ガザの声を聴け 2024 第1回

ガザ日記。心が崩壊した3週間。

清田明宏

わたしは現在、UNRWA(United Nations Relief and Works Agency for Palestine Refugees in the Near East =国連パレスチナ難民救済事業機関。通称ウンルワ)で保健局長という立場で働いている。UNRWAは1949年の国連総会で創設が採択され、1950年から活動を続けている。パレスチナ難民への支援の主な内容は、医療・教育・社会福祉で、活動の範囲はヨルダン・レバノン・シリア、さらに、東エルサレムを含むヨルダン川西岸とガザの両パレスチナ暫定自治区に及ぶ。その活動の様子を『天井のない監獄 ガザの声を聴け!』(集英社新書)にて執筆したのが2019年だった。

あれから4年。2023 年 10 月 7 日から始まった戦争は収束の気配は全くなく、戦禍は続いている。私の勤務地ヨルダンや、ガザに近いエジプトから後方支援を続けたが、ガザの人々や同僚の苦悩が絶えず聞こえてきた。ガザに入り直接支援をしたいのだが、治安状況も不安定で、ガザ事務所所属でない私のガザ入りの許可は中々おりなかった。心は収まらない。現場に入り、同僚の顔を見て、話を聞き、心を感じなければ、本当の支援はできない、との焦燥感が強かった。

戦争が始まり5ヶ月を過ぎた 2024 年 3 月 20 日、ようやくガザに入ることができた。ガザには 4 月 10日までの 3 週間滞在した。同僚に会い、人々に会い、話を聞いた。仕事を続ける同僚に勇気づけられた。しかし、ガザの人々の心は壊れていた。悪化する戦争、終わりのない避難生活、限界を超えた絶望感。彼らの涙を何度も見た。私の心も壊れた。よく知るガザ市を訪問し、想像を超える崩壊を見たためだ。自分の目が信じられない。ガザ市は「死の街」だった。今までで何十年も国際保健の仕事をし、さまざまな現場を訪ねたが、今回が最もつらい出張となった。全てが崩壊したガザ、特に今までの面影が全くなくなったガザ市を見て、心が引き裂かれた。この「ガザ日記、心が崩壊した 3 週間」はその記録である。

ラファへ

ガザの南部ラファへは、エジプトの首都カイロから車で移動する。カイロから約 500 キロ、砂漠の中の移動で、まずスエズ運河沿いの街イスマイリヤにつき、そこで、スエズ運河の下のトンネルを通りシナイ半島に入る。アフリカ大陸から、アジア大陸に渡ることになる。

ラファ国境にて。エジプト側から。3 月 20 日

今回はさまざまな国連機関やNGO 等、10団体以上からなるコンボイでの移動だった。出発は朝 4 時、カイロのある国連機関の事務所前からだ。宿泊していたホテルで午前 3 時に起き、集合場所に向かった。出発前日にはホテルの近くのスーパーで大量の買い物をした。ガザへの同僚へ頼まれた品物を購入するためだ。

ガザでは圧倒的に物品が足りない。果物のような日常品はもちろん、全てが足りない。通常は購入の必要もないチョコレートやクッキーを大量に買う。職員の子供用だ。ヨルダン本部の同僚から受け取った品もある。タバコもある。私がガザの宿舎で使用する寝袋やベッドシーツも買う。ともかく何でも買った。スーツケースが7個になった。車に積むとき大変であった。

カイロを出たあと、まずカイロの北東、イスマイリヤに向かう。カイロから約 100 キロ。スエズ運河をトンネルで超えたあと、シナイ半島を北部に移動し、さらに東に折れ、一気にシナイ半島北部の地中海沿いの街、アリーシュに向かう。そのあといよいよガザとの国境の街、ラファだ。400 キロの長旅だ。

アリーシュでは大量のトラックが道の両側に並んでいた。ガザ行きの順番待ちのトラックだ。早く全てのトラックがガザに入ってほしい、と感じた。そして、15 時過ぎにようやくエジプト側のラファについた。テレビでよく見る場所だ。そこでしばらく待つ。国境の手続きがややこしい。とにかく順番待ちだ。エジプト側で 1 時間かかり出国し、ガザ側に向かう。その後ガザへの入国に1時間。計 2 時間で国境を越え、ガザに入った。運んできた荷物も全部ある。ほっとした。

テントの街、ラファ

ガザ最南部の街、ラファは、もともと人口 30 万人弱だ。それが今回の戦争でガザのさまざまな場所からの避難民が殺到し、総人口が 150 万人を超えた時期もあった。私の訪問時は少し減って人口 130 万人強と言われた。それでも、元の人口の 3 倍にあたる約 100 万人の国内避難民が住んでいた。

その避難民の多くがテントに住んでいた。エジプトとの国境を越え、ガザ側のラファに入った 3 月 20 日の夕方、まず目の前に広がるテントの多さに圧倒された。ものすごい数だ。国連のゲストハウスがあるラファの海岸沿いの地域に移動したのだが、ずっとテントが続いた。もともとは広い砂地の空き地のはずだが、今は隙間なくテントが広がっていた。エジプトとの国境のフェンス沿いにもテントが広がる。何人いるのか、想像もできない。

ラファの海岸沿いのテント。遠方はエジプトとの国境。3 月 25 日

写真5

ラファの海岸沿いのテント。左側がエジプトとの国境。3 月 26日

その驚きは翌朝の UNRWA 事務所への出勤時も続いた。道の両側に隙間なくテントが続く。異様な景色だ。工事中のビルの中にも人が住んでいる。外壁が全くないビルだ。中にいる子供が落ちないか心配だった。どこに行っても圧倒的なテントの数。隙間が全くない。

ラファ市内の様子。3 月 21日

テントの形態は様々だった。国連や援助機関から支給されたきちんとした形の既製品もあったが、多くは自家製で、形も大きさもバラバラだ。彼らは木材とビニールシートを買い、木材で枠組みを作りそれにビニールシートをかぶせてテントを作る。広さはだいたい4~5メーター四方が多いが、形はさまざま。防寒・防水ができているかはわからない。そこに 10人以上で済む。3月のガザは結構寒く、夜は気温が 10 度以下になることもある。雨も降る。テント内に雨水が漏れて入って、とても寒く辛い。そのような話をテントに住む人から聞いた。このような避難状況を何ヶ月も、何度も繰り返している。

ラファ市内。3 月 25 日

テントの群れは、本当にどこまでも続いていた。切れることがない。事務所の窓の外の景色もテントだらけだ。市内どこに移動しても、目の前にテントが広がる。空き地という空き地にはテントがある。そこに避難民が暮らしている。多くの人が既に何度も避難をしている。10 回以上避難をした、という人もいる。いつまで続くのだろうか。

ラファの生活。水、食料、現金、混雑

大量の国内避難民が暮らすラファ、その生活はどうであろうか。我々は、国連の安全対策上、ガザでは全て防弾車で移動せねばならず、街を自由に歩き回ることは出来ない。その制約の中でも、ラファで暮らす人々の大変さはすぐに感じられた。

まず、水の確保だ。水の量が圧倒的に不足している。戦禍のため市や町の水道供給が止まっている。イスラエルからの水の配給も止まっている。海水の浄水施設はかろうじて残っているが、国内避難民で人口が 3 倍以上に膨れ上がり、テントが果てしなく広がるラファの街に、安定した量の水を供給することは不可能だった。給水車が街を回るが、人々が殺到し、どこも凄まじい混雑と混乱だ。

ラファ市内。海岸沿い。給水車に集まる人々。4 月 9 日

食糧も圧倒的に不足している。再会した同僚の殆どが大幅に痩せていた。毎日1食しか食べられない時期が長く、20 キロ以上痩せた同僚も少なくなかった。会ったとき誰かわからない同僚もいた。私がガザに入った 3 月下旬にはエジプトからの食料が徐々に入り始め、街には食料品が増えていた。卵も入り始め、戦争が始まって半年、「久しぶりに卵を食べた」と話す同僚もいた。ただ、その値段は当初とても高く、卵一つが約1ドル、普通はなかなか買えない。UNRWA や WFP (国連世界食糧計画)支援の小麦粉は手に入るので、自分で窯を作り、パンを作る人が多くいた。

ラファ市内、パンを窯で焼く人々。4 月 4 日

現金不足がガザでの最大の問題でもあった。戦争開始以来ガザに現金が入っていない。そのため銀行の ATM 機に殆ど現金がない。そもそもラファには機能している ATM 機は二つしか残っていないので、ATM 機の前はものすごい人だかりだ。長い列に並び、一日中待っても全く引き出せないことも多いと聞いた。そばを通ったが、人々の怒鳴り声が聞こえ、大混乱だった。銀行以外でも街の両替屋で ATM カードを使用して現金を引き出すことは可能だ。以前は皆それで現金を引き出していたそうだが、今は銀行の ATM 機と同じで、街の両替屋にも現金があまりない。もしあったとしても、引き出しの手数料が大幅に上がっている。当初は 5%だったものが、私がいた頃には 20%近くに上がっていた。街に食料品は増えていたが、それを買う現金がない。非常に厳しい生活環境だ。

ラファ市内。銀行の A T M に集まる群集。4 月 4 日

厳しい戦禍だけでなく、水不足、食糧不足、そして現金不足。人道支援専門家が、今まで見たことのない人道危機だと口を揃える。そのラファの街。町は閑散としているのだろうか。そうではない。非常に混雑している。もちろん、100 万人近い国内避難民の存在が大きな原因だが、それとともに、ガゾリン不足で車が使えず、タクシーも少ない。そのため多くの人が歩く。一番の移動手段は徒歩だ。ロバや馬が引く荷車が荷物運搬と共にタクシーになっている。そのためラファ内は非常にごった返しており、移動に時間がかかる。我々は車で移動したが、非常に時間がかかる。

ラファ市内の混雑。4 月 2 日

行く先々で、空爆で崩壊した家並みを見た。私がいた頃はラファの空爆は広範囲ではなく散発的で、ラファの街の一角全体が空爆で破壊している、というところは多くなかった。しかし、空爆の威力は圧倒的で、やはりショックであった。

ラファ市内。ビルの上の階が爆撃で崩壊。4 月 2 日

空爆の音も絶えず聞こえた。空爆の衝撃で事務所の壁や窓が揺れることもあった。ドローンは絶えず飛行しており、爆撃音が響き、戦時下であること実感した。当時はラファの北部、ハンユニスに多くの攻撃があり、爆撃による噴煙が見えた。爆撃の衝撃を感じたこともある。噴煙の下で起こっていること考えると、とても辛かった。

避難所(シェルター)

国内避難民の総数は 170 万人を超え、全人口の7 割以上という凄まじい数だ。その大量の国内避難民を支えるため、UNRWA は全ての学校をシェルターとして運営している。そのシェルターを複数訪ねた。どこも凄まじい混雑で、UNRWA も苦労していた。

元々は各避難所に平均 2000人の避難民が来るとの想定で行われていた。この総定数は過去最も厳しかった 2014 年の戦争に基づいている。当時それだけの避難民が各学校に殺到したのだ。それが、今回の戦争では想定を遥かに超えた。私がいた時の各避難所の平均避難民数は 3 万人を超えていた。対応は非常に難しく、さまざまな苦情を聞いた。大体学校の校舎内(教室)に 1 万人、残りの 2 万人は学校の校庭や周りの敷地にテントを立てて住んでいた。校舎内にいるのは通常女性と子供で、男性や、家族で住みたい人々は学校の校舎の外のテントで暮らしている。シェルターに登録すると食料や生理用品等の生活必需品や、シェルター内の臨時クリニックを受診することができる。そのためテントに住みシェルターに登録する人も多い。

ガザ市内のシェルター。UNRWA の学校。3 月 23 日

各教室とても混んでおり、70 人前後が、床にマットをひいて重なるように寝ている、と聞いた。教室の清潔度はある程度保たれていたが、ある避難所では、1階の教室で下水が逆流して室内が汚れ、大変であった。私がいた頃は夜はまだ寒いことが多く、毛布がもっと欲しいとの不満も聞いた。

ガザ市内のシェルター。UNRWA の学校。3 月 23 日
ヌセイラート市内のシェルター。3 月 28 日

そして学校の校舎の周りはテントが広がっていた。ぎっしり、隙間なく広がるテント群、圧巻だった。ある避難所では、テント群に 5 万人いると聞いた。一つの街、というより市だ。テント群の中を少し歩いたが、隙間がない。テントの中も狭い。テント群での生活の苦労がすぐわかる。

ラファ市内のシェルターの周り。テントだらけ。3 月 31 日

ハンユニス近郊のアル・フハリ地区のシェルターの周りのテント。5 万人が住む。4 月 4 日

この避難所の水・衛生状況も非常に深刻だ。トイレの数が絶対的に足らない。平均して約800 人に1つしかない。シャワーはもっと酷い。約 5000 人に一つだ。飲み水も圧倒的に少ない。平均で一人当たり 1 日1リッターもない。場所によっては一人当たり 1 日 500cc しかないとのことだ。この過酷な衛生状況のため、下痢や呼吸器の感染症が激増している。糞便を介して伝染する A 型肝炎も非常に多い。

シェルターのシャワー。ラファ 3 月 31 日
シェルターの水道蛇口。アル・フハリ 4 月 4 日

UNRWA も対策を進めている。避難所の臨時クリニックでは下痢の薬、抗生物質を準備し、患者のケアをしている。トイレやシャワーも臨時で人を雇い、絶えず清掃している。しかし、対応が全く追いつかない。避難民の数が圧倒的に多いためだ。感染症も全く減らない。国連の水・衛生問題の専門家がこう言っていた。「UNRWA はやるべき事を全てやっている。非常に限られた資源の中で、とても厳しい状況の中で。水の確保、屋上の水タンクの設置、トイレの清掃、等だ。ただ、避難民の数が圧倒的に多すぎる。市の人口が、短時間で30 万人から 120 万人に膨れ上がれば、市の上下水道システムは崩壊する。それは世界中どこでも同じだ。それが避難所で起こっている。解決策は停戦しかない」。

第2回  
ガザの声を聴け 2024

2019年刊行『天井のない監獄 ガザの声を聴け!』(集英社新書)の著者であり、現UNRWA保健局長の清田氏による現地からの緊急レポート。2023年10月から始まったイスラエルとイスラム組織ハマスとの戦闘。大きな攻撃を受けたパレスチナ・ガザ地区に滞在した3週間の様子を綴る。 

関連書籍

天井のない監獄 ガザの声を聴け!

プロフィール

清田明宏
1961年福岡県生まれ。国際連合パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA=ウンルワ)の保健局長で医師。高知医科大学(現・高知大学医学部)卒業。世界保健機関(WHO)で約15年間、中東など22カ国の結核やエイズ対策に携わった。2010年から現職。中東の結核対策では、患者の服薬を直接確認する療法「DOTS」を導入し、高い治癒率を達成。その功績が認められ、第18回秩父宮妃記念結核予防国際協力功労賞を受賞した。
集英社新書公式Twitter 集英社新書Youtube公式チャンネル
プラスをSNSでも
Twitter, Youtube

ガザ日記。心が崩壊した3週間。