分断と衝突を繰り返すアメリカ。今や国民の多くが「数年以内に内戦が起こる」との恐怖を抱いている。そうした時代の変化に伴い、民主主義と国民国家の在りかたに向き合ってきたアメリカ文学も、大きな分岐点を迎えている。 本連載ではアメリカ文学研究者・翻訳家の都甲幸治が、分断と衝突の時代において「アメリカ文学の新古典」になりうる作品と作家を紹介していく。
今回紹介するのはコルソン・ホワイトヘッドの『地下鉄道』。2021年にアカデミー賞監督バリー・ジェンキンスによってドラマ化もされた本作は、どのような文脈から生まれたのか。
アメリカ合衆国にはスレイヴ・ナラティヴというジャンルの作品がある。奴隷によって書かれた物語、という意味だ。アメリカの歴史に詳しい人なら、このスレイヴ・ナラティヴという呼び名そのものに矛盾が含まれていることに気づくだろう。南北戦争中の1863年にリンカーン大統領によって出された奴隷解放宣言によって奴隷という地位を脱するまで、黒人たちが文字の読み書きをすることは非合法だった。したがって、もしただ法律にのっとって彼らが数百年のあいだ暮らしていたのならば、そもそも文字を知らず、言語能力を向上させるチャンスもなかっただろうし、したがって本を書くこともなかったはずだ。しかし、物事はそんなに単純ではない。
アメリカで最も有名なスレイヴ・ナラティヴであろう『数奇なる奴隷の生涯 フレデリック・ダグラス自伝』(法政大学出版局)を読むと、奴隷制まっただ中である1818年に生まれた彼が、どのようにして文字を読み書きする能力を獲得したのかがよくわかる。まずはそれまで奴隷を所有したことがなかった温情的な女性にアルファベットを少し教わった。そのあと彼女は夫に止められてダグラスに文字を教えることをやめてしまう。だが彼はくじけなかった。船の材料である板に書かれたアルファベットを一文字ずつ覚え、こっそりと書く練習をする。ボルチモアに住んでいるあいだ、主人の家からパンを持ち出しては、貧しい白人の子どもたちにそれを与える。何のためかというと、「知識というもっと価値のあるパン」(65ページ)をお返しに教えてもらうためだった。
こうしたやりとりを繰り返すうち、ダグラスは子どもたちと友情を育む。白人だろうが黒人だろうが同じ人間だ。一度仲良くなってしまえば仲間の絆は強い。そして、ダグラスが苦境を語ると、彼らは深く同情する。「君たちは二一歳になるとすぐに自由に振る舞えるだろう。でも、僕は一生奴隷のままなんだ! 僕だって君たちと同じように、自由になる権利をちゃんと持っているのじゃないだろうか」(65ページ)。ダグラスはのちに「私が最も強い愛情を感じていたのは、あのボルチモアの少年たちだった」(79ページ)とまで語っている。醜い奴隷制の時代にも、白人たちは決して一枚岩ではなかった。心の優しい者は、法律を乗り越えてまで黒人たちに手を差し伸べていたのだ。
さて、このように非合法に読み書き能力を獲得したダグラスは、新聞を読み、本を読んで、密かに知的能力を向上させていく。だが、そのことは彼を絶望の淵に追いやるだけだった。奴隷制の仕組みが分かるにつれ、奴隷所有者たちこそが、アフリカから人間を盗んだ泥棒の群れでしかないと彼は気づく。したがって、彼らを守っている法律や、彼らに味方している南部教会のキリスト教もすべて、まやかしのものでしかない。しかし、そのことを告発したとしても、現に目の前にある社会を一人で変えることはできない。というより、自分に負わされた奴隷という運命すら変えることはできないのだ。こうして彼は死をも願うようになる。
自殺という考えから彼を救ったのは、奴隷所有者たちへの彼の反抗心だった。このまま彼らの言いなりになって、家畜として生き続けることには耐えられない。ならば戦おう。奴隷主から自分自身を盗み出して、奴隷制のない北部に逃れよう。あるいはそれが無理なら、奴隷主に殺されてもかまわない。この覚悟をもとに、彼は1838年に北部への逃亡に成功する。やがて奴隷解放論者たちに認められて、講演者として活躍するようになる。イギリスにまで渡り、人々の資金援助を得た彼は、かつての自分の所有者から自分自身を買い取り、法的にも自由黒人となるのだ。
ダグラスの自伝を読んでいると、敵対的な環境で生き延びるための対策が書かれている。たとえばこれはどうだろう。あなたの奴隷主はどういう人物か、と訊かれたときの正解は何か。答えは、親切だし、奴隷たちはみな満足している、だ。なぜか。もちろんすべての奴隷主は残虐であり、奴隷たちが不満を溜めている。しかし、それを正直に語ったらどうなるか。実は奴隷主たちは奴隷のあいだにスパイを送り込んでいた。したがって、どんなに同情的な顔をしていようが、目の前の人物が奴隷主に告げ口するかもしれない。そうしたらあなたは、即座に殺されるか、もしくはより奴隷を過酷に扱う州に売られることになる。すなわち、正直であることはそのまま死につながるのだ。
奴隷主はこう言う。奴隷たちは従順かつ礼儀正しくいるべきだ。そして目の前のことに打ち込み、将来のことはいっさい考えるな。すべての判断は奴隷主にゆだねろ、と。確かに、こういうふうにしていれば一日一日は大過なくすぎるかもしれない。だが結局は生涯、奴隷主の思うままにこき使われ、心身をすり減らし、やがて病気や老いによって体が効かなくなればそのまま見捨てられ、その場で死ぬことになる。だからこそ、ダグラスは常に反抗心をたぎらせ、逃亡の機会を伺いながら、自分の頭でひたすら考え続けるのだ。
酒についてのダグラスの見解も興味深い。彼は酒を偽の自由と呼ぶ。奴隷主たちは休日に、奴隷たちが大量に酒を飲み騒ぐことを好む。こうすれば彼らは反抗心を発散してしまい、逆らったり逃げたりする気力すら失ってしまうだろう。そして、奴隷制にやすやすと従うことになるのだ。「休日が終わると、私たちは酒におぼれていた堕落状態からよろよろと立ち上がり、深呼吸し、主人が私たちをだまして自由だと思いこませていたものから、奴隷制の腕の中へと戻っていくのを、概して、むしろ喜びながら――畑へと進んで行ったのである」(108ページ)。
それでは具体的に、ダグラスはどうやって北部に逃亡したのか。実は本書には記述がない。いろいろあって逃げることに成功した、と書いてあるだけである。なぜか。細かく逃亡の経路や協力者たちを記せば、味方たちを苦境に追いやることになる。また南部の敵たちに、より的確な対策のための情報を与えてしまうからだ。だがダグラスが書いた自伝はこれだけではない。彼は生涯に3回も自伝を書いている。そして、奴隷制廃止後の1892年に書かれたものには、細かい逃亡の経緯が書き記してある。
訳者あとがきによれば、ダグラスは身分を偽り、鉄道を乗り継いで、何度も発覚の危機を乗り越えながら、どうにか北部に辿り着いた。蒸気による動力で動く鉄道は1831年以降、アメリカでも普及し、彼は北部に逃亡するのにそれを使うことができたのだ。実は奴隷たちは鉄道を利用して逃亡することが多かった。といってもダグラスのように、文字通りの鉄道ではない。当時、地下鉄道と呼ばれた、奴隷制廃止論者たちの秘密のネットワークを用いて北部へ、そして1850年以降はカナダへと逃げ延びたのである。
南部諸州で奴隷廃止論者たちは、駅と呼ばれる基地を運営していた。それは多くの場合、一般の家屋であり、彼らは逃げてきた奴隷を屋根裏部屋や地下室などに匿った。奴隷たちを荷物の中に隠したりしながら駅と駅のあいだを繋ぎ、どうにか検問をくぐり抜けて、はるか遠い北部にまで彼らを送り届けたのである。もちろん奴隷だけでなく、奴隷廃止論者たちも命がけでこのような行為を行っていた。当時の南部では法律上、あくまで奴隷は人間ではなく所有物であり、したがって彼らを持ち主の許可なく動かすことは重大な犯罪だと考えられていたからだ。
実はダグラス自身も、こうした地下鉄道に関わっていたらしい。なんと多いときには一週間で60人もの奴隷たちをカナダに逃がしていた、というから恐れ入る。そして1861年に南北戦争が勃発すると、奴隷解放宣言の布告をリンカーンに迫った。その後、彼は公職に就き、最終的にはハイチ在住のアメリカ公使になるなど、人種差別が厳しかった当時にしては破格の活躍をした。こうしてダグラスは1895年に亡くなるのだが、彼の言葉はいまだに新鮮さを失っていない。『アメリカの黒人演説集』(岩波文庫)には、彼の熱すぎる演説が収録されている。
さて、時を超えて2016年にコルソン・ホワイトヘッドが書いたのが、小説『地下鉄道』である。本書で彼はピュリッツァー賞と全米図書賞を獲得した。1969年にニューヨークの裕福な黒人家庭に生まれ、ハーバード大学で教育を受けた彼が21世紀に書いたスレイヴ・ナラティヴというだけで、なかなか野心的な試みだということがわかる。もちろんホワイトヘッドは黒人だが、あくまで現代人であり、したがって奴隷だった記憶を持つわけではない。
さらに、登場する地下鉄道の定義が間違っている。19世紀の地下鉄道は、あくまで比喩的な意味の鉄道だった。しかし、ホワイトヘッドの作品では実際にアメリカ南部諸州の地下にトンネルのネットワークが張り巡らされており、そこを通って機関車が逃亡奴隷たちを運んでいる。ホワイトヘッドはなぜこのようなことを思いついたのか。訳者あとがきによれば、彼の子ども時代の思い込みが起源らしい。地下鉄道と聞いて彼は19世紀の南部に本当に地下鉄が走っていたのだと思った。そして、それが誤解だと知ってがっかりした。
本書の主人公は、ジョージア州の農場で働かされている奴隷娘のコーラだ。かつて彼女の母親は娘を捨てて北部に逃げ、いまだ行方が知れない。コーラは母親を恨みながらも、自分もこの絶望的な場所から逃げていきたい、と密かに思いを募らせている。彼女に声をかけたのがシーザーだ。自分と一緒に地下鉄道で逃げようと、彼はコーラを熱心に誘う。最初は断っていたものの、ついに決心したコーラは二人で地下鉄道に乗り込み、サウスカロライナ州に脱出する。そこでは奴隷制は維持されていたものの、黒人たちに融和的な政策が実行されていた。いったんはこの州に落ち着こうと思ったコーラだが、実はこの州では梅毒に関する人体実験や黒人の断種の実験を彼らに黙って実施していることを知る。もうここにはいられないと思った瞬間、コーラは奴隷狩りの襲撃に遭い、間一髪、地下鉄道でノースカロライナ州に逃れる。
ノースカロライナ州では、徹底的に黒人排除政策が行われていた。州から組織的に黒人を追い出し、拒む者は自由黒人であろうと全員殺して木に吊るす。コーラはある家の屋根裏部屋に潜むが、結局は見つかってしまう。そして彼女を匿った夫婦は皆殺しにされる。奴隷狩りの手でコーラは連行されていく。だが地下鉄道に関わっている自由黒人により途中で奪還され、インディアナ州まで逃げることに成功する。
インディアナ州でコーラはある農場に落ち着く。そこは白人と黒人の混血である裕福な人物に所有されており、逃亡奴隷たちにとっては天国のような場所だった。彼らはここでは自由に本を読み、議論し、自分の意思で労働して、人生を築き上げていくことができる。人間として当たり前のことが当たり前にできるという環境に、人生で初めて出会った彼らは、自分たちが本当に奴隷という悲惨な身分から解放されたと心底、感じていた。だが、もちろんそうした日々は続かない。ある日突然、近隣の白人たちに農場は襲撃され、住民の多くが殺されて、農場は全て破壊される。奴隷狩りの手からギリギリで逃れたコーラは、古い地下鉄道に降り、トロッコを自分で操作して、もっと北へと向かっていく。彼女の逃亡の人生は果てない。
さて、著者であるコルソン・ホワイトヘッドは、この21世紀のスレイヴ・ナラティヴとでも呼ぶべき作品をどのようにして書いたのだろうか。フレデリック・ダグラスと違って、彼には奴隷だったという経験はない。その代わりに導入したのが、すでに触れたような、実際に地下を走ってしまう汽車というSF的な要素である。さらに、時代錯誤とでもいうべき要素が、この作品には大量に詰め込まれている。言うなればホワイトヘッドは、数百年にわたるアメリカ合衆国での黒人の経験を幅広く調べた上で、彼らの苦難や反逆の歴史をこの一冊にぎゅっと詰め込んでいるのだ。
たとえば、農場での言語についてである。アフリカのさまざまな場所から連れてこられた奴隷たちは、自らの内側に保っていた母語と英語を混ぜ合わせて、混成言語としか呼びようのない言葉を作り上げた。やがてそれが農場での標準的な言語になっていたのである。奴隷たちが代替わりすると、こうした言葉は根絶やしにされ、英語に置き換えられていった。だが、彼らの固有の抑揚や単語の断片として、そうした記憶は生き残っていったはずだ。逃亡先で、コーラはハワード老人と出会い、彼の話し方から、奴隷たちの歴史や記憶について思いを馳せる。
一方、白人たちは黒人をどう見ていたのか。ノースカロライナ州の場面では、いわゆるミンストレルショーが描写されている。墨で顔を黒く塗った白人たちは、黒人たちの喋り方を真似し、彼らの愚かさを誇張して笑いを取る。そして黒人たちの音楽を、彼らよりはるかに低い技量で奏でるのだ。このようなミンストレルショーは、19世紀にアメリカで盛んに演じられ、やがてミュージカルという、アメリカを代表するエンターテインメントへと発展していった。
白人たちによる暴力は、こうした娯楽だけではない。作品中では、黒人たちに黙って梅毒に感染させ、どのように病状が悪化して死に至るかを調べる人体実験が描写されている。そしてまた、同意を得ない形での不妊治療などを通して、黒人たち全員を断種しようとする試みについても述べられている。これらは、20世紀のアメリカにおいて実際に行われていた犯罪的な行為だ。
1932年からなんと1972年まで、アラバマ州タスキーギにおいて、わざと黒人たちを梅毒に感染させる実験が行われた。研究対象となったのは600人に及び、有効な治療薬であるペニシリンさえ彼らには投与されなかったと言われる。さらに、アメリカのいくつかの州において、優生学に基づいた断種法が施行され、20世紀後半まで強制的な不妊手術が実行されていた。もちろん、対象となったのは白人よりも黒人の方がはるかに多い。
それでは、黒人たちはやられる一方だったのか。そうではない。本書には、銃を持ち、奴隷狩りからコーラを奪う黒人の男たちが登場する。彼らの姿は、1970年前後のブラックパンサー党を彷彿とさせる。
『地下鉄道』を読みながら、読者はコーラとともにアメリカ南部を北に向かって旅していく。それだけではない。数百年にわたる黒人たちの苦難の歴史を、過去から現在に至るまで、登場人物たちと一緒に旅していくのだ。こうした重い物語を、SF要素のあるエンターテインメントとしてまとめたコルソン・ホワイトヘッドの力量は高い。そのことは、本作が映像化され、アマゾンプライムビデオで見ることが可能であることからもよくわかる。
参考文献
荒このみ編訳『アメリカの黒人演説集』岩波文庫、2008年。
コルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道』谷崎由依訳、ハヤカワepi文庫、2020年。
フレデリック・ダグラス『数奇なる奴隷の生涯 フレデリック・ダグラス自伝』岡田誠一訳、法政大学出版局、1993年。
分断と衝突を繰り返すアメリカ。今や国民の多くが「数年以内に内戦が起こる」との恐怖を抱いている。そうした時代の変化に伴い、民主主義と国民国家の在りかたに向き合ってきたアメリカ文学も、大きな分岐点を迎えている。 本連載ではアメリカ文学研究者・翻訳家の都甲幸治が、分断と衝突の時代において「アメリカ文学の新古典」になりうる作品と作家を紹介していく。
プロフィール
とこう こうじ
1969年、福岡県生まれ。翻訳家・アメリカ文学研究者、早稲田大学文学学術院教授。東京大学大学院総合文化研究科表象文化論専攻修士課程修了。翻訳家を経て、同大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻(北米)博士課程修了。著書に『教養としてのアメリカ短篇小説』(NHK出版)、『生き延びるための世界文学――21世紀の24冊』(新潮社)、『狂喜の読み屋』(共和国)、『「街小説」読みくらべ』(立東舎)、『世界文学の21世紀』(Pヴァイン)、『偽アメリカ文学の誕生』(水声社)など、訳書にチャールズ・ブコウスキー『勝手に生きろ!』(河出文庫)、『郵便局』(光文社古典新訳文庫)、ドン・デリーロ『ホワイト・ノイズ』(水声社、共訳)ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(新潮社、共訳)など、共著に『ノーベル文学賞のすべて』(立東舎)、『引き裂かれた世界の文学案内――境界から響く声たち』(大修館書店)など。