M-1における固有名詞
M-1グランプリが国民的であると感じるのは、敗者復活戦や決勝戦の放送終了後に漫才に登場した企業や芸能人の名前でSNSが盛り上がる瞬間である。直近の2025年大会では敗者復活戦のミカボの徳永英明、黒帯の稲川淳二、決勝のヨネダ2000の松浦亜弥および「♡桃色片想い♡」、そしてなんといってもチャンピオン・たくろうはそのネタの性質上、固有名詞が連発されており、2025年大会だけでも多数の固有名詞が登場した。過去大会ももちろん同様で、2019年大会、ミルクボーイの「コーンフレーク」に至ってはいまだに伝説的に語り継がれている。
このように、M-1においての漫才と固有名詞は切っても切れない関係なのだが、平素の寄席や劇場などでは好まれない場面もあると噂されている。漫才においてはモチーフとして何をどのように代入するか、あるいはテーマをどう設定するかのセンスが全体のクオリティを大きく左右する。チョイスする固有名詞を見誤るととたんに手垢のついたものとして見え、コアなお笑いファンの心は離れていってしまう。これが俗にいう「シャバい」と表現される事象だ。もちろんそこのセンスが評価されることもある。
M-1の場合は、固有名詞を使うリスクよりも、固有名詞の選択のセンスが評価されている場合が多いように思う。さすがにドラえもんやサザエさん、ドラゴンボールなどのような長年ネタに使われてきたものは目新しさという面でずいぶん前から評価されない。やはりM-1で好まれるのは、マリリン・モンローやDef Techなどの「どうしてそこを選んだ?」「それ誰がわかるの?」というおかしさ、選定の妙が湧き上がってくるものである。
大会側によるネタチェックのガイドラインは明言されていないが、これだけ数々の固有名詞が登場しているということは、特に大きく制限されているわけではないように思われる。むしろそれらが登場すればするほどSNSでは盛り上がり、その影響が現実社会へと広がっていく。M-1のための漫才、すなわち競技漫才においては、固有名詞を代入することは戦略のひとつとして非常に効果的であるということだ。相乗効果的にSNSでは各企業やユーザーが盛り上がり、メリットが非常に多い。
この一連の流れは、一見SNS的なもののように思えるが、実は非常にテレビ的な事象である。敗者復活戦や決勝戦が全国放送されることが大きく影響しているからだ。ネタ内で名前を挙げることは「テレビを使った」プロモーションとして機能し、漫才内に名前や楽曲が登場した団体やタレントは、予期せぬラッキーとして概ね好意的な声明を出す。だからこそ大会後に各企業や団体、タレントの公式SNSが反応するという流れになり、誰にでも開かれた、すなわち国民的大会であるというムードが醸成される。ここからいまだに大きいテレビの影響力と、それを補足するSNSという関係が読み取れる。
これらの固有名詞は、誰にでもわかるキャッチーさの象徴として現れる場合と、閉じコンを象徴するニッチでクローズドなものとして使用される場合がある。前者は大前提の共通認識として設定され、後者はオタク心やサブカル心を刺激するものである。意図的に「普通はそこまで詳しくは知らないこと」を展開して内輪感を演出することで、鑑賞側に選民主義的な優越感を与える場合も多い。先述のM-1に好まれる選定の妙というのは後者である。
また、プレイヤー側が国民的な共通認識として持ち出したモチーフが、実は限定的な世代やクラスタにしか刺さっておらず、意図せず後者となってしまう場合などもあるだろう。先日、知人である10代の学生に「2020年当時、同年の大会にて、おいでやすこがの漫才内で歌唱されていた曲が一曲もわからなかった」という話をされたのだが、これこそが「国民的事象」という認識のズレであり、そしてそれは結果的に評価を下げるリスクにつながってしまうと知った。つまりこの学生は、SMAPの「世界に一つだけの花」や米津玄師の「Lemon」を知らず、よっておいでやすこがの漫才の意図も意味も理解できなかったということなのだが、30代以上の感覚では、にわかには信じがたいだろう。これらの曲は間違いなく国民的ヒット曲だと認識しているためだ。しかし実際は若年層や高齢者層、あるいは特に音楽を聴かない人は知らない可能性がある。これはもちろん一例で、特定の楽曲のみならずすべての固有名詞でも同様であり、さらにいうとネタ内で前提とされている認識や常識すらも実はまったく共通のものではないというリスクがある。つまり一見国民的であると認識しているものを取り扱っているつもりでも、結果的に実際はとても嫌味な印象を与え、観客をふるいにかけているかもしれないということだ。基本的には固有名詞の持つ求心力は強いが、そのぶん時にこのようなリスクも孕んでいると言える。
M-1とファンアート
M-1にて固有名詞が挙げられて、SNS上で反応するのは当該企業や団体だけではない。一般のユーザーがほとんどであるが、その中でもバズりやすいのがファンアートである。ファンアートにおいては漫才内で演じられていたシチュエーション、ネットミームとなりそうなところ、あるいはパンチラインが発される瞬間、コンビの関係性を表現できる平場など、描き手にとって印象深かったシーンや解釈の余地のある場面を切り取り、イラストや漫画に落とし込まれる。大会全体の総括のような場合もあるが、基本的には漫才に物語性を見出して再解釈されている。再解釈といいつつも、同人ではなくファンアートである以上は、実際に漫才内で演じられたシーンや、本当に起きた出来事をレポ的に表現する必要がある。もしも多くの人にとって好ましい印象を与える魅力や画力があれば、どこかの事務所やライブ主催、あるいは番組からキービジュアルやグッズの依頼が来ることもあるだろう。本当に好きな気持ちだけに突き動かされたパッションでファンアートを描くのもいいし、イラストレーターが仕事の幅を広げるためにポートフォリオ的に描くのもまた、営業的に有効な手段だろう。いずれにしても、自分が良いと感じたものは、それがM-1であろうがなかろうが、そしてイラストであろうがなかろうが、自由に表現する自由がある。しかしながらファンアートの文脈においても、コンビ間の関係性について過剰にクローズアップすると(あるいはその気配を出すと)、とたんに同人的な表現と認識されてしまう。厄介なことに独特の緊張と緩和のムード漂うM-1を舞台に、プレイヤーたちの関係を青春群像的な解釈に落とし込むことは非常に相性が良い。あるいは意図せずとも、記号としてのイラスト表現として少しでもBL、GL的な要素が出現した場合、同人的なものとして強く忌避される。
たとえば公共事業のプロモーションで使用されたイラストの絵柄が、ミスマッチな文脈に読み取られてしまうリスクを指摘され、結果的に炎上してしまうケースが発生することがあるが、それとロジックは同じである。特にファンアートについては生身の人間を題材としているため、そのあたりのバランスが非常に難しいだろう。このような理由で、実際に特に同人的意図のないファンアートだとしても非難の対象となることがあるため、お笑いファンの中ではあまり歓迎されていないムードもある。
生成AIとM-1
一方で、2025年大会では「架空コンビ選手権」や「応援生成」と題して、Googleの生成AI「Gemini」を使ったツールを提供してきた。個人的には「架空コンビ選手権」や「応援生成」は単純にスポンサー案件として、予選を盛り上げるための一つの施策であると考えていたので特に疑問視はしていなかったし、若手のための大会、かつ年末に開催されるという事情から、その年に大きく広まった新しいものを取り入れること自体は大会の思想にもマッチしているように感じられた。また、直接の大会関連の施策ではないが、同時期に野田クリスタル氏によるGemini案件である、ペットの写真でカードが作れる「ペットカードジェネレーター」がバズりにバズり、批判されがちな生成AIと心情が奇跡的に折り合うところにアプローチした成功例として盛り上がりを見せていたのも印象深い。
しかし話が変わってきたのはM-1決勝戦の中での紹介である。野田氏ら公式生実況組へ中継された際、ファンアートをSNSにアップしようという企画が紹介されたのだ。そのファンアートは実際に描いたものでも生成AIでもOKというニュアンスだった。というか厳密にはその違いにすら触れられていなかったので、何を推奨しているのか若干意図が読みにくかった。ここで私は三つの意味で驚いた。ひとつには同人との境目について議論になりがちなファンアートを堂々と地上波で紹介しようとしていること、つぎにそれを生成AIで作ることも歓迎していること、そしてイチから描いたイラストと生成AIで作成したイラストを同じ俎上にあげようとしたことだ。
さすがにそれはイラストと生成AIを取り巻くセンシティブな事情、加えてファンアート自体の絶妙な立ち位置をないものとして進んでいるストロングスタイルなスポンサー案件なのではと思った。つまりそれぞれのクラスタ内でだけ有効な共通認識や暗黙の了解を、すべて地上波放送、そしてM-1という国民的な場所にて無効化していったのだった。たしかに分断はパワーで統合され、繊細な感情はポジティブな雰囲気に置き換えられていっている。これはもはや良いとか悪いとかではない、国民的なものの役割のひとつである。生成AIやSNSとの連携を推進していたとしても、あくまでM-1がTVショーであるという前提のうえにすべてが成り立っていると、改めて感じさせられた一コマだった。
関連コンテンツの連発
M-1において地上波での放送があるのは審査員発表の事前番組、敗者復活戦、決勝戦以外には「アナザーストーリー」だろうか。M-1をめぐる漫才師たちのドキュメンタリーなのだが、毎年その演出や構成が注目され、本選とあわせて反響が大きい。また「アナザーストーリー」で描ききれなかった物語は、「アナザーアナザーストーリー」としてスピンオフ化されTVerで配信された年もある。M-1に関連したコンテンツは地上波テレビのみならず、決勝当日だけでも反省会配信やYouTubeでの裏生実況など多岐にわたる。だいたいがスポンサー案件やプラットフォームのプロモーションの一環として行われるのだが、決勝当日、および前後は、配信周りもふくめてファイナリスト、OB問わずフル稼働となる。ここに予選開催期間は予選ネタ動画、ファイナリスト発表のTVer配信、ファイナリスト決定後はティーザー、PVなどが公開され、コンテンツは潤沢に提供される。もちろん予選自体の配信やパブリックビューイングも実施され、M-1のあらゆる瞬間をコンテンツ化するというM-1公式の強い意図を感じる。しかしこれらの具体的な展開内容は、スポンサーやプラットフォームとの契約によって年によってブレがちである。たとえば2025年大会では、テレビ朝日の動画サイトTELASAの反省会の後、毎年恒例となっているサントリーによる打ち上げ配信が実施された。その事情をふまえてか、2025年大会では審査員の中川家・礼二氏が決勝放送内で「後の配信は行かない人は行かなくていいです」と発言したことが大きく話題になった。審査員でもなければかなりの叱責を受けそうなスポンサー案件への言及であるが、その内容に同意したお笑いファンも少なくなかった。ファイナリストたちは文字通り朝から晩まで拘束され、チャンピオンにいたっては翌日早朝から昼にかけてのテレビ番組の生放送に出演し、自宅に帰れるのは翌日の夜中と言われている。これについては一晩で人生が変わる、M-1のもたらすジャパニーズドリームだと歓迎されていたはずだが、今では「そんなことより早く帰してあげてほしい」という意見が優勢になりつつある。そもそも打ち上げ配信が公式に開催されていたほうが、自分のインスタライブなどで余計なことを発言しないので安全なのではという考えもあるが、働き方として朝方までの拘束に疑問を呈されているというのが現状である。
M-1とプロモーション
歴代のプロモーションや広告も味わい深いものがあった。電通チームがM-1のプロモーションに携わるようになったのは2018年のTikTokでの施策がきっかけとのことだが、基本的には前年度チャンピオンをフィーチャーしトンマナを設定しつつ、その年の出来事を絡めたポスター掲出や、大会に関連したものである場合が多い。都営地下鉄六本木駅、阪急電鉄大阪梅田駅コンコースでの広告掲出が慣例で、特に梅田駅のポスターは地域性や時事性を押し出している。個人的に印象的だったのは、2021年の前年度チャンピオンであるマヂカルラブリー・野田クリスタル氏による「えみちゃん、ありがとう」にて、大阪のレジェンド兼当時の審査員である上沼恵美子氏へのメッセージを添えたものである。実際に2021年を最後に上沼氏は審査員を勇退しており、野田氏と上沼氏の物語、そしてM-1における上沼氏の物語の最後に花を添える、素敵な演出だったように思える。
クリスマスイブが決勝戦となった2023年は少々露悪展開気味だった。恋愛とクリスマスを過剰に結びつけた広告展開や、前年度チャンピオンのウエストランドがホストに扮したアドトラックが街を走ったりなど、少々意図が読み取りにくかったように思う。同年の梅田駅の「アレ」という文字が躍る広告はその年に日本一となった阪神タイガースにちなんだもので、地域性以外はこれといって特にM-1との関連はないが、時事性を押し出してたものと言えるだろう。2025年は初の連覇を達成した令和ロマンがミャクミャクと並んでいるクリエイティブだったが、こちらも同様の訴求力を目的としていた。
M-1は伝統を守りつつも、その時々の時流に敏感であった。敗者復活戦の会場をシビアすぎる屋外から屋内へ変更したり、上裸の演出をとりやめたり、敗者復活戦のルールを変更したりなど、いずれもM-1ウォッチャーからの意見が反映しつつ、その時々での最善を模索してきた印象がある。そういった柔軟性をもつM-1の大会運営とプロモーションは、今後どのように関連していくのだろうか。それぞれのコンテンツや広告は運営チームも異なり、それぞれの年によっても異なるものだが、国民的であること、あるいは漫才の権威を形作るものであることを、今後も重視するのであれば、関連コンテンツや施策、広告のあり方も過渡期にさしかかっているといえるだろう。
(次回へつづく)

いまや漫才の大会としてのみならず、年末の恒例行事として人気を博しているM-1グランプリ。いまやその人気は「国民的」とも言える。なぜあらゆるお笑いのジャンルのなかで、M-1だけがそのような地位を確立できたのか。長年、ファンとしてお笑いの現場を見続けてきた評論作家が迫る。
プロフィール

てじょうもえ
評論作家。広島県尾道市生まれ。『カレーの愛し方、殺し方』(彩流社、2016年)で商業デビュー。『平成男子論』(彩流社、2019年)のほか、『ゼロ年代お笑いクロニクル おもしろさの価値、その後。』『2020年代お笑いプロローグ 優しい笑いと傷つけるものの正体』『漫才論争 不寛容な社会と思想なき言及』『お笑いオタクが行く! 大阪異常遠征記』『上京前夜、漫才を溺愛する』など多くの同人誌を発行している。


手条萌




菱田昌平×塚原龍雲



大塚英志
石橋直樹