スペインへ逃げてきたぼくのはしっこ世界論 第6回

「何もしない」留学のススメ

飯田朔
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 あっという間に1年が経ち、若き文筆家のスペイン滞在も終わりを迎えた。「留学」でも「旅行」でもなく、脱出。1年間の生活は、彼自身にどのような変化をもたらしたのか。そして、ふたたび日本での生活に戻った文筆家の目に映った、この国、この社会の姿とは? 「はしっこ世界論」最終回、「脱出」生活のススメ。

 

 30歳近くにもなって、1年間外国で生活することになるとは、思いもよらなかった。それもスペインで。

 海外に興味はあったが、わざわざ日本を出て長期間生活したいと思ったことはなかった。そんな自分が昨年(2018年)ある理由から1年間スペインへ「留学」することになった。

 スペインである程度楽しく暮らしつつも、なんでここにいるんだろう、と小さな疑問がつねに頭の斜め上に浮かんでいる日々だったが、その時間はあっという間に過ぎ、ぼくの「留学」は終わりを迎えた。

 

1 オレンジジュースとお別れをしたら

 日本に帰国する朝、マドリードのバラハス空港のカフェでオレンジジュースを飲んだ。街角のバルやカフェで飲むオレンジジュースは、スペインでぼくが知った一番おいしいもののひとつだ。空港のカフェでもオレンジジュースの味は変わらないだろうと思い、最後の思い出に注文した。

 ぼくがはじめてこれを飲んだのは、留学していた街サラマンカの近郊の小さな田舎町でだった。その町のバルで何も考えずにオレンジジュースを注文して飲んでみたところ、ひと口でハッと目が覚めるような、はっきりとした味が口にしみこみ、驚かされた。

 スペインのバルやカフェには、ほぼ必ずメニューにオレンジジュースがある。どの店にも、その場でしぼりたてのジュースを作るための専用の機械がおかれ、店の人が機械のてっぺんの挿入口にいくつかのオレンジを入れると、下から新鮮なジュースになって出てくる。

 気軽にこんなにおいしいオレンジジュースを飲めることはしばらくないだろうな、と思いつつ、空になった容器を戻し、飛行機の搭乗ゲートに向かう。ゲートでは、すでに大勢の日本人の乗客が飛行機を待っていた。目の前の人たちが日本語を話している状況があまりにも久しぶりで、日本の人たちが、どこかハリウッド映画の中で描かれる日本人のように「作り物」っぽく見えたのが、不思議だった。

 数十分後、飛行機に乗り込み座席に落ち着くと、となりに座った日本人の年配の夫婦と挨拶をした。二人はヨーロッパ旅行の帰りとのことで、ぼくが1年間のスペイン留学からの帰りだと言うと、親切にも食料保存用の小袋に入れた柿の種を分けてくれた。旅行用に入れ替えて封をして持ってきたのだという。

飛行機でとなりの乗客にもらった、柿の種

 それを見たとき、何か新鮮な感じがした。自分の国のスナック菓子をわざわざ袋から出して小袋に入れ、旅行中に持ち運ぶ几帳面さが、スペインの日常ではなかなか見ることのなかったものに思え、また、久しぶりに目にした柿の種は、なんだか日本からぼくを迎えにきた「使者」のようにさえ見え、おかしかった。

「オレンジジュース」とお別れをしたら、すぐさま日本から「柿の種」が迎えにきたか、という感じ。その場でしぼったオレンジジュースの率直さに比べると、封をされた柿の種は、ずいぶんかしこまった存在に思えてくる。これから、ぼくはそういう「かしこまった」国に帰っていくんだなあ。

1年ぶりに戻った、吉祥寺・井の頭公園

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 第5回
スペインへ逃げてきたぼくのはしっこ世界論

30歳を目前にして日本の息苦しい雰囲気に堪え兼ね、やむなくスペインへ緊急脱出した飯田朔による、母国から遠く離れた自身の日々を描く不定期連載。問題山積みの両国にあって、スペインに感じる「幾分マシな可能性」とは?

プロフィール

飯田朔

塾講師、文筆家。1989年生まれ、東京出身。2012年、早稲田大学文化構想学部の表象・メディア論系を卒業。在学中に一時大学を登校拒否し、フリーペーパー「吉祥寺ダラダラ日記」を制作、中央線沿線のお店で配布。また他学部の文芸評論家の加藤典洋氏のゼミを聴講、批評の勉強をする。同年、映画美学校の「批評家養成ギブス」(第一期)を修了。2017年まで小さな学習塾で講師を続け、2018年から1年間、スペインのサラマンカの語学学校でスペイン語を勉強してきた。 

 
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