■ 勉強ができるようになった瞬間
僕は、勉強ができるようになった瞬間のことをはっきりと覚えている。
もう少し正確に言えば、ペーパーテストで自分の実力を発揮するために必要なマインドを掴んだときのことを、よく覚えている。それは、中学3年生の夏だった。
地元の公立中学校に通っていた僕は、「早稲田アカデミー」という学習塾で受験対策に励んでいた。「夏は受験の天王山」と言われるが、夏休みには早稲アカが開催する夏期合宿に参加することになった。三泊四日にわたり、長野の志賀高原で開催される。冬場はスキーリゾートとして多くの人が訪れる志賀高原だが、オフシーズンのため閑散とした夏場に全国の塾生が集まって合宿を行う。志望校・レベル別にホテルや部屋が振り分けられ、その場限りのクラスで一緒に学ぶことになる。
早稲田アカデミーの夏期合宿といえば、鉢巻きと掛け声だ。赤い文字で大きく「合格」と書かれた鉢巻きが全員に配られて、それを巻いたらやたらデカい声の出る先生が「絶対にぃぃぃ!!!合格ぅぅぅ!!!するぞぉーーーー!!!」と叫び、僕らも「絶対にぃ!合格ぅ!するぞぉー!」とリピートする。それを何度も繰り返す。スキーリゾートでの合宿という環境に、鉢巻きやシュプレヒコールというギミックが加わって、「僕たちは勉強するためにここにいるんだ」という非日常感が醸成されていく。
もちろん、こういった演出も勉強に集中するために大きな効果を発揮していたに違いない。ただ、いまはそういった演出は関係ない。僕が「勉強ができるようになった」と明確に感じたのは、二日目の朝に行われた数学の授業のときだった。
授業を担当していたのは、白髪混じりの長髪がオオカミのような雰囲気を醸し出していた、数学科講師の白濱裕司。とにかく迫力があって、「合宿っぽい先生だ!」と思ったのをよく覚えている。早朝の授業でまだ眠気を引きずっている生徒も多い中、彼はさっそくいくつかの問題がならんだ小テストを配る。しかも難しそうな問題が並んでいる。抜き打ちテストみたいで嫌だな、解けなかったら晒されたりするんだろうか、といったネガティブな妄想がはかどる。そんななか白濱先生が言ったのは、「自分はこの問題が絶対に解ける、と思って解いてみろ。解けるから」という言葉だった。
合宿の緊張感もあってか、いったんはその言葉を鵜呑みにしようと思って臨んだ小テスト。もちろん、わざわざ合宿の貴重な時間を使ってやるのだから簡単な問題を出すはずはない。見たことのないタイプの問題が並んでいて、頭を抱える。白濱先生は教室のなかを歩き回りながら、小テストを解く僕たちに檄を飛ばし続ける。僕はもういちど問題文をよく読み、自分はこれが解けるのだと念じた。そして、もしこれが自分に解けるのだとしたら、どうやって解けるのか……? と考えた。問題文に含まれる情報、自分が知っている公式や解法、自分がこれまでに築き上げてきたコーパス(知識の集積)の存在を意識すると、不思議なことに、問題を解くとっかかりが見えてくる。それで解けるのかは分からないが、とりあえずこれを試してみようか。そうやっていくうちに、最初は不気味に思えたいくつかの問題が解けた。
もちろんすべての問題が解けたわけではなかったが、難しそうに見えた問題を「ぐっと睨む」[1]とヒントが見えてくる。これはスピリチュアルな経験だった。「解けるはずだ」と思い込むことで解ける問題が増えるなんて騙されている気がしたが、現に解けるようになった気がするのだ。
これが、僕の「勉強ができるようになった瞬間」の記憶だ。志賀高原のスキーリゾートで迎えた合宿二日目の朝に、僕はテストを解くためのコツを掴んだ。それは、自分が解けるのだと信じること。言い換えれば、問題を解くための情報が問題文のなかで与えられているか、もしくは自分がすでに知っているのだと信じ込むことだ。
■ 有限化された問題空間に最適化する
僕は中三の志賀高原でペーパーテストのコツを掴んだ。そのときの感覚は、大学受験を終えるまでお守りとして機能してくれた。高校生になると、受験対策のなかで「出題者の意図を推測する」というメタ的な受験テクニックに触れるひとも多いのではないかと思うが、僕はこの二つ、つまり「自分は知っていると信じること」と「出題者の意図を推測すること」は実のところ同じ事態の表裏に過ぎないと考えている。
なぜならば、ペーパーテストという営みそのものが、出題者と解答者(受験者)の共犯関係によって成立するものだからだ。ペーパーテストでは、なんらかの基準によって解答者の能力を計測しなければならない。それが制度として公平に機能するためには、計測の基準が解答者にとっても透明であり、平等であるかは別として、それぞれの解答者がクリアするための研鑽を積むことができなければならない。このように、理念的には出題者と解答者のあいだであらかじめ示し合わされた基準にしたがってペーパーテストは実施される。
そこから導かれるのは、テスト的な空間を設える二つの前提だ。ひとつは、「出題される問題に正解があること」。そしてもうひとつは、「問題を解くための情報がすでに与えられていること」。解答者の能力を公平に計測するためには、そもそも正解のある問題を出題者が設定しなければならないし、その問題群に解答者がアクセスできるのでなくてはならない。だから、解答者の目の前に提出されているのは、未解決問題でも、いわゆる「正解のない問い」でもなく、答えがひとつに定まるかある基準で解答を評価することができる、正解のある問題のはずなのだ。
出題者と解答者の共犯的な関係がすでにあるからこそ、解答者はその関係を踏まえて「自分が知っている(と想定される)範囲から出題されているはずだ」と探索範囲を絞り込むことができる。このように「まったく知らないことが出題されている可能性」を排除することで、公式を思い出す効率を上げ、解けるとしたらこうなるはずだという逆算的な推測を働かせることができる。
哲学者の千葉雅也が『勉強の哲学』で論じていたことを踏まえるなら、あらかじめ決められた出題範囲を持つテストに臨むとき、受験者はなにが出題されてもお構いなしの無限大に広がる空間にいるのではなく、有限化された空間にいるのだということを認識するべきだ。つまり、テストを受けているあいだは「自己破壊」[2]としての勉強を徹底的に中断しなければならない。自分が知らない=原理的に解けない問題が出題されているなどと考えてはいけない。それは自己破壊に繫がり、試験時間のあいだには収拾がつかなくなってしまう。解けない可能性をあらかじめ排除して、「解けるとしたら」何を使うのか、解くためにこの場が設けられているのだから与えられた情報には無駄がないはずだ、と思考する。「リアル脱出ゲーム」の終盤に使っていない手掛かりから最後の答えを逆算していくように、決めつけてかかること。すなわち、信じることが必要なのだ。信仰によってパフォーマンスを底上げすることが可能なのは、それが、解答者の能力を計測しようという意図を持った出題者のいるペーパーテストだからだ。
もちろん、ペーパーテストでなにかを解答するためには、そのなにかをあらかじめ勉強しておく必要がある。しかし、ペーパーテストを受けている最中には、もはや勉強する余地などない。であれば、そこに自分が知らないこと=勉強する余地があるという可能性をいったん頭のなかから追放して、自分が知っていることの組み合わせで解けるはずだと決めつけることがペーパーテストに最適化されたマインドになる。僕たちはペーパーテストを通じて——千葉の言葉を借りれば——世界と自己を有限化する訓練を受けている。ところが、それは高いパフォーマンスを生む一方で、正解を用意してくれる出題者の存在を前提とし、世界をその限定的な空間に閉じ込める危うい作法でもあるのだ。
■ メタがベタになるとき、他者が消える
前回の連載のなかで、「知ることを軽視した人間にとって、世界は似ているもので溢れかえる」という話をした。ペーパーテストのなかで世界と自己に施す有限化とは、まさしく世界は自分の知っているパターンで説明し尽くせると考えることで、有限化が解除できないままになってしまえば世界は当然似たようなもので溢れかえることになる。世界が似たようなもので埋め尽くされるのであれば、そこで起こるどんな出来事に対しても僕たちは有限のパターンで対処することができる。それは真に効率がいい。
しかしながら、このような有限化された空間は出題者と解答者によって結ばれた共犯関係がなければ安定したものにはならない。僕らはいつまでも出題者からテストを受けさせてもらえるわけではないのだ。ペーパーテストの季節が終わってしまったら、僕たちは出題者のいない世界へと漕ぎ出すか、あるいは再び出題者がいる安定した世界を探し求めるかしなければならない。
後者の、いわば純粋に有限化された世界を楽しむ営みのひとつが「競技クイズ」かもしれない。趣味としての競技クイズは、出題者と解答者の互恵性によって成り立つ希有な空間のひとつだろう。クイズプレイヤーの徳久倫康は、大学生以下を対象とするクイズ大会のコンセプトに採用された「基本問題」という四文字が大会の主催者と参加者の意識を強く規定することによって、現代的な競技クイズのイメージが形成されていったと論じている[3]。このような趨勢には、出題者と解答者が共犯関係を取り結ぶことによって、公平に成績を競うための空間が立ち上がっていく様を見て取ることができる。クイズ大会においては出題者も解答者も「クイズに出そうな知識」のイメージを持っており、そのイメージを近づけていくことが良い成績を残すための戦略のひとつになる。
あらかじめ有限化された空間においては、自らも有限化していくことが最適な戦略となる。ところが、それはどのような空間でも最適な戦略であることを意味しない。というのも、本来あなたの生きる世界には、あなたのまったく想像だにしないスタイルを持った「他者」がいるからだ。このような意味で、解答者であるあなたと共犯関係にある出題者は他者ではない。有限化されたペーパーテストの空間から出てもなお、世界と自己を有限化して決めてかかる態度を取るならば、そこにはおのずと世界=他者とのあいだのギャップが生じてくる。
再び『勉強の哲学』を参照するなら、「自己破壊」としての勉強がストップし、有限化された状態を絶対的なものと見なすとき、ひとは「他の考えをもつ複数の他者がそもそも存在しなくなる」「狂信的」[4]な状態に陥ってしまう。だからこそ、いちど有限化されたものであってもそれは仮の状態に過ぎず、比較を継続して別の可能性を検討し続けていくことが、他者からの信頼に足る人間になっていくことだというのが、千葉の洞察だった。
本来はきわめて限定された状況で「出題者の意図を推測する」のに最適化したメタ戦略が、世界のあらゆる事象を読み解くためのベタな、つまりは生身の生き方となるとき、他者は消失し、陰謀論的な状況が立ち現れる。
■ きっと「正解」があるはずだ
なにか問題に行き当たったとき、「きっと正解があるはずだ」と決めつけるメタ戦略の内実は、その背後に出題者がいるのだと想定することに他ならない。ペーパーテストであればそれは先生や大学教授だし、作品の考察であれば作品や作者、公式が出題者のポジションにくるだろう。つまりメタ戦略とは、誰が、どういう意図でこの事態を引き起こしているのかという裏側を読み解こうとする姿勢のことを指している。「こんな生徒に入学して欲しい」というアドミッション・ポリシーがある大学や高校の入試においてこのメタ戦略はきわめて有効だ。フィクションの考察であれば、作品を一種の「答え合わせ」として複相的に楽しむ一助にもなるだろう。
しかし、入学試験や作品という限定された範囲を越えて、この社会の裏側にもすべてをコントロールしている出題者がいるはずだ、という想定を持ち込んでしまうとき、私たちは陰謀論の扉を叩くことになる。
陰謀論とは、たとえば鳥谷昌幸によるかんたんな定義を引けば「出来事の原因を誰かの陰謀であると不確かな根拠をもとに決めつける考え方」[5]のことだ。こんなことになっているのは○○の——たとえば秘密結社やディープステート、特定の民族やビッグテック企業の——せいだ、と決めつけているわけだが、そこには客観的に妥当と思われる根拠はない。しかし、当人にとってはこれ以上なく妥当なものと思われている。このような世界とのすれ違いが生じる原因として、鳥谷は二つのものを仮説として挙げている[6]。
ひとつは、私たちのなかにある「この世界をシンプルに理解したい」という欲望だ。この欲望は、私たちの科学的な探究をも長らく支えてきた。ガリレオ以来の、さまざまな現象が数式によって記述できるという信念は、世界をシンプルなかたちで理解したいという欲望と表裏一体であったはずだ。そして世界の法則が実際に美しい数式で記述できたとき、科学者たちはその裏にいる設計者の姿を幻視してきた。
陰謀論を生じさせるもうひとつの原因は、私たちが抱く「何か大事なものが「奪われる」」という感覚だ。奪われたと感じるものが何かは状況によって異なるが、鳥谷は代表的な例として人命を挙げている。「要人の暗殺やテロ、大規模な自然災害や産業事故、そして何より戦争のような多くの人命が失われる出来事が起きると必ずといっていいほど陰謀論が生まれてきます」[7]。他にも、宗教的な対立や経済的な格差によって自分たちの価値が否定されるような場面でも、陰謀論は発生しやすくなる。
なにかしらの解釈を試みなければ受け止めることができない問題や現象に直面したとき、そこに陰謀論が生まれやすくなる。しかし、そのような状況から生まれうるのは陰謀論だけではない。それは科学的な仮説であるかもしれないし、優れた社会批評かもしれない。だとすれば、それらと陰謀論の分岐点には、どんなポイントがあるのだろうか。
鳥谷が提示した二つの仮説をまとめれば、陰謀論とは「私が○○を奪われているのは、あいつがすべてを仕組んでいるからだ」という形式を持った信念ということになる。そのような陰謀論に目覚めたひとの目には、自分の意見と異なるものはすべて欺瞞に満ちたものと映る。そこでは世界と自分が有限化されていて、そこからこぼれ落ちるものはそもそも存在を認められない。自身が抱いている信念に反するものは、そもそも世界から排除されていく。そこに働く強い有限化の力が、科学的な仮説や批評と陰謀論を区別するのだと考えることができそうだ。
ところで、このような有限化の力は、どんなときに強く働いてしまうのだろうか。秦昌樹は、陰謀論的な言説を人々がどのように受容していくのかを論じるなかで、陰謀論はなにか特定の特徴を持ったひとだけが陥るものではなく、誰もがそこにはまり込む可能性があるのだと言う。しかも——これはとても残念なことに——政治的な関心が高かったり豊富な知識を持っていたりするひとのほうが陰謀論に陥りやすいという統計的な結果が出ている。知識があるからこそ、ひとは、その知識を正解として承認してくれる物語を求めてしまうのだ。
右派でも左派でも、特定の政党を支持する人でも、政治的洗練性の高い人でも、一定の政治的信念や「自分は政治に詳しい」という自己認識を持っているはずである。こうした信念や自己認識を持てば持つほど、自分の理解と同じ方向性の言説に飛びつきやすくなってしまうという性質を、我々はよく理解しておく必要がある。陰謀論が、自分の信念や認識の正しさを肯定してくれる「良き友人」となりうる点にこそ、大きな問題が潜んでいると言えるだろう。[8]
秦が指摘しているのは、陰謀論は知識の欠如ゆえに信じられるのではない、ということだ。むしろ、自分はよく知っているという自負が、その認識を肯定してくれる出題者を仮構してしまう。関心や知識があることは陰謀論の受容を妨げるどころか、むしろ陰謀論を吸い寄せていく。このような陰謀論受容のメカニズムからは、自分の勉強してきた知識を「正解」だと認めてくれる出題者の存在を欲する私たちの傾向が透けて見えてくるようだ。労力を払って獲得してきた知識、養ってきた認識だからこそ、それを「正解」だと言ってくれるものに飛びついてしまいたくなるのかもしれない。この連載のテーマと結びつけるなら、何かを知ることは、それを知るために努力した私たちに報いてくれるものがより魅力的に見えるように世界を変えてしまうのだ。
ここまで、「自分がそれについて知っているはずだと信じること」について論じてきた。それは、自己と世界に有限化を施すことで、効率のよいパフォーマンスを達成するメソッドにもなりうる。しかしそれは、あくまで出題者によって有限化された問題空間の内側での話に過ぎない。出題者がいなくなった後も、つまりは、あいまいさの溢れた社会生活に晒されているときでさえも自己の有限化をまったく解除することができなければ、自分がそれを所有していたはずの世界を喪失したと感じ、それを取り戻すために狂信的な振る舞いに身を堕としてしまうことになる。これは誰か特定の属性のひとたちの話ではなく、誰にでも起こる現象なのだ。 いつまでもテストを受けているような気持ちでいてはいけない。出題者がいて、丸つけと採点をしてくれるわけではない。そんな単純なことが、「正解」を出すことに囚われてしまうと見えなくなるのだ。正解があれば、出題者がいれば、世界と自分を有限化させてシンプルになれるのに—。
世界のあいまいさと複雑さに疲れたとき、出題者の決めた正解に向けて自己を有限化していくことをむしろ推奨するクイズや謎解きが魅力的な娯楽に映るのかもしれない。ときにそうした娯楽に興じながらも、あえて「正解のない場所」に踏みとどまるための力を、私たちはいかにして持つことができるのだろうか。
■ 不知と無知に向かって
知ることは、脳のなかにある容量のデータが流し込まれるということではない。知ることは、引力を持つということだ。その引力は、自分と似たようなものを周囲に引き寄せて小さな世界をかたちづくる。その引力のなすがままになっている限り、私たちは「正解のある世界」から抜け出すことはできない。小さな世界に自己を有限化することで、私たちは世界を掌握したような気分になることができるかもしれない。しかし、世界には他者がいる。小さな世界の膜をぶち破り、勉強という自己破壊の連鎖へと私たちを連れ出す他者だ。
私たちはどうやら、知ることのなかに見出される他者性についても考えなければならないようだ。知っていること、そして、知っていると信じることの対極にあるもの。それは、知らないもの、そして、知らないと思うことだ。次回は、「知ること」について知るための視角をさらに広げていくために、不知の自覚(ソクラテス)と無知についての学(アグノトロジー)について論じていこう。
(次回へつづく)
[1] 数学を得意とする人々のスラングで、細かい計算過程をスキップして直感的に次のステップや解法に到達するときの合い言葉として用いられる。
[2] 千葉雅也(二〇二〇)『勉強の哲学——来たるべきバカのために 増補版』、文藝春秋、一八。
[3] 徳久倫康(二〇二〇)「競技クイズとはなにか?」、『ユリイカ』第五二巻第八号、八五—九四。
[4] 千葉雅也(二〇二〇)『勉強の哲学——来たるべきバカのために 増補版』、文藝春秋、一四〇。
[5] 鳥谷昌幸(二〇二五)『となりの陰謀論』、講談社、二〇。
[6] 鳥谷昌幸(二〇二五)『となりの陰謀論』、講談社、七。
[7] 鳥谷昌幸(二〇二五)『となりの陰謀論』、講談社、七。
[8] 秦正樹(二〇二二)『陰謀論——民主主義を揺るがすメカニズム』、中央公論新社、二一七—二一八。

生成AIの登場によって、人類はより情報や知識にアクセスしやすくなった。それゆえ、「知識があるだけの人間は意味がない」「いっぱいものを知っていることより、創造的なアイデアを持っている人のほうがいい」といった言説も流通し始めている。人間にとって「知る」ことの意味とは何か。そして、現代の「知る」ことの困難とは何か。 哲学・批評・クイズ・ビジネスの領域で活動し続ける田村正資氏が、さまざまな分野を横断しながら、「知る」ことの過程をひもといていく。
プロフィール

たむら ただし 哲学者。1992年生まれ。東京都出身。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。専門は現象学とモーリス・メルロ゠ポンティ。著書に『問いが世界をつくりだす メルロ゠ポンティ 曖昧な世界の存在論』(青土社)、『独自性のつくり方』(クロスメディア・パブリッシング)など。


田村正資




内田 樹×青木 理


