「役に立つ」知識を手っ取り早く身につけ、他者を出し抜き、ビジネスパーソンとしての市場価値を上げたい。そんな欲求を抱えた人たちによって、ビジネス系インフルエンサーによるYouTubeやビジネス書は近年、熱狂的な支持を集めている。
一般企業に勤めながらライターとして活動するレジー氏は、その現象を「ファスト教養」と名づけ、その動向を注視してきた。「ファスト教養」が生まれた背景と日本社会の現状を分析し、それらに代表される新自由主義的な言説にどのように向き合うべきかを論じたのが、『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』(集英社新書)だ。
本記事では『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』(光文社新書)で、「倍速視聴」をはじめとしたファストな文化受容の実体を明らかにした稲田豊史さんを迎えて対談。なぜ「ファスト教養」や「倍速視聴」が生まれてしまったのか。
※ この記事は10/11(火)に開催された阿佐ヶ谷ロフトAのイベント「ファストは本当にダメなのか? レジー×稲田豊史トークセッション」を記事化したものです。
「自分自身がどう体験してきたか」を語る
レジー はじめまして、レジーと申します。よろしくお願いします。実は、「ファスト教養」という概念は、稲田さんが講談社の「現代ビジネス」で書かれていた「ファスト映画」の記事にインスパイアされたものでした。その意味で稲田さんは本書の生みの親の一人かなと思っていたりもするんです。
稲田 いや、光栄です。まず『ファスト教養』というネーミングが最高ですよね。ファスト教養的なものに対する疑念や、そこに感じる欺瞞がこの言葉にすべて詰まっている。また、僕の『映画を早送りで観る人たち』もそうですが、事態を問題視してただ「けしからん」と言うのではなく、「なぜそうせざるを得ない人たちが増えたのか」を考えようとしているのもいいなと。
レジー ありがとうございます。「けしからん」だけだと読み捨てるためのウェブ記事みたいになってしまうと思ったので、ちゃんと分析したうえで話を進めたいというのは執筆スタート時から考えていたことです。
稲田 読んでいて腑に落ちたところはたくさんあったんですが、やはり一番は「ファスト教養は昨日今日始まった現象じゃない」というくだりです。2000年代からじっくり準備されていたという事実が丁寧に記述されていて。現在ファスト教養のトップランナーと目される人たちも、世に出た当時は決してそうではなかったということも重要なご指摘だと思いました。歴史を辿るというのはとても大事なことで、「最近はこうなってるよね」という指摘だけなら実は誰でも言えますから。
レジー ある現象が「いかに準備されてきたか」を語りたい、というのはたしかにあるかもしれません。自分がこれまでに出した『夏フェス革命』(blueprint、2017年、改定版2022年)や『日本代表とMr.Children』(ソルメディア、宇野維正との共著、2018年)もそうですが、現象を論じるときに「誰がいつ何を言っていたか」、「その時期どんなメディアが出てきたか」などを並べながら検証するというアプローチは一貫している気がします。
ただ、どうしてもそこで自分の話を入れたくなっちゃうところがあるんですよね。僕自身が音楽雑誌の『ロッキング・オン』で育ってきたからかもしれないんですが(笑)、「自分自身がその現象をどう体験してきたか」という視点を混ぜて語りたいというか。
稲田 いや、でもそれは一番誠実な姿勢だと思いますよ。僕の『ドラがたり のび太系男子と藤子・F・不二雄の時代』(PLANETS、2017年)というドラえもん評論本も、団塊ジュニアである自分が『ドラえもん』の話にかこつけて語る世代論でした。結局「わがごと」がいちばん嘘がない。
「集英社がこんな本を出すとは世も末だ」
稲田 他に印象に残っているのは、『花束みたいな恋をした』(以下『はな恋』)やAKB48を扱った箇所です。
レジー 第5章ですね。あの章はもともと事例をいくつか紹介するあっさりした構成の予定だったんです。ただ自分が普段文章を書いている領域がもともとカルチャー寄りなこともあって、書き始めると結構こってりした章になってしまって。
稲田 『はな恋』の麦くんの前時代的な価値観がファスト教養とぴったり重なるという指摘はなるほどなと思いましたし、実に皮肉だなと。一見して最先端の価値観、きわめて現代的なしぐさのイメージがあるファスト教養の、ある種の古さを浮かび上がらせてもいるわけですから。会社員になった麦くんの本棚に並んでる本を画面から特定して全部書きだしているのもすごいなと。あれ、相当面倒くさい作業ですよね(笑)。
レジー わざわざ一時停止して書き出してました(笑)。
稲田 『はな恋』は作品名や固有名詞の使い方の細かいところで本当に皮肉が効いているなというのが僕の感想なんですが、一方で、ある種の観客が「ベタな恋愛もの」として受け取ってたりもするのも興味深いです。
レジー 皮肉を受け取れていない人も観ていなければ、あの興行成績にはならないですからね。
稲田 皮肉を皮肉として受け取れない人が増えている件については、今年刊行された『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(石井光太、文藝春秋、2022年)でも近いことが問題視されているんですよね。なぜ行間を読めない子どもたちが増えたのか、といった。ただ、行間を読めない人が増えたのは全世代的な話だと思います。
レジー それで言うと、『ファスト教養』の帯には「教養=ビジネスの役に立つ!?」という文言を入れてるんですよ。クエスチョンマークもつけてるからさすがに皮肉は伝わるかなと思ってたら、結構ベタに「けしからん、教養はそんなものじゃない」って怒られたりして。
稲田 真逆の主張だと思われちゃってる。
レジー あとはTwitterでよく見る「ビジネス書を画像4枚でわかりやすく解説しました」的なやつのパロディで、『ファスト教養』自体の解説画像を作ったんです。「10分で答えが欲しい人たちの本を、1分で理解できます」みたいな皮肉のつもりで、わざわざ集英社のデザイナーさんにも動いていただいたんですけど。
稲田 あれは笑いました。最高の皮肉をかましてるなあと。
レジー そしたら、それに対して「集英社がこんな本を出すとは世も末だ」みたいなことを言われたり(笑)
稲田 『映画を早送りで観る人たち』に対するレビューの中にも「最後まで読んだけど、著者が倍速視聴を推奨しているのか反対なのかわからなかった」という主旨のものがありました(笑)。買って読んでいただけたことは、本当にありがたいことですが……。
『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』(光文社新書)
「わからない」に開き直る人たち
レジー 「お客様は神様です」根性がさらに強まった結果、稲田さんの本にもあるような「倍速再生されるようなコンテンツを作るほうが悪い」みたいな意見が出てきてしまう。
稲田 そういえば先日、公開している僕のメールアドレス宛てに、「早送りされて当然の作品を作ってる監督をなぜかばうのか」といった内容のお怒りメールが届きまして。1行目が「おい、稲田」だったんですけど。
レジー 『おい、小池!』みたいな(笑)。
稲田 指名手配犯扱いです(笑)。要は、その方にとって「無駄なシーン」なんて飛ばされて当然だという主張なんですが、そのシーンに込められた意味をその方が汲めなかっただけ、という可能性は考えもしない。ただただ「わからないものを作った奴が悪い」と苛立つ。もちろん、昔から「わからなかった、なんだこれ」という感想を持つ人はたくさんいましたが、それを世間に対して発信する方法は非常に少なかった。今はインターネット、SNSがあるので「わからなかった=つまらない」という声を広い範囲に向けて誰でも可視化することができる。その声が相応数集まれば“民意”となり、作り手側もわかりやすく作らなきゃという気分になっていく。
レジー たぶん「わからなかったと言うのが恥ずかしい時代」から、「自分がわからないものを発信するなんておかしいと感じる時代」になっちゃったんでしょうね。
稲田 社会に出る前の若者がそういうことを言うのはいいと思うんです。僕もそうでしたが(笑)、若い時分は全能感の塊だから、自分が興味のないこと、自分にとって価値を認められないものを「無価値だ」と断定しがち。広い世界や多様な価値観に触れていないので致し方ありません。でも今って、いい大人もそんな態度を取るじゃないですか。30歳、40歳を過ぎても自分が理解できないことがあるのを恥ずかしいとも思わず、むしろ「わかるように表現しないお前らが悪い」と食ってかかる。
そういう人たちが好むしぐさのひとつに、『ファスト教養』でも言及されていた「ハック」があると思うんですよ。正当な手続きを踏み、相応の時間をかけて学び理解するというプロセスを億劫がる。だから既存のシステムには乗らずハッキングする、つまり他人を出し抜くという考え方に至る。にしても「出し抜く」って相当なパワーワードですよね。昔ならアニメの悪役がやってたことですよ。
レジー たしかに(笑)。
「出し抜く」ブームは社会全体の貧しさから?
稲田 そもそもなぜ「出し抜く」必要があるかといえば、国が貧しいからですよね。今って普通の人が普通に働いても、4人家族を養うのって大変じゃないですか。
レジー 僕、5人家族なんでよくわかります。
稲田 僕は世代で言うと団塊ジュニアなんですけど、自分が子どもだった80年代は、普通のお父さんが普通に働いていれば、シングルインカムでも4人家族を養って、マイカーと一軒家が手に入りました。でも、それって今はとてもじゃないけど「普通」じゃない。
「普通」の働き方ってつまり「現状維持」のことだと思うんですけど、今は「現状維持」を念頭に置いて働いていたら、どんどん貧しくなるばかり。昨日より今日のほうが「成長」していて初めて、生活水準を「現状維持」できる。だからこそ他人を出し抜かなければ、という発想になる。
レジー 『ファスト教養』でも、「不安」とか「脅し」をキーワードとして取り上げてるんですけど、その背景にあるのは今が変化の時代だという認識なんですよね。変化についていけないと時代に取り残されちゃいますよ、と不安を煽ってくる。その認識自体は正しいのかもしれないけど、そういうネガティブな感情を刺激するために文化や教養といった高尚に聞こえる概念を結びつけるのはどうにも下品に感じてしまいます。
稲田 現実問題として「ハック」しないとシンプルに損をするということは、仕事や生活で往々にしてあります。僕は個人事業主ですが、税金って本当に「知らない」と損をする。ただ言われたとおりに申告すると莫大な税金を払うことになるけど、ちょっと工夫するだけで節税できたりする。そういうことを公的機関は教えてくれない。
同じように、ビジネスの領域で効率や費用対効果や最短距離を求めるのはまったくもって正しいと思うんですよ。最小のアクションで最大の利益を生み出すのがビジネスですから。それは否定されるべきことじゃない。ただ、それがビジネスの領域を超えて文化にまで侵食してきていることに違和感があるんですよね。そのはしりが、2010年代からよく言われるようになった「ライフハック」礼賛の風潮だったような気がします。
レジー 本来「鑑賞」するものであるはずの文化やカルチャーについても、ビジネス的に向き合うみたいな態度が広がってきてる感じはありますよね。それこそコスパやタイパを意識するというか。
稲田 ある種の人にとって「倍速でも物語が理解できるのにわざわざ等倍速で観る」のは、「エクセルが計算した結果をわざわざ電卓で検算する」みたいな、意味のない前時代的な振る舞いと同じように見えてるんじゃないでしょうか。「時短できるのに、なんでわざわざ?」って。
「大学生サンプルの偏り」問題
レジー そう考えると、自分の若い読者の人たちって、わざわざ僕の5000字ぐらいの文章をネットで読んでくれているんだなあって。
稲田 5000字も読んでくれるなんて、それだけでもう神様みたいなお客様ですよ。
レジー その人たちは逆に大学や会社とかでちゃんと話とか合わせられてるんだろうかと心配になります。
稲田 まあでも、それくらい真摯に長文を読んでくれる、言い換えるなら「ファストではない教養」を求める人って、本当に稀有な存在だと思います。僕、本を出したあと大学の先生から「うちのゼミの子たちに聞いてみたけど、倍速で観てる人は本に書かれてる比率よりずっと少なかったでよ」と言われたんです。それはあなたの学校の偏差値が65以上で、真面目にゼミに参加するような学生さんに聞いてるからですよって(笑)。
レジー サンプルの偏りが。
稲田 上澄み5%というか、富士山で言うと9合目より上のすごく優秀な人たちですよ。『映画を早送りで観る人たち』で問題にしてるのはその人たちではなく、台形の裾野側の人たちなんですよ。良い悪いじゃなく、現実問題として皆が皆5000字の文章を最後まで読めるわけじゃない。だからこそニュース記事の見出しや3行の箇条書き要約だけ読んでレスしてくるわけでしょう。無論、学生に限ったことではなく大人も同じですが。
レジー 『ファスト教養』の4章でインタビューした方々は、有名な企業に勤めていたりする人もいて、むしろその5%の側なんじゃないかと思います。そういう意味では、残りの95%の方々がどれだけファスト教養的なコンテンツを切実に求めているのかとかは、今回ちょっと拾いきれていないところなのかなと。
稲田 どこでサンプルを取るかというのは非常に難しいですよね。どうリサーチしてもバイアスはかかるし。結局いくつもいくつもリサーチを重ね合わせて推測するしかない。
ファスト教養は果たして「入り口」になるか?
稲田 あと話しておきたいのは、よく言われる「ファストなものも“入り口”としてはいいんじゃないか」論ですね。たとえば歴史学習の入り口としてなら、中田敦彦さんのわかりやすい動画は悪くないんじゃないか、とか。
レジー 僕の本をちゃんと読んでくださった方からもそういう意見をいただくことはありますね。ただ僕の印象だと、入り口にはならないことの方が多いんじゃないかと思います。ファスト的なコンテンツって、「これを押さえれば、もうあなたはこのジャンルについていっぱしの語りができます」みたいな感じで、入り口のすぐ先に免許皆伝があるんですよね。
稲田 この10冊さえ読めばOK、的な。
レジー 本当に入り口になるならもちろんいいんですけど、どうも僕はその意見には同意しきれない。
稲田 良い入門コンテンツって、触れるとすぐ「次」にいきたくなるんですよね。本なら、「次に読むべき本はこれだ」というのが、読んでいるうちから自然とリストアップされる。映画も、すごい映画を観てしまうと必ずと言っていいほど同じ監督の別の作品も観たくなる。あるいは俳優の別の出演作を観たくなる。でもファストコンテンツは逆で、「そこから先はもう観なくていいよ」という語り口になってるように思います。「この10冊、この10本でOK。それ以上必要ない」というような。
レジー 似たような話で『ビジネスエリートがなぜか身につけている 教養としての落語』という本があるんですけど、帯に「2時間でざっと学べてすぐに語れる!」って書いてあるんですよね。2時間ってその本読んだだけで終わっちゃうじゃん、落語自体は絶対聞いてないじゃん、っていう。そういうのは色々ありますよね。
稲田 今流行ってるビジネス書の要約サービスなんかも同じですよね。実は『映画を早送りで観る人たち』にも某2社からオファーがあったんです。本の中で要約サービスを懐疑的に扱ってるのに。
レジー (笑)。
稲田 で、そのうちの1社から実際に送られてきた要約を見たら、ひどい代物だったんですよ。要約って、やったことのある方ならわかると思うんですけど相当なテクニックが必要です。10数万字ある新書を3000字に圧縮するだなんて、プロのライターでもかなりのスキルがないと難しい。
レジー わかります。特にノンフィクションは難しいですよね。
稲田 あまりにもひどかったので担当編集さんと一緒に驚いちゃって。結局断りました。今は要約で何かを理解しようとする人が多いですが、世に出てる要約は品質が担保されていないものも多いわけです。なんだったら、要約を読むより要約する能力を身につけた方がビジネスには役立つと思います。ファスト教養的な言い方をするなら、「そっちの方が絶対収入につながる」。
レジー 今の話にあえてカウンターをぶつけると、要約ってむしろありがたがられすぎている気もしてて。「結論から話せ」ってやたらと言われるようになりましたけど、あれはオフィス的なコミュニケーションを一般の場にも普及させた言葉だなと僕は思ってるんですよね。「わかりづらいことをわかりやすく説明できる人こそ本当に頭がいい」とかもそうですけど。そういうビジネスの場では良いとされているコミュニケーションが行きすぎた結果として、過程を楽しむはずのものにも「結論」や「結末」の先出しが求められるようになったんじゃないかなと。
稲田 まあだから、ビジネスの範囲で収まっててくれるならまだいい。なぜそれを「作品鑑賞」にまで適用するのかが問題で。
新書での「提言」は不要?
稲田 それで言うと、本ってなんで最終章で「提言」しなきゃいけないんだっていつも思うんです。特に新書なんかは、わかりやすい結論や解決策みたいなものが求められる。というか編集者さんが「書け書け」って言う。
レジー そうですね(笑)。
稲田 それが読者に対する親切だというのはわかりますが、その体裁に囚われすぎている気がしないでもない。「まとめ症候群」というかね。実は僕も、『映画を早送りで観る人たち』の終わり方は結構悩んだんです。何か提言したほうがいいのかなとも思いつつ、とはいえ現状をつぶさに観察・分析するのが目的の本ですから。一介のライターであって何かの専門家ではない僕の立場からは、あまり偉そうに提言めいたことは言えないなと。編集者さんがそれでも許してくれたので、結局ほとんど提言はしませんでした。
だから逆に、レジーさんが第6章を書いているのがすごいなと思ったんですよね。第5章まででも十分成立しているところにあの第6章が来て、ファスト教養に陥らないためにどうしたらいいかということを、めちゃくちゃ丁寧に指南してるじゃないですか。レジーさん優しいなあって(笑)。
レジー 第6章は書くのが一番大変だったんです(笑)。
稲田 僕だったら書けないです。
レジー 編集者さんとのやり取りが一番多かった章なんですよね。やっぱり一人で扱うには難しくて、キャッチボールしながら書いていきました。結果的には書いてよかったなと思っているんですが、ただやっぱり読み手視点だと本の構造を複雑にしている側面もおそらくあるんですよね。稲田さんみたいに優しさを感じたと言ってくださる方もいれば、第6章で急にテンションが変わっちゃったという評価もあったり。
稲田 あえていじわるに突っ込むと、第6章は教養がすでにちゃんとある人に向けた内容だと感じました。第6章をまともに受け止められるんだったら、最初からファスト教養にはまってない(笑)。それは読者を馬鹿にしてないという意味ではすばらしいことだと思うんですけど、そもそも人を出し抜きたいと思っている人たちにとって、「清く正しいビジネスパーソンになるべし」的なまとめがどれほど届くか。
もうひとつは、ポストファスト教養的なものについての提言として、「好きなものを見つけて没頭するべし」と書かれてたじゃないですか。ただ、今って「好きなことが見つからない」という人がすごく多い。その好きなことがわかんないから苦労してるんですよ、って反論がたくさん来そうだなと。
レジー いやもう、それは本当そうだなと思います(笑)。そこについては、僕の書き方の限界なんだろうなと。実は書いている最中にはそういう視点の存在に気が付かなかったんです。「文化資本の問題に触れていないのはあえてなのか?」と聞かれたりしたこともあったんですけど、単に思いが至っていなかった。それは冒頭で話したように、自分の視点からの話を書きたいというのが根底にあったからかもしれません。
稲田 微妙な問題ですよね。いわゆる「親ガチャ」など、なかなか分け入りづらいところではあります。どう書くにしても。
レジー いろいろ感想をいただく中で、結局自分もある種恵まれた側の人間として書いていたんだなと改めて気付いたのはありますね。そのうえで自分なりの答えとしては、ノブレス・オブリージュを大事にしたいということでしょうか。もし仮に自分が恵まれているのなら、そこから見える「正しいこと」をちゃんと言って、それが伝わる素地を持っている人たちから順番に説得していくことをやっていかないといけないんじゃないかとはやっぱり思います。
「無駄」のメリットを子どもに伝えるには
稲田 ちょっと観点を変えて、ファスト教養を求める人に向けて「教養って何だろう」というのを説明する方法がないかを考えてみたいんです。「何の役に立つかわからない学問なんて、やってもしょうがないじゃないか」という強い敵対勢力に対して、どう説明するか。
レジー あると思います。
稲田 僕の子どもはもうすぐ1歳なんですけど、この子が大きくなって「お父さん、会計と英語とIT以外は学んでも収入アップにつながらないでしょ」って言ってきたらどう答えるか。考えてみたんですが、僕は「星座力(せいざりょく)」的なことなのかなと。「Connecting the dots」って言葉があるじゃないですか。一つひとつの星はただの点だけど、それらを繋げたら星座として新たな形が浮かび上がる。個別の星をいくら見つめても何の役に立っているのか、何の構成要素になっているのかわからないように、学問や知識はそれ単体では何の役に立つのか、すぐにはわかりません。だけど時間をかけてひとつずつ習得していけば、いずれその星々が一斉に繋がるすごい瞬間が人生に訪れる。他人には決して見い出せない、自分だけの星座を見い出せるという点では、ある意味で「出し抜く」ことではあるけど。
レジー 新たなものを見つけられるなら、「出し抜く」はちゃんとイノベーションになるんですよね。
稲田 そうそう。よく大人が若者に「無駄なことも大事。回り道も大事」って説教するじゃないですか。でもそれじゃダメで、「なぜ無駄や回り道も大事なのか」に正面から答える必要がある。
レジー じゃないとファスト教養に負けちゃうんですよね。
稲田 なぜ大事かを理解させられないから、じゃあ最短距離で行けばいいんでしょってことになる。「一見して無駄なことでもコツコツやっていれば、いずれ他の人には見つけられない新たな星座を最初に見つけられる」という「具体的な利益」をちゃんと提示してあげないと。
レジー でもそうすると、やっぱりメリット主義的になる感じもありますよね。
稲田 メリットを提示することからは逃げられないんだと思います。ただそのメリットは、単に短期スパンの金銭的収入のことではなく、もっとロングスパンで複雑な意味の広い「利益」のことですよね。なぜそれを大人が説明できないかといえば、その大人自身が短期的な収入以外のメリットを学問に感じていないからですよ。すぐに仕事の役に立つわけではない勉強が、いかに豊かな生活に結びつくかということを、大人自身が実感を伴って語れてない。当然、子どもたちもその価値を信じない。
「ファスト教養」を生み出した出版界の責任
レジー 結局、いろいろなことを考えていくと「誰のせいでファスト教養が蔓延したのか」ということにぶち当たります。そこについては、稲田さんが本当に言いたいのは……。
稲田 出版社が悪いんじゃないかって。
レジー (笑)。
稲田 ここ十数年で、ファスト教養的な著者たちに出版社がこぞって頭を下げて、ビジネス・啓発系の本を量産してもらってたわけですよね。実際、そういう何十万部も売れる本の売り上げで出版不況をなんとか乗り切っていた側面もあるでしょう。
僕も出版社で編集者をしていたので、サラリーマンとして売れる本を企画しなきゃいけないというのは本当によくわかります。ただ、さっきの家計の話と同じで、そもそも出版業界がもっと潤っていたらこうはなっていない。出版不況の中、文化的な意義がいくらあっても、「売れるかどうかわからない本」を刊行する余裕がなくなっていきました。結果出版社は、確実に数字を持っている、後にファスト教養の牽引者になっていく著者を後押しして、たくさんの本を出した。そうして彼らの地位が上がっていきました。
レジー そうですよ。今タイムリーなところで言うと、ひろゆきをここまで祭り上げたのは誰なんだみたいな話で。
稲田 正直言えば、僕自身もそのビジネスに加担していたとも言えます。僕はフリーランスになってから、ビジネス系出版社のブックライティング、要は著者に取材して著者の代わりに原稿を書く仕事もわりとやっていたので。だから自責の念も込めてという話ではありますけど。
レジー もう本当に構造的なものがいっぱい折り重なって今の状況があるから、難しいですよね。根本的な解決というと、最終的には政治家になるしかないとかそういう話になってしまう(笑)。
「自分がいなくなった後の世代」のことを考えて生きる
レジー それ以外だと、結局自分のできる範囲で世のため人のためになることを考えていくしかない。さっきのノブレス・オブリージュの話ともつながりますけど、この本を書くときに『君たちはどう生きるか』を再読して感動したんですよね。やっぱり一歩一歩やっていくしかないんだなと。
稲田 たぶんそういう世のため人のためとか、これからの社会のためにって発想は、個人主義の対極にあるものだと思うんですよね。
レジー あるいは刹那主義とか。
稲田 そうですね。「今がよければ」あるいは「自分がよければ」というマインドから「出し抜く」発想が生まれて、それがファスト教養に繋がっていく。ちょっとデリケートな話になるんですけど、ここには少子化や生涯未婚率の上昇が絡んでいると思ってます。良い悪いの話ではないと固く断っておきますが、家族を持たず一人で暮らす場合、基本的には自分の死ぬまでの人生をどう良くするかというところに力点を置きますよね。当たり前ですけど。
でも子どもがいると、「自分が死んだ後も、この子はこの社会で生きていく」と日々強く実感するようになります。決して個人主義が利己的でよくないということではなくて、もう少し別種の考え方を併せもつということです。「自分さえこの社会システムをハックして一抜けすれば、あとはどうでもいい」という考え方は自然と薄れる、薄れざるをえない。自分の人生はもちろん良くしたいけど、「この子が暮らす未来の社会のために」という発想が入り込んでくる。それは当然、ファスト教養の話に限ったことではなく、どの政治家に投票するかとか、どういう社会設計がいいかという話にも関わってきますが。
何が言いたいかというと、少子化・生涯未婚率の増加もまた、「自分の人生は自分でなんとかすべし」といった自己責任論が唱えられる風潮と無関係ではなく、ひいてはファスト教養的な「出し抜き」行動を誘発したのではないかと。
レジー 自分に引きつけて話すと、僕は子どもが3人いて、下の2人が双子なんです。机上のライフプランでは想定していなかったことが起こったので、いずれ経済的な地獄が来るのが見えている(笑)。そういうことも含めて、子どもって本当にコントロールできないものですよね。
本でも「自分はもともとファスト的なものに親和性の高い人間だったんじゃないか」って書いてますけど、計画どおりに物事が進むと考えること自体がいかに思い上がりであるかということも、子どもができてから結構思うようになって。自分にとっては子どもの存在って、ファスト的な思考が変わっていくひとつの重要なきっかけだったんですよね。
稲田 決していいことだとは思いませんが、昔は「何歳で必ず結婚するものだ」とか「結婚したら子どもを作るものだ」といったことが外圧によってある種強制されていたので、皆一様にライフステージと価値観が変化していったんですよね。
レジー それが緩まって自由になったのは本当にいいことだと思うんですよ。だから良し悪しではないっていうのは前提で。
稲田 ええ。でも事実、それによって多くの人が「物事は計画通りに進まない」と身をもって思い知った。物事すべてファスト教養的には進まない、と。でも今はそういう人がすべてではない。
僕は『映画を早送りで観る人たち』で、「倍速視聴はダメだ」という断定はしていないつもりです。良いとか悪いとかじゃなくて、もう事実としてそういう視聴習慣の人が一定数いるということ。ファスト教養も、それを求める人の存在を受け入れたうえで、求めない人も生きていくしかないし、生きていくべきなんです。
レジー 頭ごなしに否定するものじゃないってことですよね。
稲田 ただ、もちろん抵抗勢力はあって然るべき。「倍速視聴やファスト教養なんか絶対ダメだろ」という人がいてもいい。いろいろな人がいる中で、どう共生できるかみたいなことを考え続けるのが必要なのかなと。
レジー 本当にそう思います。
(構成:松本友也)
プロフィール
レジー
ライター・ブロガー。1981年生まれ。一般企業で事業戦略・マーケティング戦略に関わる仕事に従事する傍ら、日本のポップカルチャーに関する論考を各種媒体で発信。著書に『増補版 夏フェス革命 -音楽が変わる、社会が変わる-』(blueprint)、『日本代表とMr.Children』(ソル・メディア、宇野維正との共著)。twitter : @regista13。
稲田豊史(いなだとよし)
1974年、愛知県生まれ。ライター、コラムニスト、 編集者。横浜国立大学経済学部卒業後、映画配給会社のギャガ・コミュニケーションズ(現ギャガ)に入社。
その後、キネマ旬報社でDVD業界誌の編集長、書籍編集者を経て、2013年に独立。著書に『セーラームーン世代の社会論』(すばる舎リンケージ)、『ドラがたり のび太系男子と藤子・F・不二雄の時代 』(PLANETS)、『ぼくたちの離婚』(角川新書)、『「こち亀」社会論 超一級の文化史料を読み解く』(イースト・プレス)、『オトメゴコロスタディーズ フィクションから学ぶ現代女子事情』(サイゾー)、『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』(光文社新書)がある。