アメリカ文学の新古典 第6回

沈黙の力――イーユン・リー『千年の祈り』

都甲幸治

分断と衝突を繰り返すアメリカ。今や国民の多くが「数年以内に内戦が起こる」との恐怖を抱いている。そうした時代の変化に伴い、民主主義と国民国家の在りかたに向き合ってきたアメリカ文学も、大きな分岐点を迎えている。
本連載ではアメリカ文学研究者・翻訳家で早稲田大学文学学術院教授の都甲幸治が、分断と衝突の時代において「アメリカ文学の新古典」になりうる作品と作家を紹介していく。第6回はイーユン・リーの『千年の祈り』(新潮クレスト・ブックス)。

 イーユン・リーの短編集『千年の祈り』を読むと、いつも驚いてしまう。いったいこれは何文学なのだろう。ふつう我々はアメリカ文学や中国文学といった国単位で文学を理解している。確かに言語や国境を越えた文学というのも存在するし、現代ではそれがだいぶ主流になってきた。それでも依然として、大学の文学部は国や言語、地域を単位として学科が分かれているし、書店に行っても国別・地域別であることは変わりない。けれども『千年の祈り』は違う。

 収録された作品の舞台の多くは現代中国であり、登場する人々も中国人ばかりだ。そしておそらく、ほぼすべての会話が中国語でなされている。あるいは、アメリカ合衆国に渡ってきた人々についての作品もそうだ。さすがに舞台はアメリカであるものの、やはり登場する人々はほぼ全員が中国人で、彼らは中国語でしゃべり続ける。そしてその全ての会話が英語に訳されている。そして時には地の文において、中国語の表現の直訳としか思えない表現が出てきはするものの、やはり英語で書かれているのだ。ここで我々は混乱してしまう。それは、文学と言語や国家は自然に結びついているものなのかという、意外に深い問いと関わっている。

 日本文学はどうか。典型的な日本近代文学である『吾輩は猫である』について考えてみよう。もちろん作者の夏目漱石は日本人であり、その作品は日本語で書かれている。舞台となるのは日本の東京で、登場人物たちはみな日本人だ。そして全員が日本語で会話をしている。そんなの当たり前じゃないか、とあなたは思うかもしれない。だがそれは、日本という国家と日本語、そして日本国籍があたかも自然に融合しているように見える日本という特殊な空間で、あまりにも長い時間をあなたが過ごしてきてしまったからだ。

 だがアメリカ文学は違う。たとえばノーベル文学賞を受賞したアーネスト・ヘミングウェイの小説『老人と海』はどうだろう。舞台はキューバ沖の海とキューバの村であり、アメリカ合衆国ではない。そして登場人物のほぼ全員がキューバ人であって、アメリカ人ではない。当然ながら彼らは常にスペイン語でしゃべっており、その会話は全て英訳されて作品に刻まれている。

 ならば本作はアメリカと無関係なのかといえば、そうでもない。もちろんこの作品を書いたヘミングウェイはアメリカ人であり、20世紀アメリカを代表する作家である。そしてまた、登場人物たちは多かれ少なかれアメリカ文化と関係を持っている。彼らがラジオで聞いているのはアメリカ大リーグの試合であり、彼らが用いる漁具は、廃車になったアメリカ車から取り出したスプリングを加工し直したものだ。すなわち彼らは、アメリカの生み出したゴミから自分たちの生活の糧を得るための道具を作り出し、それを用いて、巨大なサメとの英雄的な戦いを遂行する。

 最後に少し出てくるアメリカの観光客にとって、彼らはただの田舎の人々だ。だが作品を読んだ我々にとっては、機械文明によって衰退した現代のアメリカ人たちをはるかに凌ぐ精神性を持つ人々である。アメリカ人たちはキューバについてほとんど何も考えていないかもしれない。しかしキューバ人たちはアメリカを深く理解し、そして貧しさの中で、彼らを超えるほどの精神性を研ぎ澄ませている。そして彼らに仮託する形で、ヘミングウェイは現代アメリカを批判しているのだ。

 ならばイーユン・リーの『千年の祈り』を、『老人と海』の中国版のように理解すればいいのか。ことはそう単純ではない。何しろヘミングウェイと違って、作者であるイーユン・リー自身が、成人してからアメリカにやってきた中国人なのである。すなわち中国人が、中国を舞台として、中国人について、英語で書いた作品なのだ。すると一つの疑問が湧き上がってくる。これは単に英語で書かれただけの中国文学なのではないか。それがたまたまアメリカの雑誌に載り、そしてアメリカで単行本化され、著者もアメリカに住んでいる、というだけで、本質的には中国文学だと考えたほうが、よほどすっきり理解できる気がする。

 けれどもこの仮説も簡単に崩れ去ってしまう。実は『千年の祈り』は、現代中国文学としては存在し得ない、ある性質を帯びている。それは何か。文化大革命から天安門事件までの中国の負の歴史と直接、交錯してしまったがために、社会の片隅に追いやられ、時には破滅する人々をイーユン・リーは作品で好んで扱っている。そしてこうした文学は、現代中国においては存在しえない。

 なぜなら、特に天安門事件をめぐる言葉は、中国国内で完全な自主規制を余儀なくされているからだ。言い換えれば、文字の上では中国国内で天安門事件は存在しない。したがって、多かれ少なかれ、この出来事をめぐる形で書かれている現代中国文学もありえないのである。そして、現代中国語にあいたこの巨大な穴の中で作品を英語で創作することから、イーユン・リーは作家としてのキャリアを始めている。だからこそ、『千年の祈り』はアメリカ文学であり、同時に中国文学でありながら、そのどちらでもない、という奇妙な性質を帯びている。

 イーユン・リーの生涯を通じて、こうした沈黙の巨大な穴は身近だった。核物理学者の父親を持った彼女にとって、決して国家機密を漏らしてはならない、という倫理は日々の生活そのものだっただろう。ただでさえ、いつ政府に密告されるかわからない社会の中で、彼女は自分の考えを口にしないように常に注意しながら育った。彼女が十代のころ、北京で学生たちのあいだに社会変革の声が盛り上がったとき、イーユン・リーはそこに自分も参加したい、という強い思いを胸に秘めていた。だがそのことを知った両親によって、天安門事件が起こった晩、彼女は家に閉じ込められてしまったのである。

 だからこそ、彼女は何が起こったかを直接は見ていない。ただ多くの遺体を見た、という話を家族や友人たちから聞いただけである。それでも、後ほど短期間在籍した人民解放軍で事件の話をしたという理由で処罰されかける、という危うい体験までした。このようにして、イーユン・リーは中国語で語ったり書いたりするときに、必ず自主規制してしまう、という強固な性質を身につけたのである。この自身のあり方を、彼女は自分自身の力では打ち破ることができなかった。

 そして20代でアメリカ合衆国のアイオワ大学に来て免疫学を学びながら、社会人学級で英語での創作を学び始めたとき、彼女は自分の中の何かが大きく変わるのを感じたのだ。あれほど自分では打ち破れなかった自主規制が、英語では作動することがなかった。言い換えれば、母語である中国語より英語のほうが、よほど自由に考え、書くことができたのである。こうして、イーユン・リーは英語の作家としてのキャリアを追い求めようと決意し、科学者の道を捨てて同大学の創作科で本格的に学び始めたのだった。後ほど刊行された本書『千年の祈り』で2005年にフランク・オコナー国際短編賞やペン/ヘミングウェイ賞といった大きな文学賞を受賞することで、彼女は瞬く間に、現代アメリカを代表する作家へと飛躍していった。

 実は表題作である短篇「千年の祈り」には、イーユン・リーと似た発言をする娘が登場する。先に中国からアメリカに渡り、図書館の司書をしている娘を、かつて何十年をロケット工学者として働いていた父親が訪ねる。妻が生きているあいだは、あまり親子の会話はできなかった。だからこそ、このアメリカという新しい国で娘とたくさん話したい。そんな希望を持った父親だが、なぜか娘は父親を避けてしまう。彼女には父親の気持ちがどうしても理解できないのだ。

 そしてまた、父親も娘が理解できない。ルーマニア人の恋人と英語で話す娘を見て、父親は驚愕する。こんな風にあけすけな態度で話している娘を今まで父親は見たことがなかった。「娘が英語を話すのに耳をそばだてる。これほどきつい声に聞こえるのは初めてだ。早口でしゃべり、何度も笑っている。言葉はわからないが、その話しぶりはもっと理解に苦しむ。やたらとけたたましくふてぶてしく、きんきんひびく声。ひどく耳ざわりで、ふとはずみで娘の裸を見てしまったような気分だ。いつもの娘ではなく、どこかの知らない人みたいだ」(278ページ)。

 なぜそんな話し方をするんだと父親に問われて、娘はこう答える。「ちがうのよ。英語で話すと話しやすいの。わたし、中国語だとうまく話せないのよ。(中略)父さん。自分の気持ちを言葉にせずに育ったら、ちがう言語を習って新しい言葉で話すほうが楽なの。そうすれば新しい人間になれるの」(281ページ)。中国語で話すと、娘はおしとやかで夫を立てる貞淑な妻という、中国における女性の理想像に沿った話し方を無意識になぞってしまう。そうしているあいだは、自分の気持ちを表現することができない。

 彼女は母語である中国語を、英語よりはるかに巧みに話すことができるのだろう。しかしそれでも、新たに憶えた英語のほうが、自分を正直に表現できるのだ。こうした発言を読むと、言語とはいったい何なんだろう、と思わされる。言語は意味を伝えるだけではない。そこには長い時間をかけて培われた、個別の言語圏の価値観が強く絡みついている。だからこそ、そうしたものから距離を取って、対象として考えるためには、いったん外国語を経由する必要があるのだ。こうした言語学的な気づきを、娘は知らず知らずのうちに父親に口にしている。そして父親は、彼女のこの苦しみをまったく受け入れることができない。

 ならば、娘になじられている父親は、このような沈黙を自分では知らないのだろうか。いや、むしろ彼の人生は沈黙そのものだったと言える。そもそもロケット工学者として高度な国家機密に携わることになった彼は、仕事で何をやっているのかを家族にも友人にも長年、一切語ることができなかった。

 それだけではない。近しくなったカードパンチャーの女性とつい話し込むようになった彼は、未婚女性と既婚男性が親しくしてはいけない、という当時のタブーを知らず知らずのうちに犯していた。そして、当局から不倫の疑いが掛けられてしまったのだ。実際に不倫をしたと告白し自己批判していれば、彼はロケット工学者を続けることもできた。だが、家族や女性を守るために、彼はそうした求めを拒んだ。そして、ロケット工学者の職を追われ、研究所で最も下位の職をあてがわれて数十年の時を過ごしてきたのである。そうした没落についてすら、彼は家族にも話すことができなかった。もちろん、噂を通じて、家族は全ての経緯を既に知っていたとしても、である。

 今の彼にとって唯一の心温まる時間は、近所の公園で出会うイラン人のマダムとの会話である。とはいえ、彼らに共通の言葉は、カタコトの英語でしかない。それでは自分たちの考えの十分の一さえ話すことはできないだろう。それでも、彼は込み入った話は中国語で語り、マダムはペルシャ語で延々と話す。互いに何を言っているのかはほとんど分からないはずだ。だが何度も会い、言葉を交わし、同じ景色を見ながら時間を過ごしているうちに、何か通じ合うものを二人は感じ始める。少なくとも、こうやって共有する時間がとても貴重なものであることは互いにわかっているのだ。

 言い換えれば、父親は今、沈黙の新たな乗り越え方を発明しているのだとも言えるだろう。中国語を理解しないマダムの前では、かつてなら当局に睨まれかねない話をしてさえ、安全に心の内を明かすことができる。こうした感覚は、彼の娘が英語で味わっているのとほとんど同じなのではないだろうか。場所を移動し、言語圏を移動した父親はこう思う。「異国は異質な考えを起こさせるものだ」(287ページ)。英語を習得してアメリカ社会に参加しているとまでは言えない以上、彼が今いる場所は、中国ではないものの、どことも言えない異国といったものだろう。だが、そうした場所に出て行くことで、彼は確実に、今まで知らなかった自由を感じ取っているのではないか。

 沈黙の中で生きているのは、本書の巻頭に置かれた短篇「あまりもの」の主人公林ばあさんも同じだ。彼女は縫製工場を名誉退職した。だが実際には、彼女が退職したのではなく、ただ工場が倒産しただけだ。したがって、彼女には年金も払われない。次に彼女が生きるためにしたのは、ボケた老人の後妻となることだ。彼の身の回りの世話をする代わりに、彼女は妻の座に着いたはずだった。だがいざ介護中に老人が亡くなると、子供たちは遺産も分与せず、ただ林ばあさんを追い出す。そしてついに林ばあさんが見つけたのは、エリートの子女だけが通う私立学校の家政婦という職業だった。

 ここでは、国のエリート層だけが食べられる無農薬農場の野菜が、ふんだんに提供される。そして職員もそれを味わうことができるのだ。今まで見たこともない特権的な暮らしに、林ばあさんはうっとりとする。彼女は康という少年と親しくなる。複雑な家庭で育った彼は、休暇中も家には戻らない。代わりに林ばあさんが彼の相手をし続ける。ついに林ばあさんは、恋心にも似た感情を康に抱くようになる。やがて康はある犯罪行為をしていることを林ばあさんは知る。洗濯物から女子の靴下を盗んで、枕カバーの中に貯めこんでいるのだ。だが、彼を愛している林ばあさんはその事実を隠す。だがやがて発覚し、林ばあさんも一緒に罪に問われて、この学校を追い出されてしまう。

 本作でも様々な沈黙が登場する。まずは、林ばあさんが働いていた工場の倒産の経緯は語られず、それが公に認められることもない。そしてまた、林ばあさんが後妻であった事実も沈黙の中で揉み消される。彼女は法的に権利があったにもかかわらず、遺産を全く受け取ることができない。むしろ、彼女のミスで老人が亡くなったかのような噂すら立てられてしまう。老人の息子の紹介で入った学校でも同じようなものだ。エリートたちが特権的な教育を受け、なおかつ特別なものを食べているという事実を一般庶民は知ることがない。

 そしてまた、恋心ゆえに林ばあさんは康の盗みを黙っている。「週末、二人で藤の花影に座っているときなど、若い頃できなかった恋というのはこういうものか、と林ばあさんは思う。好きな男の子と手をつなぎ、知ってはならない秘密を訊かずにいる」(28ページ)。言い換えれば、彼女の世界観の中では沈黙こそが愛なのだ。

 さまざまな沈黙の中に生きながら、常にいないものとしてばあさんは扱われてきた。だが、そうした存在であり続けてきたがゆえの、彼女なりの生き延びる戦術というものがある。3000元の解雇手当を得て学校の外に出た林ばあさんは、いきなり鞄を盗まれてしまう。だが、虎の子のお金はしっかりと彼女の手元に残っていた。なぜなら彼女は弁当箱の中にすべての資産を入れていたからだ。

 沈黙に抑圧されて生きる彼女は、自らも沈黙を使って厳しい社会から身を守る。そして、こうした声なき者たちの、それゆえの強さや知恵について、イーユン・リーは語り続けているように思える。

(次回へ続く)

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第7回  
アメリカ文学の新古典

分断と衝突を繰り返すアメリカ。今や国民の多くが「数年以内に内戦が起こる」との恐怖を抱いている。そうした時代の変化に伴い、民主主義と国民国家の在りかたに向き合ってきたアメリカ文学も、大きな分岐点を迎えている。 本連載ではアメリカ文学研究者・翻訳家の都甲幸治が、分断と衝突の時代において「アメリカ文学の新古典」になりうる作品と作家を紹介していく。

プロフィール

都甲幸治

とこう こうじ
1969年、福岡県生まれ。翻訳家・アメリカ文学研究者、早稲田大学文学学術院教授。東京大学大学院総合文化研究科表象文化論専攻修士課程修了。翻訳家を経て、同大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻(北米)博士課程修了。著書に『教養としてのアメリカ短篇小説』(NHK出版)、『生き延びるための世界文学――21世紀の24冊』(新潮社)、『狂喜の読み屋』(共和国)、『「街小説」読みくらべ』(立東舎)、『世界文学の21世紀』(Pヴァイン)、『偽アメリカ文学の誕生』(水声社)など、訳書にチャールズ・ブコウスキー『勝手に生きろ!』(河出文庫)、『郵便局』(光文社古典新訳文庫)、ドン・デリーロ『ホワイト・ノイズ』(水声社、共訳)ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(新潮社、共訳)など、共著に『ノーベル文学賞のすべて』(立東舎)、『引き裂かれた世界の文学案内――境界から響く声たち』(大修館書店)など。

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