「今月は何日休もうかナ」
旦那はそういって、暦を見る。
暦にはすでに日曜と月曜のところに、休みを意味するバッテンの印がついている。この店は週休二日が建前なのだが、それ以外にもちょくちょく休む。用事があれば無論のこと、旦那が飲みに行くといっては、やはり休む。盆や正月、ゴールデンウイークの連休などには、それこそバッテン印が目白押しに続く。
お客はこの暦を見てめいめい心づもりをするのだが、必ずしもアテにならない。突然の休みというものもある。おおむね月の半分くらいは休んでいると考えた方が良い。
せちがらいこの御時世に、じつに悠々たる商売であるが、悠々としているのは休みが多い点だけではない。
この店は大きな店で、もとは何々医院だったという一軒家の一階を全部使っている。出入口は正面と脇と二つあり、脇の入口の方には六、七人坐れるカウンター席と、二人掛けのテーブルが二つ。正面の側には、広い三和土にテーブルが六つほど並んでいて、さらに六畳ほどの座敷がある。
だから、目一杯客を入れれば四、五十人入れるはずだが、そんなに大勢の相手をしてはくたびれてしまうので、なるべく人数を増やさないのがモットーである。
五人連れとか七人連れとかがやって来ると、おかみさんが言う。
「うちは年寄り二人でやってるもんですからね、大勢さんはおことわりしてるのよ」
それでも、中には諦めない客がいた。七、八人が二波か三波に分かれて、少しずつ時間差をつけ、べつべつに――入口までべつの口から――店へ入って来て、
「アラ、偶然ね」
てな具合だ。
どうしても客が来すぎて困るので、旦那たちはしまいに三和土の椅子とテーブルを取っ払ってしまった。座敷のお膳と座蒲団も片づけた。ただ、広い三和土が好きな常連客のために、二人用のテーブルを一つだけ残しておいた。
「まったく、こんなに商売をやる気のない店があるかね」
おかみさんが言うと、旦那はこたえる――
「しようがねえ。うちは正常な飲み屋じゃねえんだ」
この店、「中ざと」の旦那は当時齢七十を越えていた。
「中ざと」は大関横丁の角からちょっと横道に入ったところで、地下鉄三ノ輪駅に近いけれども、住所は台東区根岸である。
家は二階建てで、家の前に高い楓の木と枇杷の木があり、植え込みの椿などがこんもりと取り囲んだ中に、古めかしい木の三角の笠でおおった赤提灯が下がっている。
聞くところによると、先代が煮込みの店から始めたそうだが、商売はおいおいに繁盛して、山珍海味の献立をととのえ、板前も置いて、二階まで使っていた。それが年中満員だったという。台東区の居酒屋のうちでも指折の有名店で、「酒場放浪記」を初め、テレビや雑誌の取材も幾度となく受けている。かつて野坂昭如や田中小実昌が通ったことでも知られ、野坂昭如は二階で原稿を書いたり、寝て行ったこともあるそうだ。
そんな店の旦那が、ある時病気で倒れ、以来めっきり身体が弱ってしまった。
入院中閉めていた店は、そのままやめることも考えたというが、やがて試験的に再開した。数えきれないほどあった料理の数もほんのわずかに減らし、営業時間も短くして、長年の常連客を相手に細々と店を開いたのである。いわばリハビリのためにやっている酒場で、再開してまもない頃はガランとして、客も少なかった。だが、そのうち旦那の体調もやや回復し、料理も以前ほどではないが、だんだんに増えて来た。チクワブの入っている名代の煮込みを初め、安くて美味しい料理に惹かれて、若い客もゾロゾロと訪れた。
わたしがここに通いはじめたのは、ちょうどそんな頃だった。
以前ほどではないといっても、「中ざと」の献立は充実していた。
泥鰌鍋、煮込み、豚バラ豆腐、焼きハムといった、いかにも居酒屋風の食べ物も豊富だったが、毎朝河岸へ行って魚を仕入れて来るので、ちょっと良い魚料理も食べられた。
鮪や〆鯖、コハダはもちろん、季節によってサヨリ、メジナ、タカベ、皮剝ぎの肝和えなどもある。鱧もあった――湯引きと天麩羅である。それに子持ち鰈や赤むつや金目鯛といった煮魚。鯉の洗いに鯉のあら汁。冬場は河豚鍋、鮟鱇鍋――
旦那は珍しい物が好きだった。
わたしが書いた中華料理の本を進呈したら、調理場で愛読して、
「駱駝のコブってえのを一度食ってみたいな」
と言っていた。
そんな人だから、河岸で目新しい魚や貝を見つけると、ためしに少しだけ買って来る。エイだの、マンボウだの、八角だの――それに、わたしは小樽の魚屋で見て、一度食べたいと思っていたゴッコ*の汁に、ここで初めてありついた。
銀髪のハンサムな旦那は、広い調理場の中に静かに坐って、ひまな時は羊羹を食べたりしている。
注文を受けると、「ほいさ」と立ち上がって、たくさんの注文があってもけしてあせらず、悠揚迫らぬ様子でおっとりと動きまわる。それでも、料理はすぐに出て来るのだから、長年の経験というのか、よほど段取りが良かったにちがいない。
旦那のつくる天麩羅は名人級で、海老、イカ、穴子はもとより、ギンポ、河豚、八角、白子、牡蠣、落鮎なども天麩羅にした。
忘れ難いのは笋と木の芽の天麩羅だ。しんなりした衣につつまれている若竹のみずみずしさ。山椒の香り。
スミイカのゲソのかき揚げも、安いうえに何とも言えず美味かった。
小ハゼの天麩羅は東京湾の魚で、釣って来た当日に運良く行きあたると、まだ冷凍していないから身が柔らかく、ホロリとトロリの中間のような舌触りである。
これは常連のSさんが釣って来るのだった。
色が黒くて、おでこで、団子鼻で、下町の職人を絵に描いたような風貌のSさんは、年季の入った釣師だった。年老ってからはあまり船に乗らなくなったが、よく川でハゼや川海老を釣ったり、三番瀬へ貝掘りに行ったりした。おかげで、わたしなどもマテ貝やホンビノスが食べられた。
「中ざと」の旦那も釣好きだったが、昔は鉄砲も撃ったから、手ずからしとめた猪や熊を出したこともあったそうだ。
わたしはこういういろいろな物をつまみに酎ハイや特製の柚酒を飲み、ほろ酔いで店を出ると、大関横丁から東の空にかかっているお月様をながめたものだ。
しかし、この得難い店も、もうなくなってしまった。
東京は年々住みにくくなる。
「中ざと」へ行くと、わたしはたいてい調理場の前のカウンター席に坐った。坐る位置も大体決まっていて、カウンターの真ん中辺だ。そこは煮込みの鍋の近くで、目の前にいつも生きた泥鰌の入っているガラス壜が置いてあった。
泥鰌のことを「舞子」というのも、生きているやつを見ると、納得がゆく。空気を吸いに時々水面へ出ては、またおりてくる時の動きは優美なものだ。
たいていはおとなしく、壜の底にネロネロと重なり合っているが、何かきっかけがあって動き出すと、それは激しい大騒ぎになる。躍り上がって壜から飛び出すこともある。
泥鰌が死んだふりをすることもわかった。腹を上にして、いかにも成仏したようにプカプカ漂っているのが、まわりが動き始めると、とたんに生き返るのだ。
グラスを片手に、そんな連中の様子を観察していると、向こう側に坐っていた旦那がポツリと言った。
「最近、あすこへ行きましたか?」
「いや、ここんとこ行ってません」
とわたしはこたえた。
「あすこ」というのは、田原町の駅のそばにある「K――」という小料理屋のことだ。
ある晩、そこでわたしが酒を飲んでいると、
「とんだところで会うなア!」
と声がかかった。
見ると、向こうの席に「中ざと」の旦那が背広をきちんと着込んで、坐っている。
「あっ!」
といったわたしに向かって、
「しーっ!」
と指を立てた。
おかみさんには内緒だよ、という意味なのだとわたしは解した。きっと、このあと可愛い女の子がいる店へ行くにちがいないから。
しかし、それは勘違いで、自分がどこの誰かを言わないでくれという意味だったらしい。
「あすこじゃ、まだ正体を知られてねえんだ」
と旦那は楽しそうに言った。
「田端あたりから来る社長さんだと思ってるらしい」
わたしはうっかり「K――」の人に、「中ざと」の御主人だと言ってしまったのだが、店の人は知らないふりをしてくれたことが、これでわかった。
「このあいだ、あすこへ行ったらね」
と旦那は言葉をつづける。
「両隣の客が魚を釣って来たっていって、こっちにも分けてくれた。浅草もまだ捨てたもんじゃない」
小食の旦那は店の料理が食べられなくなってしまったが、つまみ代が浮いたといって喜ぶ人でないから、両隣に酒のボトルでお返しをした、と後日「K――」の主人は語る。
「ああいう粋な旦那がいるから、浅草も捨てたものじゃありませんね」
こちらはこちらで、そう言っていた。
*ゴッコはホテイウオのことで、河豚のように腹がふくらんだ魚だ。北海道では、よく鍋などにする。
(第8回 了)
今はない酒場、幻の居酒屋……。酒飲みにとって、かつて訪ねた店の面影はいつまでも消えることなく脳裏に刻まれている。思えばここ四半世紀、味のある居酒屋は次々に姿を消してしまった。在りし日の酒場に思いを馳せながら綴る、南條流「酒飲みの履歴書」。