「疎外感」の精神病理 第11回

シゾフレ人間と疎外感

和田秀樹

周囲が心の世界の主役のシゾフレ人間

 私が留学から帰ってきてすぐに出した精神医学的な日本人論の本があります。

 1994年に書いた『シゾフレ日本人―若者たちを蝕む“自分がない”症候群』という本です。

 私は91年から94年まで精神分析を学びに留学したのですが、この本については、研修医の頃から構想を練っていたものです。

 その後、受験勉強法の本が売れたので、これだけ儲けさせたのだからと出版を申し込んだのですが、「受験では名が売れていても精神科医としてはまだ研修医レベルなのだから出せない」と出版社に言われ、東大助手として留学して帰国したら、ということで出した本です。

 古典的な精神医学では、神経症は正常と精神病の間にあると考えられ、そして世界中で本当の意味の精神病は3つしかないと考えられていました。

 統合失調症(昔は精神分裂病と呼ばれていました)と躁うつ病とてんかんです。現在では、てんかんは精神の病気でなく神経の病気であり、躁うつ病はうつ病と同じ病気でなく、統合失調症とうつ病の間にある心の病と考えられていますが、いずれにせよ、統合失調症とうつ病は2大精神病と言えるものです。

 人間が本格的に心の病になるときに統合失調症とうつ病にいきつくなら、正常な人でも心の世界が、統合失調症的であるかうつ病的であるかのどちらかに分けられるはずだと私は考えました。そして正常範囲で統合失調症的要素の強い人をシゾフレ人間(統合失調症=schizophreniaより)、うつ病的要素の強い人間をメランコ人間(うつ病=melancholyより)と呼ぶことにしました。

 簡単にその特徴を並べてみましょう。

 まず第一の観点は、「心の世界の主役が誰か」というディメンジョンです。

 これは、私が研修医の頃に、一番影響を受けた森山公夫先生の考え方に基づくものです。それを本にしたかったのですが、留学帰りまで叶いませんでした。ですが、今でも、この考え方は本質的に変わっていません。

 統合失調症的な心の世界では、自分より周囲の世界が心の主役になります。統合失調症患者の妄想では、誰かが自分の命を狙っているとか、自分の悪口をいっているとか、主体が周囲全体だったり、周囲の誰かや周囲のある組織になるのです。

 一方うつ病患者は、自分のことで心が囚われています。古くはドイツの有名な精神病理学者シュナイダーがうつ病の三大妄想というものを想定しています。一つは心気妄想といって、癌ノイローゼのように自分が実は重病なのではないかというように自分の体のことばかりを気にする妄想です。二つ目は貧困妄想といって、自分が実態以上に貧乏だと考えたり、貧乏になるのではと気を病んだりするものです。三つ目は、罪業妄想といって、自分がこれまでに悪いことをしてきたとか、自分が実は人に迷惑をかけているのではないかと悩んだり苦しんだりする状態です。

 つまり周囲の世界にまつわる不安で心がいっぱいになる(「地獄とは他人だ」という世界)なのが、統合失調症の心の世界であり、自分にまつわる不安で心がいっぱいになる(「地獄とは自分だ」という世界)なのが、うつ病の心の世界といえます。

 こういうものは、病的なレベルの分裂病者やうつ病にかかってしまった人での話ですが、メランコ人間は、自分が頑張って、駄目なら自分が悪いと落ち込むことで鬱になります。一方、正常レベルの統合失調症型人間であるシゾフレ人間は、自分がどう思うかよりみんなにどう思われるかのほうを気にします。自分より周囲が気になるので、自分だけ頑張って目立つより、みんなと同じでいるほうが安心なのです。

 このシゾフレ人間の「みんなと同じでいたい」心性は、大ヒット商品や作品を生み出す土壌にもなります。

 冒頭で触れたとおり、私は90年代の初めにシゾフレ日本人論を考えたのですが、その前の10年間では、たとえば音楽の世界では、80年代の10年間には、100万枚を超えたミリオンセラー曲は12曲(うち4曲は「奥飛騨慕情」のような何年もかかって売れた演歌です)しかなかったのに、90年代になると、年に20曲くらいが、このような巨大ヒットになっていました。その後、配信などのためにCDが売れなくなりましたが、さまざまな巨大ヒットが生まれたのは確かなことです。

 現在では、90年代のメガヒットを生んだ年代の人が50代になろうとしています。

 そして、「みんなと同じ」でいたい心理のシゾフレ人間が世の中の主流でいるところにコロナ禍が押し寄せました。

 諸外国では、マスク派と反マスク派の対立が生まれ、選挙にまで影響しましたが、日本では、たとえば前の選挙で、コロナ自粛をやめようという政党はNHK党くらいでした。

 この3月にマスクをするかしないかを自由にするということになりましたが、私の読みでは、「みんな」がしている限り、マスクをやめない人が多いだろうし、「みんな」がやめたら、マスクブームは終わるとみています。

対極的なシゾフレ人間とメランコ人間

 対人関係パターンも統合失調症とうつ病のタイプは違います。統合失調症では他人との情的な交流を避け、自分の幻覚や妄想の世界に引きこもるのが特徴ですが、うつ病になりやすい人は特定他者と深い情的な付き合いを望むものの、その人と別れることになるとがっくり落ち込んで鬱になってしまうのが基本パターンです。

 さて統合失調症型の対人関係というと、かつてクレッチマーという精神病理学者の提唱した分裂気質(シゾイド)の特徴である「冷淡・神経質・理知的・非社交的」を思い浮かべる方もいるかもしれません。

 しかし現代型の分裂気質は、むしろ表面上は他者との同調がうまいが、情的に深い接触を避けるというものなのだという想定が、精神分析学者などからなされています。人との深い情的な関わり合いを避けて自分の世界に引きこもりたい場合には、冷淡で非同調的な態度をとって人とあつれきを生じたり、変わり者と見られたりするより、むしろ適当に人と合わせていたほうがはるかに適応的だと考えられるからです。

 その代表的なものが、日本を代表する精神分析学者だった小此木啓吾氏によるものです。彼は、現代人の病理をシゾイドに結びつけて論じ、1980年に『シゾイド人間 内なる母子関係をさぐる』という本を著しています。その中で、現代型のシゾイドは、孤立したり引きこもったりせず、むしろ表面的には相手に調子を合わせたり社交的にとりつくろうが、それは決して本当の意味での情緒的関わり合いではないこと、つまり「同調型ひきこもり」を、その本質的な特色であると指摘したのです。現代人の病理が統合失調症的であるという文脈で論じた、この小此木氏のシゾイド人間論は、これまで類を見ない画期的な日本人論といえるものです。

 現代の若者たちの広く浅く、また自分の世界に引きこもりがちな対人関係パターンは私の考えるシゾフレ人間そのものと言えます。彼らは不特定多数の出席するパーティなどを好みますが、特定の他者と飲み明かす二次会、三次会は好まなくなったというのが、私が『シゾフレ日本人』を書いたころの観察でした。そして、コロナ以前から問題になっていたことですが、若い人たちが飲み会を喜ばす、家に直帰することが問題になっています。ゲームやYouTubeなどを楽しむのでしょうが、引きこもり傾向が強まっているのは確かでしょう。

 これに対して、正常範囲のうつ病型人間であるメランコ人間は、不特定多数との広く浅い交流より、特定の人との深い人間関係を求めます。パーティより二次会で本音丸出しで飲み明かすというのが基本パターンです。

 若い人たちが親友をもてなくなったという話はよく聞くわけですが、メランコ人間は、むしろ親友との密な人間関係が自分を支え、悩みを打ち明けてくれないと「水くさい」といいます。親分子分の濃い人間関係も大好きです。

 ただ、そういう大事な人間関係を失うことが、「対象喪失」といって鬱の原因にもなります。

 次に、シゾフレ人間とメランコ人間の対比点は「主体性、アイデンティティ」です。

 統合失調症の患者さんは、これまで自分が身につけてきた教養や道徳や価値観よりも、幻聴から聞こえてくる命令や新たに信じ込んだ妄想のほうが正しいものと考えます。させられ体験といって、自分の意志より幻聴の命令に従ってしまうことさえあります。それに比べて、うつ病になりやすい性格の人たち(メランコリー親和性格と呼ばれます)は、自分で作った自分に対する秩序でがんじがらめになってしまいます。

  正常範囲のシゾフレ人間は、日本語でいうところの「自分がない」という状態に相当すると考えていいでしょう。テレビやマスコミや周囲の意見に簡単に染まってしまい、自分の意見や趣向をもちません。テレビが怖いと言えば、それを恐怖に感じ、テレビが悪と決めつければ悪になります。今だとSNSがその役割を担っているのかもしれません。

 このように、主体性やアイデンティティ意識がないのも、シゾフレ人間の特色です。「自分」がないだけに、命令には素直に従うが、自分からは何もしようとしないという問題もあります。かつては、アイデンティティを持つまでに時間がかかる人間は「モラトリアム人間」と呼ばれましたが、シゾフレ人間の場合は、もしかしたら一生それを持たずに終わるのかもしれません。

 一方のメランコ人間のほうは、親から植え付けられた道徳感や自分が育ってきた環境の中で自分に植え込んだ価値観に縛られてしまいます。そのため、メランコ人間はアイデンティ意識が強すぎる傾向にも通じます。メランコ人間にとって、アイデンティティの不在は非常に不快なものなのでしょう。メランコ人間である故に、多くの日本の旧世代人間たちは「会社人間」であることに安堵を覚えたのでしょう。ただ、自分がありすぎるため、ともすれば周囲に対してフレキシブルになれないし、アイデンティティ意識が強すぎるために、リストラを食った途端に自分を見失うということは、メランコ人間の今日的な弱点と言えるかもしれません。

 3つ目の対比点は、「時系列の連続性の感覚」です。

 たとえば、統合失調症に罹患すると高学歴のインテリが非現実的な妄想を信じるのも、それが「今」現在の妄想である限り、今まで学んできたことよりも信じられるからです。たとえば、「太陽が地球の周りを回っている」という幻聴が聞こえると、これまでの自分の教育や信念を捨ててもそれを信じてしまいます。そしてその翌日に「実は木星の周りを回っている」という幻聴が聞こえるのなら、それを信じてしまう。つまり分裂病者にとっては、今がすべてなのです。あるいは、将来に極端な期待をしたり、極端に恐れたりすることもあります。この場合も、過去とのつながりがきわめて希薄です。

 それに対して、うつ病の基本病理は罪悪感とされるように、過去の自分の言動について必要以上に思いつめ、悔恨するのがうつ病者のパターンです。

  同様に正常レベルのメランコ人間は、過去との一貫性を気にし、過去を思いつめます。このタイプの人は時間の連続性の観念が強いために、過去の失敗などをいつまでもクヨクヨと気にするのです。また、自分の言動が過去のものと一貫していないと気になってしかたがないのも彼らの心理の特徴です。

 一方、シゾフレ人間にとっては「今」がすべてです。過去の自分と一貫しなくても、現在の周囲と調和がとれているほうが、彼らにとってははるかに意味のあることなのです。昨日言ったことと今日言ったことが違っても、周囲の雰囲気に合っていれば、それをくよくよ悩むことはありません。かつて正義の味方と信じていた人も、周囲の人が悪いと叩くようになったら、簡単に悪人と思ってしまうのです。もちろん、メランコ人間にとっては、こういう人はちゃらんぽらんに見えてしょうがないでしょう。

なぜ日本人がシゾフレ人間化したか

 私がかつて主宰していた研究所でのフィールド調査では、このシゾフレ人間は1965年生まれ以降に多く、メランコ人間は1955年以前に生まれの人に多いようです。

 1960年生まれの私はその中間で、周囲にはシゾフレ人間もメランコ人間もいました。

 なぜ、このような形で日本人がシゾフレ人間化したのでしょうか?

 私の見るところ、周囲の社会の影響と、それに気づかなかった教育のミスマッチがあると見ています。

 敗戦後の日本は、焼け野原から立ち直らないといけなかったし、とても貧しい国でした。

 みんなと合わせていては食べていけず、競争に勝たないといけない。子どもも大人も自分が頑張って、自分が豊かになるという使命感がありました。

 確かに今は厳しい競争社会ですが、負けても飢えることがない(実際はそうでもありません)し、貧しくてもファストフードで食べていけるし、ファストファッションで見栄えも悪くありません。

 当時は、負けると生きていけないと思われていたのでしょう。自分がしっかりしなければという自分意識が強かったのです。

 さらに言うと、戦争に負けて生まれながらの富裕層が崩壊したことで、運命より自分の努力を信じられたということがあるでしょう。かくして、戦後すぐに生まれた団塊世代の人たちなどは、空前の受験競争を体験することになります。親も教師もそれを肯定したし、学校教育では競争が当たり前でした。

 これが自分にこだわり、競争の好きなメランコ人間を生む背景になったのでしょう。

 彼らの頑張りによって日本は豊かな社会になりました。

 人に勝たなくてもみんなと同じでいられれば豊かな暮らしができます。

 そして、勝つことより負けないこと、落ちこぼれにならないことがメインテーマになります。

 さらにいうと、団塊の世代の激しい受験競争への反省や反駁から80年代くらいから競争否定が教育現場で始まります。成績は貼り出されなくなり、さらに運動会でも順位をつけないというようなことが当たり前になっていきます。受験競争も首都圏や京阪神のエリート層の子弟のものは激烈なままでしたが、少子化で高校や大学に入りやすくなったこともあり、大幅に緩和されます。

 86年に東京の中野区で壮絶ないじめによる自殺事件が世の括目を浴びると、そこからいじめ撲滅運動も始まります。

 仲間はずれは禁止され、みんな仲良くが教育の目標となったのです。

 さらに、93年ごろから中学校で観点別評価が始まり、自分が頑張って取った点より教師の主観できめる意欲や態度などのほうが重視されるようになります。とっくに競争が終わっているのに文科省はいまでも競争否定教育を続けているのです。

 子ども時代から、自分より周囲を気にし、これまでも問題にしてきたスクールカーストがそれに拍車をかけます。

 かくして、自分がなく、周囲に合せるシゾフレ人間化が進んでいると私は見ています。

 ところが、このような風に子供たちの心性が変わっているのに、教育学者や文科官僚(彼らは競争の好きな受験の勝者=メランコ人間です)が変わらない教育政策を推し進めるため、シゾフレ人間化に歯止めがかからなくなっています。さらにマスコミ(彼らも激しい競争を経てテレビ局や新聞社に入った人間です)も、むしろ競争否定を支持し続けているというのが私の現状分析です。

シゾフレ人間と疎外感

 さて、統合失調症の基本的な妄想は被害妄想だというのが、私にシゾフレ人間論のヒントを与えてくれた森山公夫先生のお考えでした。

 周囲が主役になるのですから、周囲に嫌われる、襲われるというのがいちばん怖いという心理なのですが、それが現実に起こっていると信じてしまうのが被害妄想です。

 正常範囲のシゾフレ人間は、それが現実に起こっていると思うわけではありませんが、そうなることを非常に恐れる傾向があると私は見ています。

 みんなに嫌われる、仲間はずれにされるというのが、こちらが想像する以上(読者の方がシゾフレ人間なら、自分が普段抱いている)の脅威なのです。

 だから、ちょっとSNSで中傷や批判を受けると激しく不安になったり、心を傷つけます。誤解のないように言っておきますが、もちろんSNSでの中傷はいけないことです。ただ、知ってほしいのは、それに平気な人とそうでなく激しく傷つく人がいるということです。シゾフレ人間の人たちは後者なのでしょう。なぜこのくらいの中傷で死ぬのだろうと疑問に思う人もいますが、パーソナリティの違いなのですから、理解するしかありません。

 妄想レベルでなくても、自分は仲間はずれにされているとか、嫌われているとか、仲間に入れないと思い込んでいる人はたくさんいます。

 それがいわゆる「疎外感」と言われるものです。

 これまで論じてきたことを読んでいただければ、私がシゾフレ人間と考える人は、このような疎外感をもちやすいことがわかっていただけると思います。

 人の心が、自分ではなく周囲が主役になり、みんなに合せることに汲汲としていたり、その反動で、みんなと同じにしない人をSNSなどで激しく攻撃するシゾフレ人間が世の中の主流になっている以上、それにうまく合わせられない人の疎外感が、こちらが考える以上に深刻だということは考えていいのではないかというのが私の考えるところです。

 第10回
第12回  
「疎外感」の精神病理

コロナ孤独、つながり願望、スクールカースト、引きこもり、8050問題……「疎外感」が原因で生じる、さまざまな日本の病理を論じる!

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プロフィール

和田秀樹

1960年大阪府生まれ。和田秀樹こころと体のクリニック院長。1985年東京大学医学部卒業後、東京大学医学部付属病院精神神経科助手、米国カール・メニンガー精神医学校国際フェローなどを経て、現職。主な著書に『受験学力』『70歳が老化の分かれ道』『80歳の壁』『70代で死ぬ人、80代でも元気な人』『70歳からの老けない生き方』『40歳から一気に老化する人、しない人』など多数。

 

 

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