新しいかたちの師弟関係
それから年に数回、ヤストさんは中畑さんの元へ通うようになる。いわきから車で片道5時間半の距離。一度に3〜4日。滞在中は、鍛冶場に2人で缶詰になる。つくってきたカンナの試作品を見てもらい、新たな技術を教わる。
中畑さんは中学を卒業してからずっと父親とともに鍛冶の仕事をしてきた。鍛冶歴65年のベテランだ。うるし掻きの道具だけでなく、クワやカマなどの農機具から特殊な刃物まで、オーダーメイドでつくる。
中畑さんにしか頼めない専門の道具を依頼しに、世界中からこの小さな鍛冶場をめがけて人が訪れる。たとえば、西欧の船で漁師が魚をさばくために使う刃物。かと思うと、地元の農家がニンニクの根を切るのに使う丸みをおびた根切り包丁。桃の実を2つにわる刃のついた道具。そうした道具を、依頼人の目の前で、中畑さんは簡単に試作をしてみせたり、道具を直したりする。
「連絡をもらうと、まぁまずは来てみてはいかがですかって言うんです。大抵のことは要望に応えます。3時間4時間かけて来てくれるお客さんにできないって言えないですから。それが自分の肥やしだと思うし、道具は使ってもらって何ぼだと思ってますので」
いつ訪れても、中畑さんは鍛冶場にいた。
薄暗い鍛冶場は、数え切れないほどの鉄の道具に囲まれている。一度、これまでに何種類ほどの刃物をつくったのかと聞いたことがある。「さぁ〜数えたこともないもんで」と大きな身体を揺らして笑っていた。
中畑さんのような鍛冶屋はもはやほとんど存在しない。野鍛冶のスタイルは続けていくのが難しい時代になった。量販店に行けば、安い海外産の刃物がいくらでも手に入る。多少知識のある人なら、その一見安い買い物が必ずしも安くないことがわかるのだろうが、多くの買い手にはわからない。
「今でも時々20年使ったナタをもってきて、また同じのをつくってくださいっていう人があるんです。ああ自分が丹精したものをこれだけ大事に使ってもらっているって。それはやっぱり金に変えられない、何ともいえない喜びです」
じっと観察していればわかるように、中畑さんは100パーセント身体感覚によって仕事をしている。昔の人はよく「技は目で盗む」といったが、触れたときの微妙な差、厚みや角度などは言葉で伝えられるものではなく、結局つくる者自身が、自分の身体をとおして習得するほかない。
「あとは自分がどういう鍛冶屋をやろうとするか。同じものばかりたくさんつくってどんどん卸をやる鍛冶屋もいます。うちみたいに、金になろうがなるまいがお客さんとマンツーマンで向きあって新しい道具を開拓する者もいる。いいものつくろうとかじゃないんです。それは無我夢中で。集中してるわけです、格闘してる」
道具は生態系のようにつながっている
とくにうるし掻きの道具は、中畑さんにとっても特別な道具だった。うるしカンナの精度は、採取するうるしの質を左右する。切れ味の悪いカンナを使うと樹液にゴミや不純物が混ざりやすく、使用できるうるしの量が変わってくる。もともとその技術は、越前漆器の産地である福井県から伝授された。明治時代には越前衆と呼ばれる職人が浄法寺界隈に出稼ぎで来ており、中畑さんが中学生の頃まで、福井でつくられたカンナが浄法寺にも入ってきていた。だが次第に福井でうるし掻きが行われなくなり、道具も入ってこなくなった。
そこで、中畑さんのお父さんが、浄法寺でこの作り方を習得した。
「親父がコツコツ、コツコツ。地道にやったもんなんです。友達の掻き子さんに使ってもらって、もっとこうとかああとか言われながら直して」
このうるし道具をつくっても、それだけで食べていけるほどの数が出るわけではない。それでも道具がなくなれば、掻き子が困る。うるしが掻けなければ、国宝の修復に困る。そうした責任感が中畑さんにのしかかる。
「逆をいえば、私の鍛冶仕事にも道具が必要なんです。それをつくる人がいなくなったら困る。炭もそう。うるしの世界でいえば、塗師さんや掻き子さんに比べて、私ら道具づくりは末端の歯車ではありますが、道具ってのはそうして、生態系みたいにつながっているんです」
だからこそ、自身の跡継ぎの不在が長年の気がかりだった。これまでに田子町や保存会の後押しで、何人か弟子をとったこともあるが、うるし道具を習得し、鍛冶職人として自立できた人は一人も居ない。うるしカンナは、ひとたび形ができた後に、使い手のそばに居て調整して初めて使いものになる。それだけ時間がかかり、仕事として継続するのが難しい。
私が長く疑問だったのは、それほど習得が難しい道具づくりを、いくら鍛冶のプロとはいえ、年に数回通う形で受け継ぐことができるものなのだろうか、ということだった。実質、ヤストさんが中畑さんの元にいられるのは一度に正味2〜3日、あわせても年に1週間〜10日間ほど。
ある時、通い始めて1〜2年間の2人のやり取りをおさめた映像があると聞いて、見せてもらった。膨大な数のDVDを見て初めて、合点がいった。取材で訪れる時にはニコニコと笑って話をしてくれる中畑さんが、映像のなかではまるで別人だった。
ヤストさんが試作してきたカンナを、真剣な眼差しで吟味する。肉厚の指がゆっくりカンナの厚みを確かめる。その目には職人独特の静かな迫力、凄みが宿る。ときには「おたくさん、前言ったこと忘れとるよ」と怒号がとぶこともあった。丁寧な言葉遣いを崩すことは決してなかったけれど、緊迫した時間が流れていた。
「相手が真剣ならこちらもそうなるんです」と、後日中畑さんは言っていた。
ヤストさんは、いわきの自宅に戻ってから後で何度も見返すことができるように、この映像を撮ってもらったという。
一方、映像のなかで中畑さんの体調はむしろ回復していくようだった。治療の効果もあったろうが、教える相手のいる喜び、張り合いが活力になったことは想像に難くない。
私が初めて訪れたとき、中畑さんは顔色もよく、ヤストさんと親しげに言葉を交わした後で、私に向かって言った。
「いつもこういう風なんです、鈴木さんとは。何でも話せる関係なもんだから。見てのとおり」。
その嬉しそうな顔が忘れられない。
ヤストさんが通い初めて2年目の終わり頃だろうか。うるし関係者の集まる場で中畑さんがヤストさんのことを「私の一番弟子です」と紹介したのを周囲は聞き逃さなかった。鍛冶場で初めて中畑さんから「これなら大丈夫」という言葉が出たのも同じ時期だ。汗まみれの顔をくしゃくしゃにして笑い合う、この頃の2人の写真が残っている。
プロフィール
フリーライター。長崎県生まれ。会社員を経て、2010年に独立。日本各地を取材し、食やものづくり、地域コミュニティ、農業などの分野で昔の日本の暮らしや大量生産大量消費から離れた価値観で生きる人びとの活動、ライフスタイル、人物ルポを雑誌やウェブに寄稿している。Yahoo!ニュース個人「小さな単位から始める、新しいローカル」。ダイヤモンド・オンライン「地方で生きる、ニューノーマルな暮らし方」。主な著書に『ほどよい量をつくる』(インプレス・2019年)『暮らしをつくる~ものづくり作家に学ぶ、これからの生き方』(技術評論社・2017年)