ニッポン継ぎ人巡礼 第1回

日本一のうるしの産地。いま浄法寺で起きていること

甲斐かおり

なぜ、こんな綱渡りの状態なのか

 

それにしても、ずっと不思議だった。

うるしは縄文時代から9000年以上続く日本の文化。海外では日本文化の象徴的な存在だ。2010年に国策として始まった「クールジャパン」には、ゲームやアニメなどのコンテンツのほかに伝統文化も対象になっている。そこにうるし文化が含まれないはずはない。なのになぜ、浄法寺のうるしの生産はこれほどぎりぎりの状況にあるのか。

中畑さんの言う「これだけつくっていても食べていけない」という言葉がその答えだ。浄法寺では生うるしの生産は続いたが、戦後、うるしをつかったものづくり、漆器の生産の方は途絶えてしまい、産地としての発展が滞ったのである。

歴史を遡れば、江戸時代から昭和30年代にかけて、浄法寺をふくむ八幡平市から二戸市にかけて流れる安比川流域には、漆器生産のシステムが形成されてきた(*)。漆器の素地となる木地を挽く木地屋、うるしを採る掻き子、漆を塗る塗師やそれぞれの集落、また木地や漆器を販売する市(いち)が川沿いに分布し、木地、塗り、生産販売…といった一連の産業が広がっていたのである。とくに浄法寺には728年開山とされる天台寺があり、ここで僧侶が什器をつくったのが、浄法寺塗の始まりともいわれている。

ところが京都や輪島の美術工芸品としての漆器と違い、かつて浄法寺でつくられていたのは安く買える日常品としての漆器だった。それらはつくりも簡便で、昭和30年代から広まったプラスティックに代替されたのである。

それでも、生うるしの生産のみが浄法寺に残ったのはなぜなのか。明治時代前期には、青森から鹿児島まで31の地域がうるしの産地として記録されている。浄法寺歴史民俗資料館の中村弥生さんが、こんな話をしてくれた。

「ほかの産地では明治期以降、別の産業がどんどん発展していきました。それでうるしの採取をやめるところが増えていった。浄法寺は山間地で交通の便もよくないし、大きな産業が育ちにくかったんです。それに耕作地が狭いので、農家の次男三男が生業にする仕事として生き続けた面があった。もちろん質のいいうるしが採れたこともありますが、現金収入を得るための選択肢が少なかったから残ったとも言えるのではないかと思います。それでもうるし掻きの仕事を選び、続けてきた職人さんたちは、この仕事が好きだと話してくれますが」

地元の人たちにとって、うるしは文化である前に、昔も今も生業なのである。生業として成立しなくなれば、従事者は減り、廃れるのが自然の流れだった。

浄法寺のうるし文化の発信地「滴生舎」での塗りの様子。

 

(*)時期については諸説ある。浄法寺漆の始まりは天台寺創建時とも言われるが、記録に残るのは江戸時代初期。

 

漆器そのものが売れなければ続けられない

 

だがここへ来て、浄法寺うるしの “文化としての価値” も見直されつつある。安比川流域をあげてうるし文化を発信していこうと、「“奥南部”漆物語~安比川流域に受け継がれる伝統技術~」が2020年に文化庁の日本遺産にも認定された。さらには、うるし掻き技術を含む「伝統建築工匠の技 木造建造物を受け継ぐための伝統技術」がユネスコの無形文化遺産に登録決定。

そうした動きの一方で、生産を支える職人、道具をとりまく生態系は、変わらず危うい状況にある。

 

うるしカンナのつくり手がいなくなるかもしれない状況に危機感を感じて、ヤストさんに最初に声をかけたのは、市の漆産業課(当時は「うるし振興室」)の職員であり、滴生舎の小田島勇さんだった。

滴生舎とは、浄法寺うるしの歴史をつないでいこうと1995年に町で設立された発信拠点であり、ショップ兼工房でもある。木地師や塗師を育て、漆器の生産から販売までを行っている。

二戸市浄法寺にある滴生舎。

二戸市役所職員であり、滴生舎次長、小田島勇さん。

「結局うるし掻きの道具をつくるだけで食べていけるわけじゃないですから。いくら需要があるといっても、掻き子の数も限られているし、年に何百本も発注するわけじゃない。そうなると、ほかの鍛冶仕事をしながら、うるし道具もつくることができる人でないと継続できないんです」

だからこそ、漆器が売れる出口が重要なのだと小田島さんは考えてきた。いま、滴生舎には修行中の人をふくめて、木地、漆器づくりに携わる職人が5人。滴生舎ブランドの漆器をつくっている。

「ヤストさんたちにしても、ほかの道具にしても、漆器そのものが売れなければ続けられないわけで。その出口をつくらないといけない」

小田島さんは、これまで一貫して浄法寺うるしの生産体制を整えようと奔走してきた。一度は途絶えかけた漆器づくりを復興させるために、最初に尽力したのは塗師の岩舘隆さんだったという。岩舘さんは地元で唯一の浄法寺塗の伝統工芸士でもある。岩舘氏の築いた基盤を途絶えさせないために、まずは小田島さん自らが塗師になり、滴生舎で職人を雇い、漆器の作家志望者が修行を兼ねて働けるしくみをつくった。輪島などに比べるとまだまだ規模は小さいが、いまや浄法寺は日本でほぼ唯一といえる国産うるしの産地。発信が本格化したのも、滴生舎を中心に始まった動きと言っていいだろう。

長らく市役所の出先機関だった滴生舎は、2021年春より民間化された。この夏にはECサイトも開設され、テレビや書籍で取り上げられた効果もあって、漆器は生産が追いつかないほど売れているという。

「でも何ていうんですかね。こういうこと言ったらいけないのかもしれないけど、たくさんアピールしてバンバン売れればいいってものじゃない気がしているんです。何といってもつくるのに時間のかかるもんだから。まずはしっかり質を高めて足固めしながら、じっくりいきたい」

滴生舎の中は漆器の工房兼ショップになっている。

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プロフィール

甲斐かおり

フリーライター。長崎県生まれ。会社員を経て、2010年に独立。日本各地を取材し、食やものづくり、地域コミュニティ、農業などの分野で昔の日本の暮らしや大量生産大量消費から離れた価値観で生きる人びとの活動、ライフスタイル、人物ルポを雑誌やウェブに寄稿している。Yahoo!ニュース個人「小さな単位から始める、新しいローカル」。ダイヤモンド・オンライン「地方で生きる、ニューノーマルな暮らし方」。主な著書に『ほどよい量をつくる』(インプレス・2019年)『暮らしをつくる~ものづくり作家に学ぶ、これからの生き方』(技術評論社・2017年)

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