対談

岡本喜八と79年目の夏(後編)

前田啓介×森健

1月17日に刊行された『おかしゅうて、やがてかなしき 映画監督・岡本喜八と戦中派の肖像』は、生誕100年を迎えた岡本喜八の作品と軌跡を通して「戦中派」の心情に迫る人物ノンフィクション。著者・前田啓介氏とジャーナリスト・森健氏の対談後編では、岡本喜八と同時代を生きた戦争体験者や取材対象者の声を聞くことについて、じっくり語り合います。多くの戦争体験者が鬼籍に入る今だからこそ、できることとは?

戦争体験者に話を聞く

 人にもよりますが、80歳ぐらいになってくると曖昧な記憶で語られる方もいます。過去に自分が語ってきたことをコピペ的にしゃべる方もいるし、逆にものすごくリアルに覚えている人もいる。記憶がリアルな方で言えば、例えば2021年、真珠湾攻撃から80年のときに、雷撃機で真珠湾攻撃に参加した方を取材したんです。103歳だったので記憶は大丈夫かなと心配したんですが、聞いてみると、とてもリアルに当時のことを覚えていた。原稿を見せてくださいと言われたので、原稿を見せに行ったら、「ここが違う」と細部の、技術的な部分に細かく指摘をされました。

前田 元気ですね。

 本当に細かく覚えてたんです。何時にどのように出撃したというスケジュールから、機雷を発射する仕組みはこうだとか。やはり強烈な体験だったから、血肉に残っていて消えないのだなと思いました。逆に、お年を召されたせいで、どうしても曖昧になってしまう方もいる。前田さんもそういう経験はたくさんあるんじゃないですか。

前田 確かに、何月何日にこの船でどこどこ行って……とか、ほんとに?っていうぐらいにすごく覚えている人もいれば、「昔こういうふうに書かれてましたけど」と伝えると、「こんなこと書いたっけ」みたいな反応がくることもあります。

 そうですよね。

前田 いろんな人の話を聞くんですけれども、やっぱり人間の記憶には限界があると思うんです。特に僕らメディアで働く者は存命中の戦争体験者に何とか話を聞こうという気がいまだにある。最近はもうさすがに難しくなってきてはいますけど、やっぱりあるときまではそれが盛んに行われていました。でも、例えば100歳近い人がいま語る話よりも、その人が30年前に語っているもののほうが詳しいということは往々にしてあるんですよね。

 うんうん。

前田 新聞よりテレビのほうがその傾向は強いと思うんですけど、30年前の詳細な証言よりも、いま目の前のその人がしゃべっているほうを優先するというところがあって。でも、よくよく考えたら、30年前のほうをちゃんとたどったほうが……。

 正確ですよね。

前田 より正確にわかるんです。でも、その価値があまりないもののように、生きている人の話が優先され過ぎているなというのが実際、自分自身の反省としてあります。もう証言する人が誰もいなくなるので、体験者の方たちが残したものを、もう一度しっかりと見なくちゃいけないと思っています。

苦い経験

前田 10年くらい前に、硫黄島の戦いの生き残りの人に取材に行ったときのことです。自宅に来てくれと言われたので伺ったところ、「ちょっと待ってくれ、喫茶店行こう」って言われて、雨が降っている中、新宿の喫茶店に入ったんです。その人がどういう話をするかというのは、本や記事で何度も繰り返し語っている人で、私も事前に読んでいたので、何を確認しようかとおおよそ考えながら聞いていました。たとえば、亡くなった戦友の臓器を体に塗って、カモフラージュして隠れ、敵を攻撃したという話とかです。「そういうお話はご家族にされたことあるんですか」と聞くと、しばらく黙っている。何と答えるかなと思っていたら、伝票を持ってレジに行っちゃったんです。驚いて呼び戻しに行くと、「いや、もういいです」って。もういいも何も、まだ10分ぐらいしか話を聞いていない。「いやいや」「いや、もういいんで」というやりとりの後、その人はレジで自分でお金を払って帰っちゃったんですよ。

 えーっ……。

前田 あれ、帰っちゃったなと呆気にとられてしまって、後日連絡したら、「いや、もう結構なんで」って全然応じてくれなくなったんです。これまでいろんなところの取材を受けている人だったのに、何がまずかったのかなと思って、間を取り持ってくれた人に聞いたら、「たぶん聞かれたくない話を聞かれる予感がしたんでしょう」って。

 ああ。

前田 この人と話したら、自分がこれまで話してきた話じゃない、話したくない話を話さなきゃいけなくなることに恐怖を感じたから帰ったんじゃないの?って言われて。この見立てが正しいとしたら、やっぱり、生き残った人たちは話すことによって自分の経験というものを、ある種受け入れてきたところがあると思うんですね。自分の話せる話を話すことで、戦後を何とか生き抜いてきたと思うんですけど、90歳ぐらいになって、今さら自分の話したくない話をえぐられるのは、やっぱり恐怖だったと思うんです。人の話を聞くことの難しさを感じると同時に、自分が聞いている話というのは、どこまで行っても相手が話せる範囲の話を聞いている面があるんだろうなとも感じました。

 うん。

前田 その人の深淵に触れる話を聞いているような気がしたり、何かすごい話聞いたなと思うときもあるんですけど、どこかでそれは、もしかして本人がここまでだったら話せると思っている話を聞いているだけかもしれない。毎回そんなことを思っていると、こっちが参ってしまうので思わないですけど、やっぱりどこかでそういうものなんじゃないか、という思いはあります。人が人に話すというのは、簡単に話すときもあれば、何かきっかけがあって話すこともある。他人だから話せることもある。でも、本来的にはそんな簡単に自分の思いを話すものではないと思うし、人のことをあまり甘く見ないほうがいいんじゃないかと僕は思っていますね。

森 いや、本当にそうですね。人は話せる範囲でしか話していないというのは、真実だと思います。だから、逆にある局面では複数の証言が必要にもなってくると思うんです。ある人が言えない場面で、それを知る人が言えることもありますからね。

前田 疑っているわけでもないんですけども、慣れてくると、どうしても何かちょっといい話を聞きたいなとか思っちゃうんですよね。でもそう思い込んでしまうと、自分の中で足元をすくわれる感じがするんです。

 いや、そのとおりですね。よくわかります。よいことでも悪いことでも、大事なことは心にしまってある可能性がある。そこは慎重に聞いていきたいです。

前田 そう、慎重に。もちろんその方が帰ってしまった本当の理由はわからないんですけど、そのときのショックがあるので、慎重に話を聞くようにはしています。

『「つなみ」の子どもたち』から得たもの

前田 森さんの『「つなみ」の子どもたち』(2011年)を久しぶりに、読み直したんですけど。

 そうなんですか。

前田 最初に読んだときに自分が感じたことをあらためて思い出しました。東日本大震災の津波で、お父さんを亡くした男の子がいたじゃないですか。

 はい。

前田 男の子のおじいさんとおばあさんへのインタビューが、途中から孫の話じゃなくて息子の話になっていくというエピソードがありますよね。最初、森さんはふたりが話を取り違えたのかと思って何度か軌道修正しようとした。でも途中から、このおじいさん、おばあさんは自分の子どものことを話したいんだと気づいて、その話を止めずに聞くようになったと。

 あぁ、そうでしたね。

前田 私、ある時期から自分のインタビューを録音した自分の声を聞いて、ものすごく後悔するようになったんです。自分では相手の話を聞いているつもりでも、聞き直すと相手が話したそうにしているのに、自分がそれを制するようにしゃべっていることがあるんですよね。話を止めたとき、あの人は何を本当は言いたかったんだろうって……。それは結局、自分の中で聞きたいことを用意して、組み立てながら「いや、その話よりもこっちじゃない?」「この要素をもうちょっと……」みたいな感じで聞いてしまっているからで。仕事という面ではそうしなきゃいけないところもあっても、やっぱりほんとは相手の……。

 語りに任せるような。

前田 任せる、可能な限り。少なくとも聞くというのはそういうことなんじゃないのかなって思いがずっとあるので、最初に読んだときに感じたことが久しぶりによみがえってきました。明確に自分の中にあった違和感を当時は認められなかったというか、新聞記者の仕事をしていると、そういうことを認める感じがあまりないんですよね。取材時間も限られていますし。

 まあ、そうですよね。

前田 例えば5時間取材してきたけど、ただ一方的に話を聞いてきました、なんて言ったら、呆れられるかもしれない。でも、例えばご家族を亡くしている人の話を聞くのに、自分の聞きたいことだけを聞くって、よく考えたらめちゃくちゃ失礼な話なんですよね。仕事だからっていうのはこっちの都合でしかないので。震災取材などを通してそのことに気づいてから10年近く、なるべく人の話を聞こう、聞こうとしているんですけど、録音した音声を聞くと、やっぱり自分がしゃべって、相手の話を遮っているなと感じるときがあります。

 いや、自分も今でもあります。また何か余計なことしゃべってるな、みたいな。あれ聞くのが苦痛で……。恥ずかしくて聞きたくなくなるんですよね。

「聴す」という言葉

 取材のタイプもあると思うんです。語るにまかせて語ってもらうみたいな取材のときもあるし、当てて語らせなくちゃいけないというのもあるから。

前田 急いで確認だけ取らなければならない状況とか。

 事件とかね。

前田 あくまで裏取りをするとか、ファクトを単にそろえるというときはもう、ひたすら、片っ端から質問して。

 そうですよね。

前田 でも普通の人に話を聞くというときに、同じように功利的に話を聞くというのは、やっぱりちょっと違うんじゃないかなというのはずっと違和感としてあって。

 最近、最首悟(さいしゅ・さとる)さんという全共闘に関わっていた方によく会って話を聞いているんですけど、最首さんが「『聴く』という字には、ゆるすという意味があるんです」って言っていて。たしかに調べると、「聴」に「す」で「ゆるす」と読むんですね。

前田 そうなんですか。

 だから傾聴って、よく言うじゃないですか。

前田 ええ、ええ。

 我々の仕事の中にはそういう、相手の話に耳を傾けることで相手の何かを受け止めるという局面もあるように思います。だからといって人の話を聞くことに正当性を主張したいわけではありませんが、時に、相手が語り、それを聴く、受け止めるという行為によって、相手に心の重荷を下ろしてもらうという作用もあると思うんです。

ノンフィクションの美学

前田 『「つなみ」の子どもたち』を刊行時に読んだときは気づかなかったんですが、子どもたちや遺族に取材を断られたこともあったんじゃないかと思うんです。今のノンフィクションだったらおそらく、断られた僕がどうやってこれを集めたかっていうことをかなり書くと思うんですよね。

 ああ……。

前田 避難所の雰囲気によって受け入れられたり受け入れなかったりというのは書かれていますけど、基本的に「苦労した私」にはフォーカスされてないですよね。

 そうですね。

前田 それがいいなって思いましたけどね。完全に僕の好みの問題なんですけど。

 ありがとうございます。そういうのってあまり読者は求めてないのかなと思うのと、端的に言って、「苦労した私」を書くのは格好悪いと思うんです。ナルシスティックな格好悪さというか……。ただ、そうした姿勢以前に、自分が何を書きたいのかは明確にしておきたいなとは思っていて。

前田 はい。

 やはり被災者であれ、何であれ、対象の人や事を書きたいのであれば、その取材した人や事にフォーカスして書くべきで、それを取材した書き手=自分のことはどっちでもいいかなと思います。「取材したこと」を書きたいのか、「取材した私」を書きたいのかは大きく違います。でも、客観的にいまのノンフィクション作品を概観すると、昨今の文体は「私」視点の一人称での語りが多いですね。読者からすると、著者と同じ目線で読めると理解しやすいし、読みやすいし、感情移入もできる。ただ、前述したように、僕の美学とは合わないです。美学と言うのかな、ちょっとわかんないですけど。

前田 いや、美学だと思いますよ。

 だからそういう意味で言うと、僕は前田さんには近いと思うんです。いろんなノンフィクションのタイプ、書き手がいる。ノンフィクションには、その書き手の人生観と姿勢、対象に対する距離みたいなものがすごく出ると思うんです。好みと美学の問題なんですけど、やはり取材者として何を描き、何を伝えたいかが出る。前田さんの喜八本は岡本喜八や戦中派が何を抱えていたのかという問いが、もう最初から最後まで一貫してるんですよね。それを徹底して調べて、取材して、そこを描きたかったというのが、明確に伝わってきます。著者を前に、偉そうで申し訳ないんですけど。

前田 いえいえ、とんでもない。そのとおりです。

 著者の姿勢というのも、読んでいるうちに滲んで伝わるぐらいが、僕としては格好いいなと思うんです。もうやむにやまれず出てしまう。

前田 思いが発露するという。

 そう、発露してしまう。読者に「私」が出てきて「こうですよ」と言わなくても、書き手が伝えようとしたもの、書いているうちにあるいは取材しているうちに、こうだって気づいたときの喜びや興奮が伝わってしまう。

前田 思わず出る。

森 そういうのが格好いいですよ、やっぱりね。

前田 読んでいてもそっちのほうがいいような気がします!

(終)

撮影/織田桂子

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プロフィール

前田啓介

(まえだ けいすけ)
1981年生まれ。滋賀県出身。上智大学大学院修了。2008年、読売新聞東京本社入社。長野支局、社会部などを経て、現在、文化部で近現代史や論壇を担当。満蒙開拓や、ペリリュー・アンガウルの戦い、硫黄島の戦い、沖縄戦、特攻、シベリア抑留など戦争に関する取材に関わってきた。著書に、『辻政信の真実 失踪60年──伝説の作戦参謀の謎を追う』(小学館新書)、『昭和の参謀』(講談社現代新書)がある。

森健

(もり けん)
ジャーナリスト、専修大学非常勤講師。1968年、東京都生まれ。早稲田大学法学部卒業。科学誌、 経済誌、総合誌で専属記者を経て独立。2012年、『「つなみ」の子どもたち』(文藝春秋)と『つなみ 被災地の子ども80人の作文集』(企画編集、文藝春秋)で第43回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。2015年、『小倉昌男 祈りと経営』(小学館)で第22回小学館ノンフィクション大賞受賞。2017年、同書で第1回大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞受賞、ビジネス書大賞2017で審査員特別賞を受賞。2023年、「安倍元首相暗殺と統一教会」で第84回文藝春秋読者賞受賞。

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岡本喜八と79年目の夏(後編)