本書はアニメーション監督・新海誠の作品を、世界のアニメーションの現状と照らし合わせることで読解する。副題に「国民的アニメ作家の誕生」とあるが、本書の読みどころは「作家の誕生」の謎を解く以上に、その謎を解くための補助線を、世界のアニメーションの現状に求める著者の手付きにこそある。
著者の土居伸彰はアニメーションの研究・評論を手掛けつつ、同時に会社を経営し、世界の「『知られざる』アニメーション」(本書)を紹介する仕事をしている。「研究」と「現場」がシームレスなフィールドを立脚点としているところが、この著者の最大の特徴である。だからこそ「世界のアニメーション」を背景にした極めて大きな視野から対象に迫る手付きは大胆で刺激的。時には大づかみでハラハラするような踏み込み方をしつつ、新海誠というアニメーション監督の立ち位置を定位していく。
本書で特に刺激的なのは、著者がその思考の枠組みを示していく前半、第1章「巨大な個人制作の時代」と第2章「モーションからエモーションへ」だ。
第1章が扱うのは、制作環境のデジタル化によるアニメーションの変化である。本書はこれを単なるツールの変化とは考えず、大きな潮目の変化として読む。もともとアニメーションは個人制作から始まり、長編制作のための産業化の過程で集団制作へと移行した。デジタル化はその歴史の原点に遡るように、個人制作の延長線上で巨大化=長編制作を可能にする追い風となった。そしてその個人制作の遡行の過程で、「動きの創出」こそがアニメーションの本質という考えに対して、「言葉」や「背景」が前面に立つアニメーションがフィーチャーされる。著者はこの大きな変化を世界の様々なアニメーションを引きつつ解説し、新海のプロデビュー作『ほしのこえ』をその変化の象徴のひとつとして取り上げる。
続く第2章は、新海作品の特徴である背景の美しさと“泣ける作品”であることが、どこから生まれているのか、ということをやはりアニメーションの歴史をたどりながら考えていく。章タイトルの通り、ここでは前章で触れられた「『動きの創出』こそがアニメーションの本質である」という思想とは異なる、感情を掻き立てる「背景の見せ方」と「音のシンクロ」について考察していく。こちらでは主に『秒速5センチメートル』に触れている。
そして本書後半では、第1章・第2章の議論を踏まえつつ『言の葉の庭』『君の名は。』『天気の子』などを取り上げた“各論”に入っていく。こちらも作品のどこに注目し、なにと関連付けるのか、著者の視点や議論の枠組みが刺激的だ。
スケールの大きな視野から書かれた本書だけに、興味深いトピックが――新海論と離れすぎるという理由であろう――駆け足で通り過ぎてしまいもったいない気持ちになるところもある。例えば第3章での「新海作品におけるキャラクターの不在」という指摘、あるいは第4章の「(『天気の子』は)『一般的ドラマ』として面白かった」という評言の背景など、どちらも過去の新海作品との細かな照らし合わせ、そのほかのアニメーション作品との比較などがあれば、もっと本書の深度が増したのにと思わずにはいられない。もちろんそれは取り上げるとなると、それぞれ1冊の書籍になるほどのテーマであるからこそ、そんな思いも感じてしまう。
本書に含まれたこうした議論の“原石”は今後、どのように磨かれていくのか。それは著者に手によるものなのか、それとも著者以外の手によるものなのか。そこも含めて大変刺激的な1冊だった。
プロフィール
1968年生まれ。アニメ評論家。新聞記者、週刊誌編集を経て、2000年よりアニメ関連の原稿を本格的に書き始める。現在は雑誌、パンフレット、WEBなどで執筆を手掛ける。主な著書に『チャンネルはいつもアニメ』(NTT出版)、『ぼくらがアニメを見る理由』(フィルムアート社)、『アニメと戦争』(日本評論社)、『アニメの輪郭』(青土社)、『増補改訂版 「アニメ評論家」宣言』(ちくま文庫)などがある。