「武部さんは、私の世界観、その匂いや湿度まで理解してくれている」
集英社新書から武部聡志・著(門間雄介・取材/構成)『ユーミンの歌声はなぜ心を揺さぶるのか 語り継ぎたい最高の歌い手たち』を刊行された。日本で一番多くの歌い手と共演した音楽家による“究極のボーカル論”。発売後、即重版が決まるなど話題沸騰中だ。
出版記念として、武部聡志と松任谷由実の対談が実現。1970年代から音楽界を牽引している二人が、ライブの裏側や優れた歌い手などを語り合った。
ユーミンと武部聡志の出会い
――おふたりが出会ったのは、武部さんが初めて由実さんのライブに参加した1980年「BROWN’S HOTEL」ツアーの時ですね。どんなことを覚えていますか?
松任谷由実(以下、ユーミン) あの頃、武部さんは音大生でしたね。私たちはまだ70年代の空気をまとっていて、70年代と言ってもグラデーションがあるけれど、私がデビューした70年代前半や、結婚した76年頃とも違う、70年代後半の色があったんです。その70年代後半の色や空気を、武部さんとともに思い出します。ボートハウスを着て、モカシンを履いてという、そんな雰囲気だったね?
武部聡志(以下、武部) うん、あの頃は『POPEYE』とか、そういう雑誌が流行りはじめた頃だったから。
ユーミン そうそう、アイヴィー風な感じ。武部さんとはよくパフェを一緒に食べに行きましたね。
武部 よく覚えているのがロイヤルホストです。
ユーミン ロイホにCCブラウンサンデーというメニューがその頃あったんですよ。
武部 それを一緒に食べたのが、初めて会った日の夜でした(笑)。あの頃はよくユーミンやツアーメンバーと一緒に車で出かけて。
ユーミン 近郊ならメンバーの車で移動する、みたいな感じでしたね。武部さんの車にも乗ったし、山梨まで2時間くらいかけて行ったこともある。
武部 2、3時間圏内なら、誰かしらメンバーの車にユーミンも乗っかるんです。それで世田谷エリアには車をとめられるファミレスが何カ所かあったから、仕事帰りの深夜にそこへ寄って。
ユーミン なにか学生の頃の気分に戻りますね。私はもう学生じゃなかったし、武部さんもほどなく卒業しちゃうけれど、遅れてきた青春だったのかもしれない。東京の学生ノリのまま、私たちは東京の音楽をやっていた。
武部 そう。そもそも僕は、ユーミンや松任谷(正隆)さんのチームがやっていた音楽に憧れて、高校生の頃プロになりたいなと思ったんです。それがまさか、実際に出会い、こういうお付き合いを続けることになるとは思わなかった。おそらくキーワードは、その“東京の学生ノリ”だと思う。
ユーミン フォークとか歌謡曲とか、もちろん芸能界は別として、そういうものと我々は一線を画していたよね。
武部 そうかもしれない。あと僕らの共通項と言えばムッシュ(かまやつ)。
ユーミン 私もかまやつさんとは親しかったしね。
武部 僕がユーミンのバンドに加わったきっかけはムッシュでしたから。ムッシュのバックバンドを一緒にやっていたメンバーと一緒に、ユーミンのライブに参加したのが80年でした。
ユーミンのライブにある強い信念とは
――その後、83年から武部さんは由実さんのライブで音楽監督を務めるようになります。
ユーミン あれは「REINCARNATION」ツアーの時だった?
武部 そう、鮮明に覚えています。初日がユーミンも初めて日本武道館でやるという7月6日。ものすごく気合いが入っていたし――。
ユーミン 画期的だったよね。
武部 ユーミンも僕らも、スタッフに至るまで、みんなで歴史を作るんだという意気込みがあって。
ユーミン うん、誰もやっていないことをやったね。例えばバリライト(色彩や光量、光の方向を遠隔操作するシステム)がまだなかった頃に、“人間バリライト”というのをやったりとか。ひとつのスポットライトが……あの頃はどれくらいの大きさだったかな。
武部 小さいのじゃなくて、ピンだもんね。スタッフが何十人もうしろに付いて。
ユーミン 照明の人たちがまるでコンチェルトのように集まり、プランナーの指揮に合わせるかのようにして、ここではこの角度で光を当てるというリハーサルを何度もした。曲のテンポに合わせて、光を波打たせるとか。それをすべて人力でやるんです。それからちょっとして、フィル・コリンズが在籍したジェネシスのツアーで、初めてバリライトが使われてね。
武部 みんなのテンションが高かったし、達成感もすごくありました。その後、87年の「DIAMOND DUST」ツアーから松任谷さんが演出するようになると、やはりユーミンの音楽をいちばん理解しているわけだから、音楽の世界と演出の親和性がより高くなっていって、90年の「天国のドア」ツアー頃までは、毎回新しい機材を導入する実験のような場でした。つねに刺激的でしたね。
ユーミン 最初にまず苗場で試して、それをツアーに持っていく。ライティングのタイミングがコンマ数秒ずれても気持ち悪いから、それを全部打ち込みにしていったりとか。
武部 音楽とライトをシンクロさせるために、当時は僕が電飾のスタジオに行って、打ち込んだりもしましたよ。
ユーミン だから私たちは“ライト兄弟”なんです(笑)。そこからいろいろなレギュレーションが進化していったし、武部さんは音楽監督ではあるけれど、アートを作り上げる一員として、ミュージシャンたちを牽引してくれていたと思います。
武部 ポップミュージックとしてショーの完成度を高めていくという意味では、ユーミンが先駆者ですよね。今ではいろいろなアーティストがやっているけど、当時はコーラスが踊るなんてありえなかった時代だし。
ユーミン マドンナよりずっと早かったよね。インカムを付けて、一緒に踊ったのは。
武部 1988年の「Delight Slight Light KISS」ツアーの時には、上下するセンターのステージからユーミンが――。
ユーミン 落ちたんだよね。ステージがあると思って後ろに下がったら、あれ、ないなって。
武部 ゲネプロの時だったけど、それはもう驚いたこと。
ユーミン あの時、竹ひごみたいなワイヤーの入った、四角いスカートをはいていたんですね。それをはいていなかったら、背骨が折れて死んでいた。でもワイヤーがクッションになって、助かったんです。
武部 だから怪我ひとつなくて。
ユーミン ね? 何かに守られてますね。
武部 「REINCARNATION」ツアーで音楽監督を務めてから、もう四十数年でしょう? でも調子が悪くてステージを飛ばしたとか、中止したとかいうことが、ユーミンはいっさいないもんね。
ユーミン うん、ないね。捻挫していてもやってたから。
武部 天候の問題でできなかったことはあるけど、ユーミンの都合でショーがなくなったことは一度もない。それは本当にすごいことです。やはり並外れた集中力と気合いみたいなものを持ち合わせているからこそ、これまでいろいろなことを乗り越えてこられたんでしょうね。
ユーミン 山伏の火渡りみたいな(笑)。心頭滅却すれば、なにも熱くないっていう。だからできちゃう。
武部 なによりユーミンはショービズの神様に守られているんだと思う。
ユーミン ああ、そうかもね。
武部 やらなきゃいけない人として、神様からミッションを与えられてるんだと思いますよ。
プロフィール
武部聡志
1957年、東京都生まれ。作・編曲家、音楽プロデューサー。
1983年より松任谷由実コンサートツアーの音楽監督の他、一青窈、今井美樹、平井堅、JUJU 等のプロデュース、音楽番組『FNS歌謡祭』や『MUSIC FAIR』の音楽監督などを歴任。
松任谷由実
1954年、東京都生まれ。ユーミンが愛称。シンガー・ソングライター。72年「返事はいらない」でデビュー後、数多くのヒット曲を生み出す。2022年にデビュー50周年を迎え、『ユーミン万歳!~松任谷由実50周年記念ベストアルバム~』をリリース、全国アリーナツアー「The Journey」では54公演・57万人を動員した。