訪問時ガザの南部3県(ラファ、ハンユニス、デイルバラ)で活動を続けている UNRWAのクリニックは全部で 6 つあった。その全てを回った。活動を続けてくれている職員へのお礼を言い、感謝を伝えるのが今回の訪問の最大の目的だからだ。
職員に会えて本当によかった。前回の訪問は戦争直前の 2023 年 8 月だったので、通常ならあまり再会、という気はしないが、今回は彼らの状況が激変していた。多くの職員はとても痩せていた。20 キロ痩せたという人も少なくない。食糧不足のためだ。そして多くが避難民になっていた。テントで暮らす人、親戚の家で暮らす人、そして、クリニックの部屋で暮らす人もいた。クリニックの最上階等を避難する職員と家族に解放したのだ。自宅が完全に崩壊した、という人もおり、その写真を見せてくれた。聞いていて私も辛かったが、本人の苦悩は私の辛さなんか比較にならない。過酷な状況が続いている。それでも一緒に写真撮影に応じてくれた。感謝しかない。
自宅が空爆を受け夫や子供を亡くしたという職員、兄弟の家が空爆を受け兄弟を亡くしたという職員が多くいた。長男を空爆で亡くし、うつ病に苦しみながら仕事を続ける職員もいた。どう声をかけて良いかわからない。
自ら負傷しながら仕事を続ける職員もいた。あるクリニックでは空爆で右上腕を複雑骨折した医師がいた。手術は受けたのだが、完治しておらず、再度の手術が必要とのことだ。ただ、ガザの医療事情が悪いため、再手術が受けられない。骨折の治療用の器具を右上腕に入れたまま毎日働いている。爆弾の小さな破片が腕と胸に残ったまま働いている女性の医師もいた。頭が下がると共に、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
職員との写真はとても大事な宝物だ。その全てに強い思いがある。その中の1枚がガザ南部の地中海沿いのマワシ地区の臨時クリニックで撮ったものだ。マワシ・ハンユニスクリニックという。幼稚園の建物を借り医療サービスを提供している。そこの職員との合同写真だ。全員が集まってくれた。この写真にいる20人以上の職員、全員が避難民だ。自宅が空爆で崩壊した人もおり、テント暮らしも多い。避難所(シェルター)や親戚宅に住む者もいる。想像を絶した厳しい生活だと思う。その中で、皆クリニックに通ってくれる。どう感謝を伝えて良いかわからず、一緒に写真を撮った。彼らの強い思いに我々国連機関・国際社会がどう答えていけるか、考えた。ともかく今は支援を続けていくしかない。
彼らの現場での工夫には本当に頭が下がった。ガザは元々糖尿病や高血圧のような慢性生活習慣病が多く、その治療の継続が大事である。ガザには UNRWA のクリニックが元々22 あるが、現在稼働しているのは 6 つしかない。その 6 つのクリニックに、多くの患者さんが来院している。電子カルテを見ると、ガザの北部やガザ市から本当に色々なところから患者さんが来ている。その一人一人にきちんと治療している。医師一人一人が一日 100 人以上の患者さんの診察をしている。
ガザでは治療用の薬剤の確保が戦争当初、非常に困難であった。薬剤が枯渇したのだ。通常我々の薬剤は我々の活動拠点であるガザ市の薬剤中央倉庫に保管してある。それを全て失った。戦争開始1週間後の 10 月 13 日に、急激な治安状況の悪化のため、すべての国連機関が、ガザ市からガザ南部のラファ市に緊急避難をしたのだ。避難は無事に行われたが、ガザ市にある中央薬剤倉庫の薬品をラファに移動する余裕は全くなかった。
10 月 13 日に空いていたクリニックはたった6か所。そのクリニックの在庫が全てだ。なんとか、他の閉まっているクリニックの薬剤を集め、WHO やパートナーからの支援も受け治療を続けたが、多くの薬剤は在庫切れした。現場の医師・関係者からの苦情を日々受け、とても辛かった。対策として、我々はすべての薬剤の6ヶ月分を緊急購入した。購入には時間がかかり、薬剤が実際にガザに着いたのは2ヶ月後の 12 月中旬からであった。本当に申し訳なかった。
ただ、私の訪問時は、薬剤の在庫は確保され、新たに借りた倉庫にきちんと保管されていた。インスリン等を保存する大きな冷蔵室もあった。ほっとした。クリニックにも薬剤はきちんとあった。
日本の協力でガザには母子手帳が導入されているが、今回非常に厳しい状況でも母子手帳を持って来院している家族に多く出会った。その一人は、ガザ市から避難してきた家族だ。住んでいたアパートが空爆を受け、1階に住んでいた家族は、全員避難できたそうだ。ただその際、母子手帳を忘れたことに気づいた母親がアパートに戻り、瓦礫の中を掘り起こして母子手帳を取り出した、と話してくれた。私の子供の大事な情報がすべてここにあると。命のパスポート、と呼ばれる母子手帳の真髄を見た気がした。
ガザでは栄養失調が大きな問題になっていた。急激な食糧不足により、飢餓の恐れがあると国連が指摘していた。我々のクリニックでも栄養失調の状況の把握のため、ワクチン接種に来院している乳幼児の栄養調査を実施していた。その結果、すでに 1 割の乳幼児が急性栄養失調の恐れがあると判明した。戦争前の栄養失調は3%ぐらいだったので、3 倍の増加だ。今後悪化しないように、UNICEF (国連児童基金)の協力を得て、栄養失調の恐れのある乳幼児に高カロリー栄養食を配布していた。
今回、職員と会えたのは本当に良かった。彼らの話を聞き、いろいろな話をした。彼らの全ての言葉が心に響いた。何度も避難民になり、体重が減り、多くの友人知人を戦争で失っている。UNRWA 職員だけでも 200 人近くが死亡、保健職員だけでも 10 人死亡した。彼らの内面はものすごく複雑だと思う。それは私には推し量れない、あるいは推し量ろうとすること自体が失礼だ。家族を失いながら診療を続ける医師たちに頭を深く下げる以外、言葉をかけることさえできなかった。
個々の心の崩壊
ラファで、ガザの南部で感じたのは、「人々の心が崩壊している」ということであった。建物の爆撃による崩壊も多くみたが、これほど人々の心が崩壊しているのは衝撃であった。何回もの避難で、明日を考えることができない。今日を生きることが全てだ、と。今まで一生懸命仕事をし、家を作り、家族を支えてきたのに、その全てを失った。そのような話を何度も聞いた。
ラファのクリニックで 20 代後半の女性の医師にあった。ご主人と小さい子供の 3 人でガザ市内から避難し、クリニックの中の一室に避難している。彼女のご主人は歯科医で、実は昨年の 10 月 8 日の開業を目指し、銀行から多額の借金をし、昨年の 10 月前は開業の準備をしていたそうだ。それが開業予定の 10 月 8 日の前日、10 月 7 日に戦争が始まる。全てを失い、それからは避難の連続。二人ともガザ市で生まれ育ち、ラファを含む南部には知り合いはおらず、避難先の確保が大変だった。12 回の避難のうち、1 回はラファ市内の道路の脇の店先で夜を過ごしたという。毛布も足りず、とても寒かった。最後はその店の人が不憫に思い、店を開けてくれて中で寝られた。話し方や立ち振る舞いからとても良い家で育った方と感じた。ものすごい絶望感だったと思うが、私には想像もできない。
ガザの家の写真を見せてくれようと、彼女が携帯を操作していた時に、息子さんがとても好きな小さな車のおもちゃの写真があった。それを見た途端、彼女が泣き出した。この前、息子がこのおもちゃに乗りたい、おもちゃはどこにあるのだ、と携帯のその写真を見て大泣きをしたそうだ。彼女は息子に声をかけることもできず、泣いた、と話してくれた。私もその話を聞いて泣いてしまった
昨年の 10 月 6 日は金曜日で週末だった。開業を明後日に控え、歯科医院の内装等、いろいろ準備をしていたそうだ。強い希望と達成感に溢れていたと思う。それが 10 月 7 日に大きく変わる。それからは絶望の日々が続く。そして、絶望はどんどんひどくなっている。道路で3 日も夜を過ごすとは、全く想像もしなかったはずだ。このような、絶望の日々が続いている。心が壊れる。彼女の話を聞いて涙が止まらなかった。
社会の結びつき(social fabric)の崩壊
個々の心が壊れる背景には、ガザを支えてきた社会構造あるいは社会の結び付き(social fabric)の崩壊があると強く感じた。ガザは以前から決して豊かな場所ではない。繰り返される紛争、経済封鎖、4 割を超える高い失業率、大学の卒業生は殆ど職がない。だが。戦争前のガザの人々はきちんと生きていた。貧困はあったが、家族、親戚、そして地域社会でお互いを支え合っていた。日本の、昔でいう村の構造が残っていた。変な例だが、ガザにはホームレスはいなかった。見たことがない。
その社会の結びつきが崩壊している。激しい戦果と何度も繰り返される避難がその根本的原因だ。元いた場所の破壊、そしてそこからの避難、何度も繰り返される避難。それはお互いを支え合っていた社会構造がなくなる、ということを意味する。UNRWA の学校の避難所に避難すれば、少し安全かもしれないが、その安全は保証されない。それとともに、避難所に住む、ということは全く知らない他人と住むことだ。そして避難所内でも、女性や子供は学校の建物に住み、男性は外のテントに住む。家族の結びつきが壊れる。
この状況を見た時、2011 年のシリア内戦時のことを思い出した。当時、ダマスカス市内にはUNRWA の学校を利用した避難所(シェルター)が多くあった。ダマスカス市南部のヤルムーク・パレスチナ難民キャンプが戦禍に巻き込まれ、多くの人々が避難したためだ。その際、避難所(学校)の運営方法にふた通りあった。ある避難所では 二つある建物のうち、一つを男性用、もう一つを女性・子供用にしていた。女性用の建物は男性の入場禁止で、家族が会えるのは外か、男性用の建物の中だけだ。他の避難所では教室内にロープを多く張り、そこに毛布やビニール布をかけ、家族用のスペースを複数作っていた。各々10平方メートルに満たない小さなスペースだが、家族がプライバシーを保って生活していた。その二つの避難所の違いが鮮明であった。前者では、男性用の建物の雰囲気が悪く、トイレ等の衛生状況が悪かった。後者では、避難所内も綺麗で、トイレ等も綺麗に使われていた。家族の繋がりが保たれていたのだろう。今回のガザでは、避難民が多すぎ、各教室に家族用のスペースを作ることは不可能だ。そのため家族の結びつきさえ失われる。そして、テントに住む、ということは、元々の社会の結びつきさえ失われる、ということだ。
もう一つの大きな問題は教育の場としての学校の閉鎖だ。学校は避難所としては残っているが、教育の場ではない。子供達は学校に行けず、教育の機会を奪われてしまう。それは決して許されないことだが、それとともに、子供たちが学校を通して、先生を通して社会と繋がることがなくなる。
ガザで会った精神科医がこう言っていた。子供達は 6 歳になり小学校に行き始めると、社会と本当の意味で初めて接する。学校の先生を通して社会の規範を学ぶ。子供たちを通して、社会のつながりを感じる。悪いことをして怒られ、良いことをして褒められる。これが子供たちの社会規範の確立にとても大事だと。今ガザの子供達はその機会がない。社会の一員としての先生に指導を受けることもない。子供達の成長が阻害される。
そう考えた時、ガザの将来に対してとても不安を感じた。心が壊れたガザの人々、そして結びつきが壊れたガザの社会、今度、どうなるのだろうかと。そう思うと私の心が痛んだ。その痛みはガザ市を訪問したときに、私の心をも崩壊する、とても強いものになった。
2019年刊行『天井のない監獄 ガザの声を聴け!』(集英社新書)の著者であり、現UNRWA保健局長の清田氏による現地からの緊急レポート。2023年10月から始まったイスラエルとイスラム組織ハマスとの戦闘。大きな攻撃を受けたパレスチナ・ガザ地区に滞在した3週間の様子を綴る。