分断と衝突を繰り返すアメリカ。今や国民の多くが「数年以内に内戦が起こる」との恐怖を抱いている。そうした時代の変化に伴い、民主主義と国民国家の在りかたに向き合ってきたアメリカ文学も、大きな分岐点を迎えている。 本連載ではアメリカ文学研究者・翻訳家の都甲幸治が、分断と衝突の時代において「アメリカ文学の新古典」になりうる作品と作家を紹介していく。
今回紹介するのは日系人作家ジュリー・オオツカの『あのころ、天皇は神だった』。
年を取る。脳が壊れてくる。少し前にあったことも覚えられない。ジュリー・オオツカの短篇 “Diem Perdidi(一日を無駄にした)”(『スイマーズ』(新潮社)所収)はそんな短編だ。語り手は娘で、壊れていく母親を身近でじっと見守っている。たとえば、三年前に買ったコーヒーメーカーの使い方を母はまだ覚えられない。なぜならそれは、物忘れが始まったあとに買ったものだからだ。あるいは、以前には普通にできていたことができなくなる。アイロンをかけようにも、かけ方がわからない。一度椅子に座ってしまうと、どうやって立っていいかわからない。だから、娘が細かく段取りを教える。手を添えて立たせてあげる。いったい何が起こっているのか母親にはわからない。けれども、彼女の心に強く刻まれた記憶の輪郭だけは、どんどんとくっきりしてくる。
彼女が思い出すのは、第二次世界大戦中のことだ。戦争が始まってすぐ、日系人である家族に識別番号が割り振られる。そして、五か月経ったところで、彼女は母親や弟と一緒にユタ州の砂漠にある強制収容所に送り込まれる。「一九四五年九月九日。ヤマヨモギをびゅうびゅう吹き抜ける風の音を、彼女は覚えている。サソリや赤アリを、彼女は覚えている。砂塵の味を、彼女は覚えている。」(69ページ)。
あるいは、夫との結婚前に付き合っていたフランクという白人男性のことだ。フランクと一緒にいたとき、彼女はこの上なく幸せだった。そして、ほかのどんな人ともこんなふうにはいかないということを、当時彼女は知らなかった。だからこそ、自信がない、あるいは準備ができていないという理由で、彼からの結婚の申し込みを二度も断ってしまう。やがて、朝鮮戦争に行ったフランクはほかの女性と恋に落ち、手紙をくれなくなる。最後に一度だけ彼と再会したとき、彼女は言う。「もう遅いわ」(82ページ)。
やがて彼女は結婚し、日本人の男性とのあいだに子どもができる。その娘は父親と同じ鼻を持っていた。だが、生後すぐに心臓の疾患で亡くなってしまう。動揺した彼女は、検体をしてほしいという医師からの申し入れを受け入れ、娘を埋葬する機会を永久に失ってしまった。あの子を木の下に葬ればよかったのに、そうすれば、毎日花を持って行けたのに、と彼女は思う。やがて、もう一人の娘である語り手が生まれる。一方で夫との関係はこじれ、やがて彼は家を出て行く。彼女は部屋の隅に塩を撒き、それっきり夫の話をしなくなる。
母親の記憶の揺れ同様、作品は現在を描いていたかと思うと過去に飛ぶ。しかも、さまざまな時代を自由に行き来する。だから読者は、母親の過去に何があったのかを、断片的かつ混乱した記述を通して再構成しなければならない。けれども、こうした混沌こそ、我々が生きている現実なのではないだろうか。記憶は、我々の意志を超えて勝手によみがえり、数十年という時間の隔たりは消滅し、まさに今現在のこととしてフラッシュバックする。だからこそ、彼女は複数の時を同時に生きる。そして、過去の大きな悲しみを、さらには一瞬一瞬に感じ続けた小さな喜びを、再び味わう。
母親の個人的な人生と、第二次世界大戦中の日系人の迫害という大きな歴史が、彼女の記憶の中で交錯する。それは単なる日常の記述とも、あるいは日系人という大きなコミュニティの記憶ともつかない、複雑なテクストとなった。こうした自伝的な作品を書いたジュリー・オオツカとは、どのような人物なのか。彼女の祖母は1900年に鹿児島で生まれた。祖母の父親は牧師で、伝道のために彼女を連れてアメリカ西海岸に渡る。当時、アメリカ西海岸の日系人たちに伝道するために海を渡った牧師は何人もいた。そのまま祖母は、アメリカで知り合った15歳年上の男性と結婚する。そして1931年に生まれたのがオオツカの母である。その後、彼女の弟も生まれた。
第二次世界大戦が始まると、家族は不幸に襲われる。敵性外国人の中でも有力者とみなされたオオツカの祖父はFBIに連れ去られ、その後何年も家族と引き離される。残された妻と子ども2人も家を追い立てられ、トランク一つで、列車でユタ州の強制収容所に送られてしまう。3人がカリフォルニアの家に戻り、遅れて祖父が家族と再会したのは、それから3年以上が経ってからのことだった。
ジュリー・オオツカ自身が生まれたのは、1962年、カリフォルニア州のパロ・アルトである。その後、画家を目指しイェール大学で学ぶも、やがて深刻なスランプに陥り、彼女はまったく絵が描けなくなってしまう。代わりに彼女が見出したのが、絵筆の代わりに言葉で物語を書くことだった。コロンビア大学の大学院で創作を学び、日系人としての家族の体験を短編にまとめる。そしてそれを長編の形にしたのが、彼女のデビュー作である『あのころ、天皇は神だった』(フィルムアート社)だ。
本書でもオオツカの母親の人生が丁寧に描かれている。ただし短篇である“Diem Perdidi”とは大きな違いがある。大塚の祖父がFBIに連行され、家族が強制収容所に送られた後、カリフォルニアの家に戻ってしばらく経つまで、という人生の一時期が切り取られ、180ページにわたって詳細に語られているのだ。時系列に沿って展開されているこの長編は“Diem Perdidi”よりも、ある意味で理解しやすい。だが様々なイメージの連鎖によって、読者の心に深く訴えかけてくる独特の魅力を持っている。
たとえば動物のイメージだ。家族は収容所に行く前小鳥を飼っている。すでに祖父は連れ去られてしまった。だが鳥は彼と同じ声で囁く。「「ここへおいで」と鳥は言った。「さあ、ここへおいで」女の夫の声とそっくりだった。目を閉じさえすればすぐさま、まるで夫がここでいっしょにいるように思えることだろう」(24ページ)。そうオオツカの祖母にあたる女性は思う。もちろん今、彼はどこかの部屋に閉じ込められている。だが彼女は、彼と同じ声でしゃべる小鳥を籠から出し、窓を開け、拘束から解き放つ。窓枠にとまった鳥は外からコツコツと窓ガラスをつつく。けれども妻は部屋へは入れない。代わりに、鳥が飛び去るまで忍耐強く待ち続ける。
あるいは馬だ。カリフォルニア州からユタ州へ向かう列車の窓から、馬たちの群れが見える。真っ暗なネバダ州の夜の中を、馬たちは群れで疾走する。「空は月明かりに照らされ、馬の黒々した体は月光のなかを流れ、向きを変え、どこへ行こうとその後ろには群れが通過したしるしである埃の雲が盛大に舞い上がった。女の子はブラインド上げると、弟を窓に引き寄せて顔をそっとガラスに押し当ててやった。脚の長いムスタングがたてがみをなびかせ、滑らかな茶色い体で走る様を見ると、弟は低いうめき声をもらした」(56ページ)。スペイン人がアメリカ大陸へ連れてきた馬たちは野生化し、やがてムスタングと呼ばれるようになった。月明かりの中、砂漠の大地を駆け回る馬たちは自由だ。そして、走る列車の中にいる親子は決定的に閉じ込められてしまっている。
もちろん自由でない動物たちも登場する。カリフォルニアの家で家族同然にかわいがられ、年老いて耳もほとんど聞こえなくなった犬のシロだ。母親は彼を収容所に連れて行くことはできない。アメリカ政府によってペットの同伴を禁じられてしまったからだ。仕方なく彼女は、子供が見ていない隙を狙ってシャベルで殴り、シロの命を奪う。そして庭に穴を掘り、シロを丁寧に埋葬する。母親の苦しみは描写されない。ただ彼女は淡々と作業をこなすだけだ。だがそれゆえにこそ、心の底で押し殺された彼女の悲しみが読者にも伝わってくる。
あるいは、収容所で男の子が飼っている小さな亀だ。友達のいない彼にとって、亀は唯一の親友である。バラックの窓際に砂の入った木箱を置き、その中で彼は亀を飼う。それだけではない。家族全員に与えられたのと同じ識別番号を、彼は母親の爪やすりを使って、亀の甲羅に彫り込む。まるで亀の体に施された刺青のように。しかし男の子は、日々の生活に追われるうちに、亀に餌をやるのを忘れてしまう。中からガサガサという音が聞こえなくなって慌てて箱を開けると、亀はすでに死んでいる。
もちろん囚われているのは動物たちだけではない。この収容所に集められた日系人たち自身も囚われの身となっている。収容所は鉄条網で囲まれ、彼らが逃げ出さないかどうか常に監視されている。だからこそ、鉄条網に近づくだけで命の危険にさらされることになる。たとえば、鉄条網のすぐ外に咲いていた花を摘もうとして手を伸ばした男は、逃亡を企てたとみなされ、監視員に射殺される。そして、たとえ監視の目を潜り抜け鉄条網の外に出たとしても、逃げおおせることは決してできない。ある日姿を消した男は、凍死した姿で発見される。人里離れた場所にある収容所からは、いくら歩いても人が住んでいる場所までたどり着けない。そして、昼間はものすごく暑い砂漠は夜間、命を奪うほど気温が低下する。
もちろん、この収容所から出て行く方法はないわけではない。監視付きの農業労働者として、他の州に派遣される者たちもいる。けれども行った先では、鉄条網の代わりに激しい差別の目に囲まれることになる。やがて収容所に戻ってきた彼らは口々に、ここにいるほうがよほど楽だ、と語る。あるいは、日系人の部隊が組織されるようになると、若い男たちは続々と志願する。しかし、イタリア戦線に送られた彼らは、ドイツ軍とアメリカ軍に挟まれた最前線に投入され、その多くが死を迎える。それでも日系人がアメリカに忠誠を誓う存在であることを示すために、彼らは自らの血を流し続ける。
閉じ込められているということは、彼らがある意味で外部世界から守られていると言えるかもしれない。少なくとも、アメリカ政府はそう考えていた。「保護するためにここへ連れてこられたのだと、当局からは聞かされていた」(86ページ)。だが、彼らは実際には、思うほど守られてはいない。収容所まで乗ってきた列車の窓は、街を通るたびにブラインドが下ろされる。日系人が乗っているとわかれば、町の人々が何をするかわからないからだ。それでも夜眠っているあいだに窓からレンガを投げ込まれる。
さらに収容所内では、窓やドアをきっちりと閉めていても、バラックの壁の隙間やドアの下から、細かい埃がどんどんと入り込んでくる。それは、かつての湖が干上がった後にできた白いアルカリ性の埃だ。「柔らかくて白くてチョークのよう、タルカム・パウダーに似ていた。ただし、アルカリのおかげで肌がひりひりする。鼻血が出る。目にしみる。声が出なくなる。埃は靴に入り込んだ。髪にも。ズボンにも。口にも。ベッドにも」(78ページ)。その埃は昼夜を問わず侵入し、いくら箒で掃除しても取り切ることはできない。
外のものが勝手に侵入してくるのは、カリフォルニアに残してきた家も同じだ。戦争が終わり、3年5ヶ月ぶりにようやく母と子ども2人は家に戻る。鍵を回してドアを開け中に入ると、知らない人たちの匂いが充満している。家具などの調度品は壊され、どこかに持ち去られて跡形もない。ゴミが積み重なり、壁も床も汚れている。窓を開けて空気を入れ換えても、誰かがいた気配は残る。実はこの家を離れるとき、ある人に頼んで他人に貸し出す手筈を整えていた。だが、その間の賃料は、なぜか家族には支払われない。そもそも家族がいないあいだに何人の人が住んでいたのかもわからない。
家に戻っても家族の苦境は続く。収容所を出るとき、政府から母親に25ドルが渡された。これは、刑務所から釈放された犯罪者に渡されるのと同じ額だ。すなわち、彼らは日系人であるだけで、政府から、はっきりと犯罪者扱いされている。更に、これは前触れでしかない。以前の生活にすんなりと戻ることができないのだ。親しく交流していた近所の人たちも、今ではよそよそしい。子どもたちも、学校の友達を気安く家に呼ばなくなった。さまざまな場所でうっすらと、だが確実に避けられる。この状態がいつ終わるのかわからない。
自分が自分であることそのもので罰せられる。そして子どもたちは思う。「あなたの顔を見ちゃってすみません、ここに座ってすみません、戻ってきてすみません」(152ページ)。鏡で自分の髪の色や肌の色、顔形を見ても、嫌悪感しか抱けない。なぜならそこには、憎むべき敵の顔が写っているからだ。他人の視線は容赦なく自分の顔や体を通して内側にまで入り込み、心の中を蹂躙する。ならば、自分が日系人であることそのものを徹底して否定するしかないのではないか。名前も服装もすべてを白人に合わせたい。文化も過去もすべて捨て去りたい。だが、自分たち自身を否定し消去したところで、周囲のアメリカ人と同じ存在になれるわけではない。
そもそも母親は、収容所に送られる前に、日本を連想させるものをすべて破壊していた。鹿児島から来た手紙を燃やし、写真や着物、レコード、旗など、すべてを焼き払った。こうしたものがあるせいで、いつアメリカへの忠誠心を疑われるか分からないからだ。FBIがどこにでも入り込んでくる以上、家の中に何かを隠せる場所はない。いや、ただ一つある。地下だ。母親は庭の仏像の下に穴を掘り、銀器を埋める。そういえば、愛犬のシロも庭に埋めたのではないか。だが、生き物を地中に埋めるのは、それが死んだときだけだ。すなわち当時のアメリカでは、死んだ日系人しか自分自身ではいられなかった、ということになる。
その後、日系人たちはどうなったか。差別的なアメリカ社会に抗議することもなく、黙々と働きながら、子どもたちに高い教育を施し、長い年月をかけて徐々に社会的階層を上がっていった。1960年代の黒人たちによる公民権運動は、アジア系の権利向上運動や、自分たちの文化に誇りを取り戻す動きとも連動した。けれども、アメリカ政府が過ちを認めて謝罪し、日系人たちに金銭的な補償を行うには、1988年まで待たなければならなかった。
40年以上の時間が経ってしまった以上、世代も変わり、強制収容の経験をした人々の記憶も薄れていく。そして、時間がたつほどに一人、また一人と直接の体験者は亡くなってしまう。実際に強制収容を経験したわけではない世代に記憶を引き継ぐにはどうしたらいいのか。あるいは、アメリカ人や日本人を含めた日系人以外の人々に、こうした経験を語り継ぐにはどうしたらいいのか。ジュリー・オオツカは、記憶を巡る小説という形で、次第に記憶が薄らぎ消えていくという時間の流れにどう抵抗すればいいのか、という方法を模索している。
そこで常に愛情が問題となるのは示唆的だ。かつて愛や優しさをくれた人々が時間の経過とともに遠ざかり、やがて失われても、彼らの存在は我々の中に常に回帰し続ける。こうした、感情を伴った記憶の中でこそ、歴史的な経験もまた生き残れるのではないか。ジュリー・オオツカの問いは重い。
参考文献
ジュリー・オオツカ『あのころ、天皇は神だった』小竹由美子訳、フィルムアート社、2018年
ジュリー・オオツカ『スイマーズ』小竹由美子訳、新潮社、2024年
分断と衝突を繰り返すアメリカ。今や国民の多くが「数年以内に内戦が起こる」との恐怖を抱いている。そうした時代の変化に伴い、民主主義と国民国家の在りかたに向き合ってきたアメリカ文学も、大きな分岐点を迎えている。 本連載ではアメリカ文学研究者・翻訳家の都甲幸治が、分断と衝突の時代において「アメリカ文学の新古典」になりうる作品と作家を紹介していく。
プロフィール
とこう こうじ
1969年、福岡県生まれ。翻訳家・アメリカ文学研究者、早稲田大学文学学術院教授。東京大学大学院総合文化研究科表象文化論専攻修士課程修了。翻訳家を経て、同大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻(北米)博士課程修了。著書に『教養としてのアメリカ短篇小説』(NHK出版)、『生き延びるための世界文学――21世紀の24冊』(新潮社)、『狂喜の読み屋』(共和国)、『「街小説」読みくらべ』(立東舎)、『世界文学の21世紀』(Pヴァイン)、『偽アメリカ文学の誕生』(水声社)など、訳書にチャールズ・ブコウスキー『勝手に生きろ!』(河出文庫)、『郵便局』(光文社古典新訳文庫)、ドン・デリーロ『ホワイト・ノイズ』(水声社、共訳)ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(新潮社、共訳)など、共著に『ノーベル文学賞のすべて』(立東舎)、『引き裂かれた世界の文学案内――境界から響く声たち』(大修館書店)など。