■問題は装置の中身ではなく表面である
いまや私たちの日常は「操作」に囲まれている。スマートフォンやパソコンはもちろん、家のチャイムが鳴ったときに対応するインターフォンから、レストランやファーストフード店で、タッチパネル式の注文端末、コンビニやスーパーのセルフレジもどれも機械を操作して行う。空港のセルフチェックインから鉄道、バスもICカードをかざすだけで通過できるが、これらも操作の一種である。
フィットネスジムの利用も無人で入館のチェックはQRコードで行われる。食品販売や古着店などの無人店舗も見かけるようになった。かつて、有人の窓口で行われていたさまざまな手続きが、次々とセルフ化されているのだ。
もちろん、今のIT化される以前から切符や飲料の無人の販売機は存在していた。インターフォンもデジタル以前からある。ただ、その大半は操作の単純なもので、使い勝手の良し悪しが語られるようなものではなかった。現代の無人の装置は、もっと複雑なものになった。そして概ね便利な日常を支えてくれるものではあるのだが、これだけ数が増えると、中にはわかりづらく、使いにくいものも少なくない。
紙幣を入れる場所とコインを入れる場所が離れているセルフレジ精算機。水を流すボタンのわからない公共トイレ。解約画面までなかなか到達できないサブスクリプションサービス。パスワード設定に10桁以上・大文字と記号必須という条件を並べてくるウェブサービスの入会画面。あるいは、サッカー中継が観たいだけなのに、毎回「ジャンル」→「国別リーグ」→「イングランドプレミア」→「試合サムネイル」→「試合をはじめから見る」か「途中から見る」のどちらかを選択し、さらにそのあとにも「はじめから見る」というボタンが出るが、そのボタンをキャンセルする動画配信サービス。ちなみに海外サッカーの配信プラットフォームは、放映権の高騰の影響で、数年ごとに契約先が切り替えられるが、その変更のたびに操作法は使いづらくなっている。これにかぎらず、世の中には、まるで改善されない、できの悪い装置であふれている。
■「ユーザーインターフェース」とは何か
人と機械の接点を「ユーザーインターフェース」と呼ぶ。つまり、ユーザーが製品やサービスを操作する際に接する視覚的・操作的な要素の総称がユーザーインターフェース。それが人と機械の間に入って、両者の意思疎通を図る。
私たちが日常的に直面している「わかりにくい装置」にまつわる問題の大半は、機械そのものが悪いわけでも、AIやアルゴリズムが悪さをしているわけでも、市場を独占するプラットフォーム企業の仕業というわけでもない。もっとその手前の段階に理由があるのだ。つまりユーザーインターフェースの失敗によってもたらされている。
だからといってそれが軽視されているわけではない。むしろ、それが多用される時代になり、装置を作るメーカーもデザインを重く見るようになった。ユーザーインターフェースを考える専門家もいて、その人々が設計に加わっているケースもある。人類社会全体のこの領域の知見も増している。
しかし、ユーザーインターフェースの設計には、決まったただ1つの正解のようなものは存在しない。その装置を使う客層や置かれた場所、シチュエーション、タイミング、目的、法規制の有無、などさまざまな要素が絡み合い、そこに置かれるべき正しい装置の操作法に正解はない。完璧ではないにせよ、少しでもましなユーザーインターフェースが用意され、それが人の目や手に触れながら時間をかけて馴染んでいくのが正解なのだろう。
とはいえ、現実では、一旦、世の中にリリースされたら、その装置は簡単には変化しない。それを使う人々も、それが使いにくい装置だとしても、その何が失敗しているのかを把握し、指摘することは難しい。したがって、使い勝手が悪いなと誰もが感じながらも、それが放置され、なんとなくあきらめとともに使われているものも多い。
使い勝手の悪いインターフェースを抱えた装置があふれた世の中では、これらが少しずつ世の中の効率を引き下げ、積もり積もって人々のいらいらの総量を増しているのだ。
■デザインが重視されるようになった理由
そもそも、あらゆる行為にユーザーインターフェース、つまり「機械の操作」が求められるようになったのはいつからなのか。それが社会的に強く意識されるようになるのは、1990年代以降のことである。
インターネットの普及とともに、ウェブサイトやアプリの「使い勝手」がサービスの成否を大きく左右するようになった。AmazonやGoogleといった巨大テック企業はユーザーインターフェースを重視し、設計とテストに多くのコストをかけ始めた。やがて、単なる「操作のしやすさ」を超えて、「使っていて心地よいか」「楽しいか」といった体験全体、すなわちユーザーエクスペリエンス(UX)にまで注目が及ぶようになる。
もちろん、これらを以前から重視してきた企業はアップルである。1990年代までのアップルは、革新的な製品を作りつつも、市場では常に二番手に甘んじていた。状況を一変させたのが、2001年のiPodの登場である。ジョナサン・アイブ率いるデザインチームが手がけたiPodは、ルックスの美しさと「クリックホイール」による直感的な操作性を両立していた。
「コンピュータと音楽プレイヤーは使いやすく見た目も美しくなければならない」
(『偉大な製品を生み出すアップルの天才デザイナー』リーアンダー・ケイニ―、 ジョナサン・アイブ、日経BP)
この考え方は、共同開発者であるスティーブ・ジョブズとも共通する哲学だった。ふたりは日常的に議論を交わし、新製品がどのようなデザインであるべきかということに徹底的にこだわった。その成果は、iPodの成功、そしてiPhoneの爆発的普及へとつながっていく。
「iPhoneは、アプリによって電話にもなり、音楽プレイヤーにもなり、メールやウェブを見るインターネット端末にもなり、さらにそのほかの数多くの用途がある。だからこそ、ユーザーインターフェースやユーザーの体験も含めたデザインがより重要になってきたのだ」
(同前)
このデザインや体験を重視するアップル流の考え方は、テック業界の枠を超えて波及した。企業の中には「UI課」「UX部」などの部署が設けられるようになった。従来の顧客との接点を見直し、そこにデザインや体験といった視点が持ち込まれるようになったからだ。一方、「このUIは使いづらい」「UXが悪い」といった言葉も、専門用語ではなく一般の会話に定着しつつある。
だが、社会全体の機械操作がすべて優れたデザインや体験に置き換わるわけではない。むしろ、日常的に使う機械のなかには、「わかりにくさ」や「誤操作によるストレス」が以前よりも増しているものも多い。ユーザーインターフェースの重要性が語られ、予算も人材も割かれているはずなのに、なぜ使いにくさはなくならないのだろう。
■ワトソンもイライラしたロンドンのセルフレジ
BBCのドラマ『SHERLOCK(シャーロック)』(2010年〜。シーズン1、第2話)では、主人公ホームズの相棒、ジョン・ワトソンがスーパーマーケットでセルフレジの扱いに苦労する場面が描かれる。
セルフレジの前に立ったワトソンは、商品の外装に印刷されたバーコードをリーダーにスキャンするが、レジは反応せず、「エラーです。やり直してください」という機械的な音声が返ってくる。今度はもっと慎重にレタスをかざすのだが、やはりうまくいかない。苛立ったワトソンは「うるさいぞ」と機械に向かって怒鳴るが、後ろにできた行列と隣の客のイライラした表情に気づき、ますます焦りを深める。
何度も挑戦し、ようやく支払い段階にたどり着くが、今度はクレジットカードが拒否され、「使用できないカードです」と表示され、ついに彼は買い物を諦めてしまう。
ワトソンが兵役でロンドンを離れていた3年の間に社会の仕組みはすっかり変化し、彼はそれについていけない。いや、それだけの問題ではない。
このユーモラスに演出された場面には、機械と人間がうまくかみ合わない複数の要素が、見事に凝縮されている。
まず、「エラーです。やり直してください」といったエラーメッセージの音声が問題だ。ブザーであれ合成音声であれ、往々にして音が大きすぎる。「やり直し」の指示が、他の客にまで響き渡るような環境で機械を操作することは、まさに公開処刑に近い。あの瞬間、誰もが「どうぞ」と列の後ろに戻りたくなる。
おそらくワトソンも、自分の番が来る前から手順をシミュレーションしていたのだろう。ここは自分でバーコードを読み取るのだと自らに言い聞かせながら、機械の前に立った瞬間、思いがけず別の動作を要求される。これでペースが狂わされるというのは、セルフレジでよく起こる典型的な失敗のひとつである。
さらには本来、多くの原因は装置側の不親切さや設計の不備にあるはずなのに、使い手の側が「自分が悪いのではないか」と感じてしまう。そして、不満を抱いても、それを先方に返す手段はない。単なるクレーマーか機械音痴だと思われるのが関の山。このやりきれなさこそが、現代の機械との関係における大きなストレスの正体なのだ。
■スーパーマーケットの誕生とその設計
『SHERLOCK(シャーロック)』シーズン1の放送から10数年が経ち、ロンドンに導入されたセルフレジは、全面的に見直されつつある。ロンドン郊外の高級スーパーマーケットチェーン「ブース」は、全28店舗でセルフレジの使用を取りやめた。単に評判が悪かったわけではない。スーパーがそれを取り止めた理由は、ロス率(売上に対する損失率)が上昇したからだ。
セルフレジ見直しのもっとも根本的な問題とされているのは、レジを通さずに商品が持ち出されるケースの多発だ。単純な操作ミスだけでなく、バーコードの読み取りエラーを装った意図的な万引きも含まれる。しかも、発覚しても「うっかりミスだった」と言い逃れがしやすいため、有人レジに比べて不正が起こりやすい。
これらは防犯カメラの設置によって防ぐことができるかもしれない。ただ、それをすると客の満足度は下がる。自分が操作のミスを犯すと犯罪者扱いされるリスクを引き受けてまで、そのスーパーを利用しなくてはいけない義理はない。つまり、セルフレジの設計ミスは、ユーザーエクスペリエンスの失敗なのだ。
こうした問題は、スーパーマーケットの成り立ちを振り返ることで、より鮮明になる。スーパーマーケットが誕生したのは1930年代。当時の商店は、客と店主がカウンターを挟んで向き合う対面販売が主流で、商品は店主の後ろの棚に並べられ、客が手に取ることはできなかった。
それに対して、スーパーは客が商品を手に取り、自らの判断でカゴに入れ、最後にレジでまとめて精算するという仕組みを導入した。その体験そのものが新鮮で、買い物の主導権を握れるというユーザーエクスペリエンスが多くの支持を集めた。
カゴやレジスターといった装置もまた「新しいテクノロジー」だった。人々がスーパーを選んだのは、単に便利だったからではなく、その体験が心地よく設計されていたからでもあった。
それに比べると、セルフレジがバーコードの読み取りといった機械的な操作だけを利用者に強いている点には疑問が残る。快適な買い物体験の一部であったレジのやりとりを切り捨てるだけで、従来持っていたスーパーマーケットのユーザーエクスペリエンスのバランスが崩れてしまった。そもそも、無人レジが導入されることは、スーパーマーケットに新たな体験要素を付け足すチャンスでもあったはずだが、それを誰も考えなかったのだ。
■設計者が陥る「知識の呪縛」
これはある立ち食いそばチェーンの券売機での話だ。その券売機では、商品を選んだあと、支払い方法の選択画面で交通系カードを選ぶと、画面にはウィンドウが起ち上がり、こう表示される。
「端末を操作して処理を完了させてください」
一見、警告かエラーの表示に見えてしまう。本来なら「交通系カードをタッチしてください」という文面にすべきところがなぜか、「端末」「処理」という言葉になってしまった。開発者が身内で使う言葉がそのまま使われてしまった例だ。
同じような例で、トイレの操作パネルに「便器洗浄」というボタンがある。トイレを使ったユーザーは、「水を流したい」と考えるが、「便器洗浄」がそれだとピンとくるのは一部の人に限られるはずだ。ユーザーが思い浮かべるそれとはかけ離れた用語が使われているのは、設計者が頭でっかちになり、ユーザーの考えと乖離してしまっている。組織の外側にまで自分たちのローカルルールを適用させようと無理強いしているのだ。
iPhoneの日本語入力(フリック式)の設計者である情報工学・ユーザインタフェース研究者の増井俊之は、こうしたユーザーインターフェース失敗を「知識の呪縛」という現象と結びつけて論じている*。エンジニアや開発者といったユーザーインターフェース設計者たちは、ときに自分が知っている語彙が他人にも通じているという思い違いをしてしまう。
たとえば「端末」や「処理」といった言葉は、エンジニアリングの現場では一般的だが、一般ユーザーには馴染みのない専門用語である。また、「便器洗浄」といった表現も、製品開発の現場では通用するかもしれないが、ユーザーにとっては唐突に映ることがある。こうした“内輪の言葉”を万人が理解できると誤解したまま設計が進められることが、ユーザーインターフェースの失敗を招いている。
増井は自著の中で、設計者のミスではなく、設計者の意図を汲むことが出来ずに商品化されてしまうケースについても取り上げている。設計者である当人は、操作方法の簡潔さを意図して、機能の数を絞ってプログラムを組んだという。だが、別の行程を担当したプログラマーがよかれと思って手を加えることで、1度外された機能が再び加えられてしまった。その結果、使い勝手の悪いユーザーインターフェースの装置ができあがってしまう。
上司や現場の意見、クライアントの意見が加わるうちに複雑でダメなユーザーインターフェースへと変化してしまうというのはありそうな話だ。
それが起きるのは、人は「意識的に省いてある機能は気付きにくいもの」だから。よかれと思って、人は機能を増やしてしまう。または、現場の運用の側としては、どうしても省けない段取りなどもあるだろう。
*『スマホに満足してますか?』増井俊之
■テプラだらけのコーヒーマシン
かつてセブンイレブンのコーヒーマシンが登場した折に、そのUIと使い勝手が話題を呼んだことがある。シンプルにデザインされたコーヒーマシンには、「HOT COFFEE」「R REGULAR」「L LARGE」と書かれていたが、店舗側が「あった〜い」「ふつうサイズ」「大きいサイズ」と色付きのテプラで補足の説明を加えられていた。
現場でこのマシーンが運用されているなかで、利用者の誤操作が多発し、欠点を補うために店側がテプラを貼って装置の使い方の補足が行われたのだ。たしかに、LARGEの「L」、REGULARの「R」というサイズの表記は日本人には馴染んでいない方式だ。「ふつうサイズ」「大きいサイズ」とテプラのシールで補足したくなる気持ちもわからなくはない。ただし、テプラのシールの量が過剰になれば、本来の機械が誘導する利用法と、店舗が誘導しようとする利用法がかち合い、ユーザーに混乱をもたらすことになる。
このセブンイレブンのコーヒーマシンは、ネットでは「デザインの敗北」と呼ばれることがあった。「セブンカフェ」には統一したブランディングが施されていた。コーヒーマシンもその延長でデザインされたものだったはずだが、視覚的なイメージの統一は図られても、ユーザーの視線誘導や「誰でも操作がわかる」というところまでは踏まえられていなかったということだろう。
「デザイン」には、「設計」や「配置」などを含んだ機能を整えるという側面と、美的造形、スタイリングを整える側面との両方が存在する。スタイリングのデザインは優れていても、機能が足りていないということが容易に起こりえる。「デザイン」という言葉自体が人の誤解を生むところがある。両者の切り分けは難しい。工業デザインとグラフィックデザインは、求められる素養も教育内容も異なる。通常はどちらか片方の専門性に偏ることが多い。
ちなみに、このコーヒーマシンは、その後2019年に2代目に引き継がれ、タッチパネル式のユーザーインタフェースが導入されている。当然、ボタンはデジタルで表示されるため、店舗側がテプラを貼って捕捉するということができなくなってしまった。
■なぜ完璧なユーザーインターフェースは存在しないか
ファミリーレストランや牛丼チェーンなどでも、すでに多くのチェーンが、タッチパネル式のオーダーシステムを導入している。中でも困るのは、トップの画面でいきなりメニューのカテゴリーの選択を突きつけてくる券売機だ。実際には、多くの利用者は、メニューの画面上に映る情報(写真と商品名)を見て、比較しながら注文したい。その前提を許さないユーザーインターフェース。
ただ、これはまだましな方。「季節のおすすめ」と「お店のいち押し」「定番料理」の3択を突きつけてくるメニューもある。この曖昧な選択肢では、お店都合の分類が身勝手すぎる。ユーザーインターフェースは、人と機械、だけでななく、売る側の都合ともバランスをとるものでもある。
店側の身勝手といえば、「ポイントを使いますか?」という問いかけの表示もそう。機械の前に立ち、まずポイントの有無を聞かれるのは、実質、広告を見せられているようなものだ。
使い勝手の悪いユーザーインターフェースは、一定のパターンを共有しているもの。それをからかうドイツのジョークゲーム『User Inyerface』(https://userinyerface.com/)は、ウェブの登録フォームなどでなじみのある、ダメなユーザーインターフェースを集め、イライラする要素を凝縮している。
ゲームは、一般のウェブサイトの登録フォームで求められる一連の煩雑な操作をクリアし、その所要時間を競う。ボタンの配置や警告ウィンドウ、入力条件のわかりづらい不親切に設計されたフォーム画面が用意されている。次のページに進むためのものと思しきボタンが反応しなかったり、クッキーの受け入れのウィンドウは、長い文章を下までスクロールさせたあとでなくては、「Accept」のボタンが押せない。
パスワードとメールアドレスの入力画面では、パスワードは10桁以上、大文字と数字が1つ以上必要、「1つ以上のキリル文字も必要」と警告される。そして、この入力画面に留まったまま1分が経過すると、「急いで」という新しい警告のウィンドウが開く。閉じようと右上のXのマークをクリックすると、逆に画面は拡大してしまう。予測と違ったリアクションが返ってくる気持ち悪さが再現されているのだ。
もっともストレスを感じるのは、それまで入力していたパスワードやメールアドレス、住所などの情報がすべて失われ、最初からやり直さなければならなくなるときだ。
このゲームに出てくる要素は、実際に入力フォームを使っていて、今でもよく見かけるようなケースばかり。誰もが使い勝手のよくないユーザーインターフェースは、共有されているし、それが万国共通であることも、ゲームから伝わってくる。それでも、こうした不人気の入力フォームは、滅びることなく引き継がれていく。人類は、ユーザーインターフェースにおいても反省することなく、失敗を繰り返していることになる。
■カーオーディオが複雑化した歴史的経緯
ユーザーインターフェースを考える上で、仕組みの複雑化という問題も避けて通れない。セルフレジを開発する側にしても、なるべく操作は複雑にしたくないと思っているだろう。ただ消費税だ、ポイント制度だ、定額減税だ、有料レジ袋だ、支払い方式も複数対応しなければならないなど、すべての要素を踏まえて装置を設計しなくてはならない。その規制や対応項目は年々増えていく。業種によってそれらのルールは変わる。開発側も、すべて対応しなくてはならないというのは荷が重いだろう。
ユーザーの負担を減らすユーザーインターフェース装置の取り組みの歴史の一例として、カーオーディオの歴史を振り返ってみたい。なぜカーオーディオなのか。運転中のドライバーは、煩雑な操作を必要とする付属装置は好まない。運転に集中する必要がある。その代表がカーオーディオだ。その歴史は、いかに簡単に扱えるかが重視されてきた。
カーラジオが自動車に搭載され始めたのは1930年代初頭のことだ。最初は手動式のチューニングつまみで局を合わせる仕組みだったが、やがてプリセット式のボタン操作が主流になる。これは、あらかじめ周波数を登録したボタンを押すだけで選局できる仕組みで、視線を道路から逸らさずに操作できるという点においてユーザーインターフェースの進化の重要な意味を持つ。ドライバーの注意力を妨げないことに重点が置かれた設計だ。
オーディオではないが、自動車の運転に直接関わらない装置でもっとも重要なカーエアコンが、1950年代に登場するが、これも操作はごく単純なダイヤル式やボタンのみで動かせるものだった。
1960年代に登場した8トラック・カートリッジは、主にカーオーディオ用途で開発され、エンドレス再生によって操作の手間を省く設計が特徴だった。その後に普及したコンパクトカセット式のテープも、カセットを差し込むだけで再生されるオートプレイの機能が搭載された。当初のカセットテープ再生機は、A面の再生が終われば、表裏をひっくり返す必要があったが、のちにそれを自動化したオートリバースが主流になった。
これら一連の設計には、常に「運転の妨げにならないこと」が優先されていた。ユーザーインターフェースは、車という特殊な環境に合わせて進化していった。
こうした「操作の単純さ」を重視した設計思想に変化が現れたのは1990年代だった。カーナビゲーションの登場により、車内にディスプレーと複雑なメニュー構成が導入され、ユーザーインターフェースの性質が一変した。
■未来の車にワイパーのマニュアル式速度調整は必要か?
日本で「ながら運転」が初めて法規制の対象となったのは1999年のことだった。運転中のカーナビや携帯電話の使用が危険行為として広く認識され、法律があとから追いつくかたちで整備された。2004年には、走行中のカーナビ操作も取り締まりの対象となり、メーカーは目的地入力やテレビ機能などの操作ができないよう、制限をかける設計を導入していった。
しかし、販売の現場では、こうした制限を解除する「カーナビキャンセラー」が広く流通するようになった。名目上は「同乗者用」とされていたが、実際には運転中の操作を可能にする装置であり、「運転の妨げにならないこと」を前提とした従来のカーアクセサリーの前提は、次第に揺らぎはじめた。
こうした議論は日本だけでなく、世界各国で共有される課題となっている。そうしたなかで2012年に登場したテスラの「モデルS」は、車のインターフェースをめぐる考え方に一つの大きな転機をもたらした。17インチの縦型タッチスクリーンを中心に、ナビ、オーディオ、空調、バックモニターなど、ほぼすべての車載機能を一つの画面に統合。物理的なボタンを極力排除し、操作を画面上に集約する設計が貫かれている。
テスラが導入したこのインターフェースは、あからさまにスマートフォンに近い感覚を車内に持ち込む試みだった。従来の自動車の常識という枠組みにとらわれない自動車作り。iPhoneの操作に慣れた人々に向けて作られた車という意味では斬新だが、安全性の面ではいくつかの課題も抱えている。
たとえば、ワイパーの操作にも従来のそれとは明らかに違う変更が加えられている。テスラ車ではワイパーの起動は物理レバーで行えるが、動作間隔の調整はタッチパネル上で設定する必要がある。これには視線の移動と画面操作を伴い、運転中の負荷が高くなる。2019年には、ドイツでワイパー操作中に事故を起こしたドライバーが裁判所から罰金と免許停止処分を受けた事例もある。
テスラが見据えているのは、「AIアシスト」ではなく「完全自動運転」の普及であり、イーロン・マスクはすでにテスラをEVメーカーとしての発展ではなく、ドライバーレスの無人タクシーの会社にすべく転換を進めようとしている。判断や操作の大半をコンピューターが担う未来において、ユーザーインターフェースの設計思想も根本から変わらざるをえない。
機械と人間の翻訳であるはずのユーザーインターフェースは、むしろ機械と人間の断絶面になり得かねない。
■人の関与を前提としないインターフェース
完全自動運転車が一般化すれば、自動車に求められるユーザーインターフェースは従来の発想とは大きく異なるものになるだろう。人が操作するための入力装置、情報を得るための計器という関係性で作られたユーザーインターフェースの設計意図が無意味になる。
例えば現在の車にも広く搭載されている衝突被害軽減ブレーキ(いわゆる自動ブレーキ)のように、前方の危険をセンサーが検知し、システムが即座にブレーキを作動させる機能には、もはや人間の判断を挟む余地がない。
また、今後の交通環境においては、人が関与すること自体が事故のリスクそのものとなり、あらゆる操作は機械に任せた方が安全という見方が強まっていくだろう。そのとき、ユーザーインターフェースに求められるのは、「人間の介入を最小限に抑える」ためのものになる。つまり、AIが自律的に判断して行動するようになれば、人が操作するという前提自体が消えていく。これは、自動車の話だけでなく、さまざまな分野でAIが自律的に判断して行動することが当たり前になれば、あらゆる無人の装置が、人の操作を前提としたものではなくなっていく。もちろん、優れたユーザーインターフェースは、それを意識させない透明な存在に近づいていく。
これを踏まえるとテスラが採用するワイパーの作動の間隔の操作を軽視する考え方も理解できる。雨滴を検知するAIの精度が向上すれば、人間による操作は必要なくなる。その先には、フロントガラスの視界確保自体が不要になる可能性すらある。AIだけが情報を検知し、対処すればいいからだ。
人の操作を前提として発展してきたユーザーインターフェースは、完全自動運転の時代に終わりを迎える。近い将来、運転者が行う唯一の操作は「目的地の指定」だけになるかもしれない。ついに車のインターフェースはスマートフォンと見分けがつかなくなっていく。それこそがテスラのイーロン・マスクが考えていたことだ。
このように見ると、現代の無人操作のユーザーインターフェースは、過渡期に立たされている。まだ、中途半端な段階ゆえに、使いにくいと思える装置にたくさん出会う。これらは、人の関与の余地がたくさん残っている装置である。だが、これらもどこかで、人間の関与のほぼない装置へと変化を遂げる。これから、すべてを自動化に委ねるのか、それとも人の判断を一定程度残すのか。その判断を下すべき時期が来るとして、判断を誰が下すのは、ユーザーなのかメーカーなのか、それとも機械自身なのか。われわれは、それすらも曖昧になりつつある世界の境界の上に立っているのだ。
(次回へつづく)

20年前は「ゲーム脳」、今は「スマホ脳」。これらの流行語に象徴されるように、あたらしい技術やメディアが浸透する過程では多くの批判が噴出する。あるいは生活を便利なはずの最新機器の使いづらさに、我々は日々悩まされている。 なぜ私たちは新しいテクノロジーが生まれると、それに振り回され、挙句、恐れてしまうのか。消費文化について執筆活動を続けてきたライターの速水健朗が、「テクノフォビア」=「機械ぎらい」をキーワードに、人間とテクノロジーの関係を分析する。
プロフィール

(はやみずけんろう)
ライター・編集者。ラーメンやショッピングモールなどの歴史から現代の消費社会について執筆する。おもな著書に『ラーメンと愛国』(講談社現代新書)『1995年』(ちくま新書)『東京どこに住む?』『フード左翼とフード右翼』(朝日新書)などがある。