睡眠を哲学する 第6回

眠りと覚醒はどこまで区別できるのか?―キリスト教から近代哲学へ

伊藤潤一郎

聖書のなかの眠り

 ここまで古代の哲学者たちの睡眠論を見てきたが、今回はもう少し時計の針を進めてみよう。前回の最後に登場したポルピュリオス(234‐305)には『キリスト教徒駁論』という著作があるように、紀元後の西洋思想はキリスト教との影響関係を抜きにしては徐々に語ることができなくなってゆく。

 では、そもそもキリスト教において眠りとはどのようなものだったのだろうか。ここでは、聖書における睡眠についての記述に注目してその特徴を確認していこう。古代ギリシアの哲学者たちが、眠りをできるかぎり避けて目覚めていようとしていたのに対し、聖書のなかには眠りの積極的な側面を語っている記述が見つかる。たとえば、『詩編』には「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かにわたしをここに住まわせてくださるのです」(4:9、聖書からの引用はすべて新共同訳による)という一節があり、安らかに眠ることは、神を信頼し、神に身をゆだねる行為とみなされていた。実際、『創世記』では、アダムが眠っているあいだに神によってエバが創造される。

主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。

(2:21‐22)

 神がアダムのあばら骨からエバを造るためには、アダムが眠りに落ちていることが不可欠だった。現在の視点からすると、あたかも神はアダムに全身麻酔をかけて手術をおこなったかのようだが、いずれにしても人間が眠っているあいだこそ神が働く時間だったのである。

 その一方で、これとは反対に眠りに対する否定的な言葉も聖書には散見される。たとえば、『マルコによる福音書』を読んでみると、イエスが弟子たちに向かって語った次のような言葉が目に留まるだろう。

シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。

(14:37‐38)

 イエスが捕縛された地として知られるゲツセマネにおいて、イエスは弟子たちに対して、自分が祈っているあいだは眠らないようにと忠告するのだが、ひどい眠気に襲われた弟子たちはその言葉に反して眠ってしまう。それを見たイエスが放ったのがこの言葉だ。ここからは、眠りが肉体に発する欲望であり、精神を打ち負かしてしまう悪しきものとみなされていることが窺える。ほかにも、『テサロニケの信徒への手紙一』において、「ほかの人人のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう」(5:6)とパウロが呼びかけているように、眠りを否定的なものとみなし、目覚めている状態をよきものとする発想が聖書にはしばしば顔を見せている。これは、古代ギリシアの哲学者たちの「目覚め中心主義」に通じる発想だといえるだろう。もちろん、眠りに関する古代の哲学が聖書に直接的に影響を与えたとまでは言えないのだが(そのようなことがわかる資料は残されていない)、両者に共通する思考の型があり、それが眠りに対して目覚めを優位に置く発想であることはまちがいない。

2.私の同一性――アウグスティヌスの眠り論

 次に、聖書を離れて、アウグスティヌス(354‐430)が眠りをどのように捉えていたかを見てみよう。アウグスティヌスといえば、最も有名な教父であり、後の時代の思想に決定的な影響を与えた哲学者だが、よく知られているようにもともとはキリスト教徒ではなかった。あるとき、隣家の子どもの「取れ、読め」という歌うような声を聞いたのをきっかけに聖書を読み、アウグスティヌスは劇的な回心を遂げるのだが、この回心のいきさつが綴られた『告白』では、眠りが二つの重要な問題を提起している。

 第一に、眠りは回心を遅らせるもの、つまり神へと向かおうとする人間を身体へと引き留めるものとして登場する。アウグスティヌスの言葉を聞いてみよう。

いつまでも眠っていたいと思う者はなく、健全な判断を有する人ならばだれしも、さめているほうを好みます。しかも人間は、強い眠気がまだ身体のうちにのこっている場合にはまどろみをふりすてることを延ばし、起きるべき時がきているのに、あきあきしているまどろみをまだこころよくむさぼっていることがよくありますが、ちょうどそのように、あなたの愛に身をゆだねるほうが自分の欲情にとらえられているよりまさることはもう確実にわかっていて、意にかない自分をなっとくさせるのは前者であるのに、しかも後者のほうにこころよく縛られていたのです。

(アウグスティヌス『告白Ⅱ』山田晶 訳、中公文庫、2014年、第8巻第5章)

 アウグスティヌスにとって回心に至らない状態とは、布団のなかでぐずぐずと起きられないようなものである。ベッドを出なければならないと頭ではわかっているのに、眠気という身体的な欲求が邪魔して起き上がれない。そのような誰にとっても日常的な経験が、回心の手前で足踏みしている状態に結びつけられている。神の方向へと起き上がらなければならないにもかかわらず、眠気という欲望に負けてしまうということだ。アウグスティヌスが回心する際に読んだ聖書の一節は、『ローマの信徒への手紙』の「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」(13:14)だったが、このエピソードを踏まえてもわかるように、アウグスティヌスにとって眠りとは何よりも肉体に起因する欲望であり、心を向けてはならないものだったのである。それゆえ、アウグスティヌスもまた、目覚めているほうが好ましいという「目覚め中心主義」の思想を打ち出した哲学者だったといえるだろう。

 ただし、アウグスティヌスの眠り論はそれだけにとどまらない。たとえば、フッサールが『内的時間意識の現象学』の序論で『告白』の時間論を高く評価しているように、アウグスティヌスは現代まで議論されつづけている哲学の問題をいくつも提起しているが、眠りもそうした哲学的テーマのひとつである「同一性」と関係している。同じく『告白』から引用しよう。

心象の幻影は魂と肉体とのなかで暴威をふるいますので、さめているときなら実物を見てもさそわれないようなことに、眠っているときにはまぼろしを見ているにすぎないのに、誘惑されてしまうのです。

 主よ、わが神よ。そのとき私は自分自身ではないのでしょうか。しかもこんな大きな相違が、私と私自身とのあいだに、覚醒から睡眠にうつり、睡眠から覚醒へもどる瞬間に存在するのです。そのとき理性はいったいどこにいるのでしょうか。

(アウグスティヌス『告白Ⅱ』、第10巻第30章)

 回心したアウグスティヌスは神の言葉に従い、さまざまな欲望から遠ざかった生活を送ろうとしていた。しかし、目覚めているあいだはそのように欲望を断ち切ることができても、夢のなかでは肉欲に誘惑され、欲望に従った行動をしてしまう。つまり、覚醒時と睡眠時で別人であるかのような状態に陥ってしまったのである。それゆえにアウグスティヌスは、眠っているあいだの自分は本当に自分自身なのだろうかと神に問いかけるわけだが、ここで問われているのはまさに「同一性」の問題だといえる。

 「同一性」とは、カタカナにすればもちろん「アイデンティティ」である。同一性をめぐっては現代に至るまで難解な議論が積み重ねられてきているが、さしあたりは身分証明書の顔写真と現実の顔を見比べて、同一人物であると確認するときの「同一」のことだとイメージすればよいだろう。このような同一性を考えるときに重要なのが時間の経過である。証明写真を撮った過去のある時点から時間が経っているにもかかわらず、私たちは写真と目の前の顔を見比べて同一人物であると確定しているわけだが、なぜそれらが同じだと言えるのだろうか。たしかに、パスポートや受験票の顔写真では、撮影時と現実の顔のあいだに大きなちがいはないかもしれない。しかし、自分の赤ん坊のときの写真ならばどうだろうか。顔は大きく変わり、その写真を撮られた記憶もないとしたら、なぜそこに写っている人物と私が「同一」であると言えるのか。こう考えてみると、同一性は非常に難しい哲学的な問題だとわかるだろう。

 アウグスティヌスが問うているのも、まさに時間の経過のなかでの私の同一性の問題である。目覚めているときの神に忠実に生きている私と、眠っているあいだの欲望に従ってしまう別人のような私は、はたして同一の私なのだろうか。このような問いは、時間の流れのなかで人間が覚醒と睡眠をくりかえすがゆえにはじめて生じるものである。もちろん、アウグスティヌスは夢のなかで肉欲に従ってしまったという罪の告白をしているわけだが、睡眠をめぐる私の同一性という問題は、信仰をもつか否かにかかわらず、誰にでも普遍的にあてはまる問題だといえる。当たり前だが、人間はずっと起きていることができず、必ずどこかのタイミングで眠らざるをえない。いわば、人間が生きていくためには意識を失う時間が必要不可欠なのである。しかし、意識が空白になるこの時間によって、「眠っているあいだの私は目覚めているときの私と同じ私なのか」という問題がどうしても生じてしまうのだ。

私たちは毎日眠って目を覚ますたびに、私の同一性という哲学の難問に触れている。もちろんそんなことに頭を悩ませなくとも生きてゆけるが、立ち止まって考えてみるとこれは非常に大きな問題であり、実際に近代に入ってからも何人かの哲学者がこの難問に直面している。そのひとりがイギリス経験論の中心人物であるジョン・ロックだが、残念なことに、ロックにおいて眠りは私の同一性を根本から問い直すような役割を担ってはいない。眠って意識がなくなっている時間があろうとも、自分の過去についての記憶をもっていれば、同一性は揺らがない――ロックはそう考える。人格の同一性をめぐる現代の議論において、ロックが「記憶説」の元祖とされているのはそのためだ。

むしろ、眠りと私の同一性に関してここで見ておくべきは、ロックではなく、モンテーニュとデカルトだろう。この二人もまた、アウグスティヌスとはちがったかたちで眠りをとおして「私」を捉え直そうとした哲学者たちなのである。

3.目覚め中心主義からの脱却―モンテーニュ

 モンテーニュとデカルトが共通して立てたのが、「覚醒と夢は区別できるのか」という問いである(ちなみに、両者を受けてパスカルも『パンセ』でこの問いについて語っている)。別の言い方をすれば、目覚めていると思っているあいだに起きていることが、じつは夢のなかの出来事なのではないか、そのような疑いをどうしたら振り払うことができるのか、ということだ。もちろん、常識的には非常に荒唐無稽にみえる問題提起だが、たとえば現代の哲学的懐疑論の重要な著作のひとつバリー・ストラウド『君はいま夢を見ていないとどうして言えるのか:哲学的懐疑論の意義』(永井均 監訳、春秋社、2006年)を読んでみればわかるように、そこではデカルトの夢をめぐる懐疑が非常に真剣に受け止められている。あるいは、これまたデカルト的懐疑の現代版とされる「水槽の中の脳」を思い出してもよいだろう。

 このように夢をめぐる徹底的な懐疑は現代哲学においても重要な論点でありつづけているが、睡眠に焦点を絞ってみれば、二人の哲学者からいま考えるべきは、おそらく懐疑の問題ではない。その点を確認するために、まずはモンテーニュから見てみよう。『エセー』のなかで最も長大な章として知られる第2巻第12章「レーモン・スボンの弁護」も終わりにさしかかるところで、モンテーニュは次のように述べている。

 われわれは眠りながら覚めており、覚めながら眠っている。私は眠りの中ではそんなにはっきりと物が見えないが、覚めていても、純粋に、曇りなく見えるわけではない。さらに眠りが深くなると夢までも眠ることがあるが、われわれの覚醒も、夢想を完全に吹きとばすほどに目覚めているわけではない。〔…〕

 われわれの理性と精神は、眠っている間に生まれる空想や意見を受け入れて、夢の中の行為にも昼間の行為と同じ承認を与えるのに、なぜ、「ひょっとすると、われわれの思考や行動は別の夢なのではないか、われわれの覚醒は別種の眠りなのではないか」と疑ってみないのか。

(モンテーニュ『エセー(三)』原二郎 訳、岩波文庫、1966年)

 ここでモンテーニュがおこなっているのは視点の移動である。ふつう私たちは覚醒時を基準に物事を考え、それを自明だと思っているが、モンテーニュはその自明性に疑いを向け、覚醒をも一種の眠りであるとみなすような視点に立とうとしている。伝統的に目覚めているあいだの精神は明晰な活動をするものとされてきたが、じつはどこかに曇りを抱えているのではないか、というのである。実際、起きているのにボーっとしてしまう経験をしたことがないひとはいないだろう。それゆえ、眠りと目覚めのちがいは、夜と昼のようなコントラストのはっきりした対立ではなく、モンテーニュ自身の言葉に従えば、「夜と薄暗がりくらいのちがい」なのである。こうして、目覚めと眠りのあいだにあった優位・劣位のヒエラルキーはなくなり、目覚めのために眠りが存在するというアリストテレス的な発想が否定される。つまり、モンテーニュが試みているのは、ここまで多くの哲学者が陥って来た「目覚め中心主義」からの脱却なのである。

4.目覚め中心主義への回帰―デカルト

 モンテーニュから二世代ほど下のデカルトも、「目覚めと眠りとを区別することができる確かな標識がまったくない」(『省察』山田弘明 訳、ちくま学芸文庫、2006年)という言葉を残している。一見するとモンテーニュと同様の方向へ向かっているように思える一節だが、ひとまずはこの言葉が置かれた文脈を確認しておこう。

 主著『省察』において、デカルトは学問をしっかりとした確実な基礎の上に打ち建てようとし、そのためにいったんすべてのものに疑いのまなざしを向ける。そのなかで疑われてゆくもののひとつが、自分自身の内部感覚にほかならない。私がいまパソコンに向かってキーボードを打っていること、あなたがスマホをスクロールさせながらこの文章を読んでいること。こうした自分自身について感じていることは疑いえないのではないか。デカルトはそう自問しつつ、「いや、しかし」とみずから反論する。夢のなかでも私たちはキーボードを打ち、スマホで文章を読む感覚を得たことがあるのではないか、そうだとしたらいま私は眠って夢を見ているのかもしれないではないか。それゆえ、内部感覚は疑わしく、目覚めと眠りを区別することはできない。このようにしてデカルトは、常識的には目覚めと眠りのあいだに明確に引かれているはずの境界線がじつは脆いものであることを明らかにする。

 目覚めだと思っていることがもしかしたら眠りなのではないかと疑う点で、デカルトの懐疑とモンテーニュの『エセー』は軌を一にしている。しかし、『省察』を最後まで読めばわかるように、デカルトは非常にラディカルな懐疑をくりひろげたにもかかわらず、最終的には覚醒と夢は区別できるという結論に落ち着いてしまうのだ。

どこから、どこへ、いつ私にやって来たかということを私が判明に認める事物、そして私がそれらの知覚を何の断絶もなしに残りの全生涯と結合する事物が現れるときには、それは眠っているときではなく目覚めているときに起こっていることを、私はまったく確信するのである。

(デカルト『省察』)

 デカルトによれば、夢のなかの出来事は突然現れたり消えたりするのに対し、現実の出来事はどのようにしてそれが起こったかがわかり、記憶のなかに貯蔵されて、未来の出来事と結びついて意味を形成していく。簡単にいえば、整合性がとれるのが現実で、とれないのが夢ということだが、はたしてこれは説得力のある区別だろうか。この基準に納得するか否かは措いておくとしても、重要なのはこうしてデカルトがふたたび目覚めの世界に軸足を置いたことだろう。一時的ではあるにせよモンテーニュが開いた道を辿っていたかにみえたデカルトだが、結局のところ「目覚め中心主義」という伝統のなかに戻ってしまったのである。

5.モンテーニュとともに睡眠を哲学する

 ここまで見てきたように、伝統的に西洋の哲学は人間を目覚めた状態から理解してきた。つまり、覚醒状態こそが「私」の本来の姿ということだが、モンテーニュはそのような思考とは袂を分かち、「私」なるものを(悪い意味ではなく)曖昧模糊とした存在として捉えようとしている。人間が毎日眠り、日中であってもボーっとしたり空想にふけったりすることを考えれば、デカルトとモンテーニュ、どちらのほうが人間の真の姿を捉えているかは一目瞭然だろう。両者の眠り論は同じ論点に触れながらも、そこから導き出される人間像には天と地ほどの差が存在しているのである。

 眠りの哲学を深化させるならば、辿るべきはデカルトの道ではなく、モンテーニュの道にちがいない。フランス文学における目覚めと眠りの境界の問題を追った塚本昌則の『目覚めたまま見る夢:20世紀フランス文学序説』(岩波書店、2019年)が、まさにモンテーニュの落馬体験から書き起こされていたことも思い出したい。モンテーニュとともに目覚めを中心に据える視点から離れ、眠りから「私」を捉えなおすことが睡眠を哲学するには不可欠である。私たちは意識があると思っているときでも、思いのほか覚醒しておらず、つま先をすでに眠りに突っ込んでいるのかもしれない。そのような「私」をいったいどのように理解し、言語化すればよいのだろうか。引き続き次回も近代の哲学者たちの眠り論を追いつつ考えていこう。

(次回へ続く)

 第5回
睡眠を哲学する

私たちの睡眠は、完全な休息とは切り離されはじめている? 哲学者の伊藤潤一郎が、さまざまな睡眠にまつわるトピックスを、哲学を通して分解する。

プロフィール

伊藤潤一郎

いとう じゅんいちろう

哲学者。1989年生まれ、千葉県出身。早稲田大学文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、新潟県立大学国際地域学部講師。専門はフランス哲学。著書に『「誰でもよいあなた」へ:投壜通信』(講談社)、『ジャン゠リュック・ナンシーと不定の二人称』(人文書院)、翻訳にカトリーヌ・マラブー『泥棒!:アナキズムと哲学』(共訳、青土社)、ジャン゠リュック・ナンシー『アイデンティティ:断片、率直さ』(水声社)、同『あまりに人間的なウイルス:COVID-19の哲学』(勁草書房)、ミカエル・フッセル『世界の終わりの後で:黙示録的理性批判』(共訳、法政大学出版局)など。

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