スーフィズム入門 第五回

心の境地(1)

ما هو التصوف

山本直輝(やまもと なおき)
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第5回 心の境地(1)

人間と神の間には千の境地がある

聖者ヒドルの格言

 

千の境地とは神の許へと向かう旅人が立ち寄る宿処である

旅人はひとつまたひとつと宿処を歩き登っていく

アブドゥッラー・アンサーリー

(11世紀アフガニスタンのスーフィー)

 

山本直輝

 

白い衣服に身を包んだ男性たちが一定のリズムをたもって旋回し瞑想するスーフィーの静謐な映像は誰しも一度は目にしたことがあるかもしれない。
一般に日本で中東をめぐるイスラームの話題といえば紛争の影や厳しい戒律のイメージがつきまとうが、この「イスラーム神秘主義」と呼ばれるスーフィズムの求道的なたたずまいは門外漢にもどこか安寧を感じさせ、また日本の芸道におけるストイックさに通じる香りがする。
はたして、スーフィズムとはいかなるものなのか? スーフィズム研究を専門とし、現在、イスタンブールで教鞭をとる著者による入門連載第五回!

 

 境地の獲得

 前回はスーフィズムにおける祈祷法を紹介した。修行者は「魂の修行法」や「霊の修行法」など様々な祈祷法を編み出し、各人の心を磨くことを志した。しかし修行を行う中で人間は様々な雑念(ハワーティル)に直面することとなる。雑念は放っておくと人間の心をどんどん曇らせていき、神の真理から遠ざけてしまうという。修行者は人間の心に生まれる様々な感情を理解し、心を正しい方向に向かわせることでこのような雑念を克服できると考える。雑念に動かされない不動の境地のことを階梯(マカーム)といい、様々な境地を獲得する修行者の心理的変移を「神秘階梯(マカーマート)」と呼ぶ。
 スーフィズムの修行者は求道者(サーリク)とも呼ばれ、神秘階梯は真理の道を歩む旅人が旅の過程で立ち寄る宿処になぞらえられる。見ている対象が同じでもその時の感情で全く違うものに感じることがあるように、神に至る旅の景色も旅人の心情によって刻一刻と変化する。

 心情(ハール)とは「喜び」と「悲しみ」、「不安」と「安心」など相対する感情のことを指し、修行者は常に相対する二つの感情の間を揺れ動くという。両極の感情の中でバランスを見つけていくことが大切で、喜びも度が過ぎれば気のゆるみとなり、悲しみも度が過ぎれば絶望に転じてしまう。心の旅はいつも順調にいくものではなく、時として修行者は感情に押し負け歩みを止めたり、後退したりしてしまうこともあるという。心の葛藤を抱える不安定な状態を「心の染色(タルウィーン)」と呼び、スーフィー導師は弟子の心がどのような心情の間で迷っているかを見つけ出し、弟子を雑念に惑わされないマカームへと導くことが求められる。様々な心情の間で揺れ動く「心の染色」の状態から、確固たる境地へと心を変化させることを「心の統御(タムキーン)」と呼ぶ。導師は忍耐強く弟子の心に寄り添い、弟子は祈祷などの修行中だけでなく日常生活を送るときも自らの感情ひとつひとつと向き合っていく。

 スーフィーは一般人の見ている外界とは自らの心情(ハール)が作り出した幻影であり、外界に執着している限り神が造り出した「真実の世界」は隠されたままであると考える。修行者は自己を含めた神以外のものへの執着心を生み出す感情をコントロールしていくことで、神の真理に至ることができると信じる。

 

恩愛を断ち切り妄縁を取り除け

今この時から一歩一歩前進し

道の岸に登り真元(神)を見よ

劉智

(17~18世紀中国のイスラーム学者)

 

 スーフィー学者によって神秘階梯の数は百、九十九、四十と様々だが、「スーフィー修行の基礎となる境地」、「日常生活を送るうえでの境地」、「修行中に深められる境地」、「神秘的知識を獲得するための境地」など修行者の段階によって大まかに分かれている。今回は修行の基礎となる心の境地をいくつか紹介したい。

 

 悔悟(タウバ)

 悔悟(タウバ)はあらゆる修行を始めるための「心の出発点」となる境地である。スーフィズムにおいて最も重要なキーワードであるといってよい。タウバはアラビア語で「向きを変える」という意味で、「過ちを犯している状態から償いの道へと向き直る」ことを指す。スーフィズムでは人間は弱い存在であり、罪を犯すことを人間の本質の一つと考えている。もちろん罪を犯さないに越したことはないが、大切なのは過ちを犯したときに自らの弱い本性を見据えること、そして誤ってしまった過去を悔い、そこからどう立ち直るかを考えることであるという。

 アッラーの数ある名前の一つ「タウワーブ」もタウバからくる行為者名詞で、「悔悟し、後悔する者と向き合い、赦す御方」を意味する。後悔の念はスーフィズムにおいてアッラーと向き合う機会を人間に与える重要な感情として考えられている。
 サウジアラビア建国の理念となったワッハーブ主義に影響を与えた中世のイスラーム学者イブン・タイミーヤ(1328年没)の弟子の中で最も卓越した存在であったイブン・カイイム・ジャウズィーヤ(1350年没)はスーフィズムに造詣が深いことで知られている。ワッハーブ派はスーフィーやスーフィー教団に対する強烈な批判で知られているが、イブン・カイイム・ジャウズィーヤはスーフィズムに関する著作を多く遺し、なかでも神秘階梯論を説いた『旅人達の階梯』は名著である。『旅人達の階梯』の悔悟章で彼は罪について次のように語っている。

 

もし犯した罪が後悔の念を生み出すならば

罪は様々な崇拝行為より有益な場合もある

イブン・カイイム・ジャウズィーヤ

(13~14世紀アラブのスーフィー)

 

 イブン・カイイムは、ひたすら実直に神への崇拝を重ねてきた人間よりも、罪を犯したことで後悔の念を胸に抱き、心を改めようとする人間のほうが尊い境地に到達する可能性を示している。
 インドネシアの伝統イスラーム学の大成者ハーシム・アシュアリー(1947年没)は、スーフィズムの祖アブー・ターリブ・マッキー(996年没)の主著『心の糧』を参照し次のように言っている。「イスラームの聖者が罪から守られている、というのは過ちを犯さないということではない。誤ったときにすぐに悔い改め、神と向き合う心があるということである」

 

ハーシム・アシュアリー

 

 またオスマン朝期のバイラミー教団には入門の象徴として弟子に悔悟を宣言させ、導師が「お前の罪を許した」と答える儀式があった。(現代トルコでもナクシュバンディー教団のいくつかの流派がこの儀式を受け継いでいる。)これは導師が神の代理人として罪の赦しを行うという意味ではなく、過ちからは逃げられない人の業を理解した弟子の心を受け入れる、という意味である。
 スーフィズムが説く人間の理想像として「完全人間(インサーン・カーミル)」というものがあるが、これは罪を犯さない完全無欠の存在を意味しない。過ちから決別するのではなく抱えて生きていくような、罪と「向き合う(タウバ)」覚悟を持った人間のことを指すのである。悔悟の境地は心の出発点にしてあらゆる境地の土台となるものであり、修行者は常に悔悟の境地を心に秘めながら、日々を生き修行に勤しむことが求められる。

 悔悟の境地を確立した人間には、神の怒りに対する畏れの感情が常に沸き上がるようになるという。修行者は、次にこの「畏れ」をコントロールする段階に登っていく。

 

 畏れ(ハウフ)

 自らの弱さと過ちに気づいた修行者の心には、神の罰を恐れる恐怖の念がまとわりつくようになる。アッラーには過ちに罰を与えるジャラール(峻厳)な側面と人間に赦しを与えるジャマール(愛)の側面があるが、修行者はまず神のジャラールな側面から畏れに心の軸を置きながら自らを省みる。しかし神秘階梯を登っていくにつれ修行者は人の罪をも溶かす熱い「神の愛」の理解を深め、希望の念を培っていくことで最終的には畏れと希望のバランスを心の中に作り上げるという。畏れの感情は罪へと人を誘う欲望を抑えようとする節欲の境地の土台を作り、希望はこの世の不条理を乗り越える忍耐の境地の土台を養う。

 

 節欲(ズフド)

 スーフィズムで似た概念に節制(ワラア)があるが、ズフドは魂から生じる欲望を抑えることであるのに対して、ワラアは自らを罪に引き込みそうな疑わしい行いを慎む精神のことを指す。欲望を抑える修行は「魂の教育」、「克己と魂の作法」と呼ばれ、祈祷論に並ぶ独立したジャンルとして多くのスーフィー達が解説書を遺している。この節欲の境地を獲得するために、スーフィーは「少し話し」、「少し食べ」、「少し眠る」という「三少」という実践を日常生活の中で行う。

 さらに経験を積みたいスーフィーは一定期間スーフィーの修行場に設けられた隠遁部屋に籠り三少を徹底する。隠遁部屋では修行者は祈祷修行をひたすら行い、一日の食べものはパン一切れと水一杯、寝るときも完全には横にならず座った姿勢で2、3時間だけうたた寝する。うたた寝しているときに何か夢を見たり、祈祷中に特定のハールが心に去来したと感じたりしたときは、紙を通じて導師と連絡を行う。

 

隠遁部屋の図、íslâm Ansiklopedisiより

 

 忍耐(サブル)

 後悔と畏れ、節欲を身につけた人間はこの世のあらゆる不条理や困難を乗り越える「忍耐」の境地を得るという。忍耐は「信仰の半分」といわれるほどイスラームでは重要な徳目とされている。ガザーリー(1111年没)は、『宗教基礎学40の教理』の中で「忍耐」が人間を人間たらしめる特性であると説いている。彼によれば、人間は獣の特性と天使の特性を心に持っているが、獣はただ欲望だけに従い、天使はただ神の意志に従う。獣にも天使にも心の葛藤は無いが、人間は二つの特性を持つがゆえに常に葛藤を抱えているという。スーフィズムでは、欲望や弱い感情に身を任せるか、強い意志で我が身に降りかかるあらゆることを耐え忍ぶかという選択を行うことに人間の尊厳が宿ると考える。また忍耐の境地の継続のためには、人間を愛によって導こうとしている、神のジャマールの側面を見据え、希望の念を抱くことが大切であるといわれる。希望に支えられた忍耐の境地は、諦念(タワックル)の境地へと修行者を誘う。

 

    世界をあるがままに受け入れる―メルケズ・エフェンディの境地

 スーフィー達が修行の果てに獲得する心の境地がどのようなものであるかは、スーフィーの徳行や逸話を伝える『スーフィー列伝』というジャンルでよく語られる。「基礎の境地」を練り上げていき到達する境地の一つに「諦念」という心がある。
 導師は弟子の心情や境地を図るためにしばしば禅問答の公案のような問いを弟子に投げかける。オスマン朝のスーフィー列伝で有名な「諦念」の境地の逸話として、メルケズ・エフェンディの「問答」がある。

 ハルヴェティー教団の導師スンブル・エフェンディ(1529年没)は、弟子達に次のように問うた。
「この世を変える力があるならば、お前たちは一体どんな世界を望むか?」
 ある弟子は「この世から悲しみや悪、罪人を消し去りたい」と答え、別の弟子は「この世を来世のように美しいものだけで飾り付けたい」と答えた。また別の弟子は「あらゆる人が喜びを見出し、困難に苦しむ人が答えを見つけ、すべての病人が癒される穏やかで幸せに満ちた世界が欲しい」と答えた。

 弟子たちは各々が望む理想の世界を答えたのである。

 スンブル・エフェンディは最後に残った弟子の方を向き、「お前はこの世界をどんな風に変えたいと望むか?」と問うた。
 彼は次のように答えた。
「神以外にこの世をよく知る存在はいないでしょう。私は無力な人間に過ぎない。自己を知る者は神を知るといいます。あれがこうであったら、こうでなかったら、などと一介の人間が言えるでしょうか。神が造った現世のあらゆるものには、きっと意味や英知が込められているのでしょう。ならば、世界はこれでよいのです」
 スンブル・エフェンディはこの弟子の答えに満足し、こう答えた。
「お前は世界の核心(メルケズ)を見つけたのだ。これからお前はメルケズと名乗りなさい」

 メルケズ・エフェンディの「これでよい」との答えは、決してこの世の理不尽をただ受け入れる諦めの感情ではない。人間の弱さを認め、この世を自分の尺度だけで測ることを戒め、あらゆるものを静かに受け止めながら、真理の道を歩まんとする不動の境地を表す言葉なのである。執着心を持たず世界をあるがままに見つめることのできる者が、実は世界の核心をつかみその全てを手にすることができるのである

 第四回
第六回 
スーフィズム入門

白い衣服に身を包んだ男性たちが一定のリズムをたもって旋回し瞑想するスーフィーの静謐な映像は誰しも一度は目にしたことがあるかもしれない。 一般に日本で中東をめぐるイスラームの話題といえば紛争の影や厳しい戒律のイメージがつきまとうが、この「イスラーム神秘主義」と呼ばれるスーフィズムの求道的なたたずまいは門外漢にもどこか安寧を感じさせ、また日本の芸道におけるストイックさに通じるものが香る。 はたして、スーフィズムとはいかなるものなのか? スーフィズム研究を専門とし、現在、イスタンブールで教鞭をとる著者による最新の入門連載をここに贈る。

プロフィール

山本直輝(やまもと なおき)

1989年岡山県高梁市出身。同志社大学神学部卒業、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了。博士(地域研究)。専門はスーフィズム、トルコ地域研究。

現在トルコのイブン・ハルドゥーン大学文明対話研究所助教。主な翻訳に『フトゥーワ―イスラームの騎士道精神』(作品社、2017年)、『ナーブルスィー神秘哲学集成』(作品社、2018年)。

 
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心の境地(1)

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