詩人である。といっても世界的に有名であるとか、ノーベル賞の候補になったということではない。詩人として言葉にむかいあってゆく姿勢が、世界の周縁へと流浪と逃亡を重ね、思いもよらぬ場所で生き延びている詩人たちと、実に多くのものを共有しているという点において、まさしく世界的なのである。
わたしは夢まで日本語で見ると、金時鐘はいう。これは無意識の底の底にまで、日本語が浸透しているということだ。だが日本語は彼の言葉ではない。皇民化政策のもとに日本語で教育を受け、日本の軍国主義を真摯に信じた金少年にとって、日本語とは何だったか。それは強引に奪われた母国語である朝鮮語の代替物として、戦後の彼の思考を一貫して統御した認識の権力であった。だから、と金時鐘は繰り返す。わたしの日本語はわたしの言葉ではない。だが困ったことに、わたしはその、自分のものでない言葉の内側でこそ詩を書いていることだ。
今日の日本の詩人のなかで、こうした逆理をわがこととして受け止め、それを詩人としての自己の存在根拠と考えている人がいるだろうか。おそらくほとんど誰もいないはずだ。多くの詩人は、自分が世界を前に感じたままの感想やメッセージをそのまま日本語で「表現」することに、何の疑問も抱いていない。日本語はすぐ目の前にある。自明のものだ。それを自在に用いて自己を表現して何がいけないのと、彼らはいうだろう。
だが金時鐘は声低く、違うという。彼は生涯に多くの、日本人が想像もできない代価を払いながら、それでも日本語に拘泥してきた。日本語に懐疑心を抱きつつも、そこに自分の詩心を預けてきた。「わしの日本語は元手がかかっとるんだ。」ふと思い出したかのように彼がそう述懐するとき、その背後で語られているのは、母国語でない言語をどこまで信頼できるかという懐疑を、彼が克服するまでの長い物語である。
よもた いぬひこ●映画史・比較文化研究家。詩人。エッセイスト