コロナ禍を経て、急速な成長を遂げたゲーム産業。e スポーツの浸透やYouTubeにおけるゲーム実況のブームのみならず、米大統領選のキャンペーンに「どうぶつの森」が用いられたり、オリンピックの開会式にゲーム音楽が使用されたりするなど、その影響力は現実の社会にも及んでいる。
そうした状況を受けて、批評家の藤田直哉氏は、大人気ゲームの読解を通して、陰謀論、分断、叛乱、新自由主義、家族といった重要なテーマを考える新書『ゲームが教える世界の論点』を上梓。
本記事では、SF作家の柴田勝家氏と対談。後編では現代のゲームが放つ社会的なメッセージの切実さと「ゲーム的な感覚」が今後人類にもたらす影響を考える。
「自分の好きなものだけを見ていたい」という欲望とどう向き合うか
藤田 この間Netflixで配信されているアニメーション『攻殻機動隊 SAC_2045』を観たのですが、ゲームと人間の関係を考えるうえで非常に示唆的な内容でした。その世界では大きな格差が生じて分断が激しく、人々が思想の違いなどで衝突し合っていて、テロや戦争が起きている。それを何とかするために14歳の男の子が革命を起こす話なんですよね。で、彼がどうしたかっていうと、みんなに違う夢を見せる。自分に都合のいいゲームのような世界を夢として見せつつ半ばゾンビ的な状態として生きるようにして、それを大規模なコンピュータでコントロールして社会を運営する、それで社会は調和するし、個々の願望もかなうし、屈辱も贖われる。そういう未来を作ればいいんじゃないかという提案があるんです。
つまり、格差が生じたり、負け組が生じたりするということが防げないんだとしたら、負けた人たちにも自分たちは勝ってるという、あるいは、自分たちの思いどおりのことが実現したという夢を見せればいいという。これ、僕、アニメの作り手が自己言及してきたっていう感じがしてて(笑)。アニメってそういう風に機能しているよね、そういう存在意義があるよね、っていう話にも見える。シニシズムがすごいなと思ったんですよね。
柴田 すごいですね。みんな好みの夢を見ているだけですか(笑)。
藤田 でも、現実もそうじゃないかと思うんですよね。たとえば、誰もが一位や勝者にはなれない。勉強でも、恋愛でも、社会的地位や年収でもそうです。でも、ゲームの世界では、自分が有能な存在で「無双」したりモテモテであると錯覚することができる。それによって、一時的に現実を忘れて、なんとか生存を維持しているような部分もあると思うんです。
柴田 それに近いことを『ヒト夜の永い夢』(ハヤカワ文庫JA、2019年刊)で書いた気がしますね。作中だと、各々の見る夢を好き勝手に見る、自分が一番楽しい夢を見るだけの社会が訪れるという考え方の敵を登場させました。それに対して、主人公も過去にそういうことを考えていたから、そういう社会も悪くない、いいかもしれないと一瞬は思うわけです。でも、現実世界があるんだから、結局はそこに接続して生きなくちゃいけないんだという、すごく人間臭い結論に至るんですよ。例えば、ゲームをめちゃくちゃ遊んでいても、お母さんの一言で現実に引き戻されるように。とはいえ、この言い方も象徴としての懐かしさを含んでいるんですが(笑)。そういう何か、現実から引き戻される因縁があるから、夢を見ていてもいいという結論に至ったことがあります。
藤田 面白いですね、結局は現実に引き戻されるから、むしろ夢を見ていていい、というのは。最近、ぼくも40歳に近くなってきて、いわゆる「サブカル鬱」が分かるようになってきたのだけど、ゲームにいくらハマってその世界にいたとしても、老いが容赦なく訪れて、心身がぼろぼろになっていくという現実があるわけじゃないですか。だんだん年取ることで目がもたないとか、腰が痛いとか、四十肩になるとか。
柴田 (笑)。現実が襲ってくるわけですね。
藤田 「ザ・リアル」ですよ(笑)。世界が全部ゲームになってしまったらいいとか、自分の好きなものだけを見てたいっていう欲望は、世界的に先進国の中で普遍的な欲望になっていると思っています。ぼくもそう思うし。苦労なく美少女にモテモテになりたい、とか(笑)。
昨年夏に公開されて大ヒットした『ONE PIECE FILM RED』もそういう欲望のメタファーですよね。作中ではウタというバーチャルアイドルを世界中の貧しかったり、大変な境遇の子どもたちが応援していて、彼女はその子たちの夢をかなえるために、信者たち全員に一度死んでもらって、バーチャルの世界に魂だけ行かせるみたいなことをやろうとするわけですが。そういう集団自殺、アセンション的なものを主人公のルフィたちが止めるという話なんだけど、それは現実世界はキツいからゲームの世界に生きたいっていう欲望と同じなんだと思うんです。「異世界転生」的な。学生と話していると、この現実世界よりも、ゲームの世界の方が「真の世界」だと主張する学生もいたりします。ここで「倒錯だ」と言いたくなるのもよく分かるけど、その前に、立ち止まって、その感覚を内的に理解しないといけないと思う。
それが小学生たちも見るような作品で描かれていて、しかも大ヒットしてるっていうのは驚くんですよね。現代のゲームとかメタバースとかVTuberみたいな、理想的な世界に移行したいという願望を抱くことの問題を、わかりやすく小学生に向けても言わなきゃいけないと作り手が思ってるからこういう作品が出来るわけですよね。
今のゲームだってそうなっているわけですよね。家事とか、歯磨きとか、やりたくない、つまんないことをわざわざプレイさせたりする。そうすることで現実に慣らさなきゃいけないと、今の作ってる人は思っているんじゃないですかね。『ゲームが教える世界の論点』で言えば『ゴッド・オブ・ウォー』とかも、主人公の子どもが全然言うことを聞かないで、すぐに調子に乗ってしまうんですよ。でも現実ってそうじゃないですか。他者というものは思いどおりにならないということを教えようとしているんですよね。
柴田 どうにもならない他者っていうのは、確かに今、大事な視点だと思いますね。
藤田 どうにもならない他者の究極が、世界の戦争とか気候変動ですよね。世の中が深刻になればなるほど、我々はそれを見たくなくなるわけですよ。東浩紀いわく、おたく文化の特徴っていうのは、現実社会のことを忘却させることにある。あるいは、四方田犬彦が言うには「かわいい」文化というのも、現実のそういうものをシャットアウトした擬似的なユートピアを作り上げる機能を持っている。
現実世界が大変になればなるほど、自分が遠くになればなるほど、それから目をそらしてそこにはまりたくなるっていうのが現代の依存症的な社会の基本のモードだとは思うんですが。しかし、現実は現実であるわけじゃないですか(笑)。
柴田 どうしようもないものはあるわけですよね(笑)。
藤田 ゲームが社会問題とか世界の問題に、我々の目を向けようとしているのは、そういうオタク文化の性質が、危険だと作り手が切迫感を持っているからだと思う。これから訪れる世界を予測した上で、我々の価値観や文化に対して「こうしなきゃならないよ」と伝えようとしている、影響を与えようとしていることの表れだと思うんですよね。ちょっとぐらい過激な方法を使ってでも、目を向けないと、本当に危険なことになると思っている。
柴田 今、大学生とか20代の人が成長して社会の中枢側になった時に、恐らくそういったゲームで感じたものは残っているはずですよね。特に、現代ゲームにおいて描かれるどうしようもない他者を扱ってきた経験が全く生かされないということはないと思います。逆に、ゲームないし、V Tuberとかアイドルとか、色々なものにハマって大変な人もいるとは思いますが、うまく付き合えている人ならば今後役立てられると、ワシは思っています。
藤田 「推し」によって生活が崩れてしまう人を描いた『推し、燃ゆ』などが話題ですが、バランスが大事ですよね。
柴田 バランスの取り方はこういった本を読んでもらって(笑)。
藤田 (笑)。
柴田 実際にそうだと思うんですよね。ゲームを遊ぶというのはあくまで個人的なことで、フィードバックはどこにもないじゃないですか。そういう時に、この本や元になった連載(IGN JAPAN「SF史に残る(べき)ゲームたち」)とかがすごく手助けになるとは思います。ゲームに対する他の人の目線、見方を得て、自分もゲームに触れていくことでバランスを養っていければって思いますし。なので、こういう記事ないし新書がたくさん出たほうがいいとはワシは思いますね(笑)。
現実世界をゲーミフィケーションが侵食することの問題について
藤田 本を読んだり評論するっていうのは割と近代的な行為ですよね。マーシャル・マクルーハンが言うには、近代的自我というのは本を黙読するという経験によって構築されるという話でした。理性的に頭の中で思考して、熟考して、何か考えて判断する。で、そういう主体同士が対話をして、市民社会なり民主主義が成立するという前提があるんですよね。
でも、人間の脳の可塑性を踏まえると、本や文章を読むのではなくて、ゲームやSNSを中心とした生活を続けていると、そういう近代的人間のモデルからは離れていくように思うんですよ。その結果として、現代では近代的な思考や、それを前提とした市民社会、民主主義が崩れかけてるように見えるのだけど、それに伴う問題っていうのはたくさん出てきてるような感じがするんですよね。
柴田 そうなんですよね。
藤田 そのことをもっと全的に考えて議論して、組み立て直す必要があると思うのだけど。我々も色々なデジタルテクノロジーやソーシャルゲームにハマらされているじゃないですか。その結果、近代のような人間とは違う状態になっている、自分はゾンビみたいになっているなと思う時がすごくある。ポストトゥルースや情動政治は、こういう主体の状態だったら、なるべくしてなるなって感じが、自分自身でよく分かります。
柴田 やっぱり考える時間を取る、それは別にゲームの最中でもいいんですけど、ふと立ち止まってそれを咀嚼する時間さえ取れれば、うまく付き合えるとは思うんですけどね。それは本や記事を読むこともそうですし、自問自答したり、友人と話すことでもいい。とにかく、過集中してはいけないというのは本当に思いますね。でも、過集中しちゃうわけで(笑)。
藤田 やっぱりハマることの問題性ですよね。Qアノンを見ていると、あれはもうみんなハマっていると思うんですよ。
柴田 あれは絶対ハマっていますね。
藤田 みんなで、これはあいつの陰謀だ、この言葉には実はこういう意味が隠されているんだ、おぉ繋がった、これが真相だって、絶対脳汁が出ますよね。ゲームやってるときの気持ち良さと同じですからね。
柴田 あれは本当にオンラインゲームの謎解きイベントみたいな感じですよね。
藤田 リアルタイムRPGとか、拡張現実ゲーム、あるいは政治のゲーミフィケーションだといわれていますから。ただ、「ゲーム」は「ゲーム」なんだけど、ゲームデザインが良くないなって感じるんですよ。ゲームだったら答えが間違っていたらシステムを通じてちゃんと間違っているって出るじゃないですか。でも現実では、仮に間違っていても、誰もそれを教えてくれないで、むしろ陰謀が無限後退していく。
柴田 間違ったまま突き進んでいますよね。
藤田 しかも、ゲームって要するに我々を接待してくれるものであって、その前提で仮想的な有能感、自分が天才であるという感覚を与えてくれるものですよね。そうではない、過集中のまま、間違ったまま、現実でそういう感覚を得ているのだとしたら……
柴田 恐ろしいですね。
藤田 これはちょっと危ないなという感覚を、Qアノンとか、そういったネット上のゲーム的な運動には感じるんですよね。昔からフランス革命とかは、演劇とかフィクションの影響も受けたわけですから、フィクションにわれわれは煽られるし、フィクションによって構築された行動スタイルっていうのは踏襲しちゃうんだと思うんですよ。それは僕自身もそうだから(笑)。
柴田 そう。やったら楽しいんですよ。両方が影響し合っているんだとは思いますけど、ゲーム的に楽しいものを現実に持ち込んだら楽しいのは当然で。でも、ゲームにはルールがあるじゃないですか。それが蔑ろにされているのが良くないのかもしれませんね。
藤田 ルールを破る、チートをするみたいなのが現代の資本主義の中の勝利の仕方とされていて、そういう人がもてはやされますからね。ルールを逸脱し、裏を掻いて、未知の領域に突き進むゲーム特有の面白さもありますからね。
柴田 そういうことなんでしょうね。
死や生々しい現実がテクノロジーによって美化された世界
藤田 実はこの本を書く中で消滅させた章があるんですよ。本の最後では、ドラクエなどを例に出しながら、現代の家族と生命の神話を提示しているゲームの話を書いたのですが、その前後に「セックスと死と生殖」みたいな章を入れようと思っていたんです。でも、うまくまとめることが出来なかったんですよね。
柴田 どうしてそのようなことを書こうと思ったんですか?
藤田 性と死というのは、神話を通じて政治と関係しますよね。『古事記』なんかそうだけど。要するに、自己の生と死の意味付けの装置を人間は必要としてしまうわけですよね。例えば、同性愛を反対する人たちがいるけど、あれは生殖によって長く続く「家」みたいなものがアイデンティティの基礎になっているから、それが崩れることに恐怖を感じていて、それはダイレクトに政治思想に繋がっている。リベラリズムは神話や宗教を、公的領域と切り離す思想になっていますが、このタイプの人には大変嫌われてますよね。
だからこそ、この現代の文化戦争の問題にちゃんと関わるためには、性と生殖、再生産の問題に踏み込まなきゃいけないと思ったんです。だから、家族の神話を扱う前に、二次元のキャラクターを好きになる人や、ピカチュウに生命を感じる感覚があるのに対して、人工生命体そのものが自立的に生きているというテーマを扱った作品の章を入れようと思ったんです。
性、セックスと再生産、死と神話、欲望のようなものをちゃんと公的な議論に載せることが、現代の社会的な分断や動乱を交通整理するために必要だと思ったんですよね。
柴田 確かにみんなが見たくないものとして扱っている部分は多いですね。性もそうですけど、死も見たくない。すごく個人的なものにしてしまっているかもしれませんね。
藤田 「恐怖管理理論」というのがあるのだけど、経血のように生々しい女性の身体を思い起こさせるものがなぜ嫌われるかというと、我々が死すべき存在であることを思い起こさせるからであると。人間が文化や宗教、神話を必要とするのは、自分が不死の存在であると思いたいからであるみたいなことを言っていて。逆に、死を思い起こさせるものは、なかったことにさせられるんですね。
ゲームの快楽には現実世界のような死や生々しいものがない。そこが良いわけじゃないですか。それを忘却させ、不死性の幻想を与える装置なわけで、神話とか宗教の機能的な代替物の側面がある。それは現代ではどう機能しているのか、あるいは、どう機能させるべきなのかということを論じたかったんですよね。柴田さんってそういったテーマに突っ込みまくってますよね?
柴田 めちゃくちゃ突っ込んでいます(笑)。
藤田 それはそもそも何故なんでしょうか?
柴田 基本的にきれいなものじゃなくていいという感覚があって、その上で、それを受け入れるための過程、つまり葬送儀礼といった死を受け入れるために生きる側の人々がする行為全般、それが文化としてすごく重要だと思っているんです。個人的に葬送の文化自体も好きですし、いかに人間がそれを考え出して、死に向き合ってきたのか自体を考えると、壮大なものを感じるんですよね。だから、ワシもそれを描きたいんです。
藤田 多分、人類ってそもそも死に向き合うのが嫌だったわけですよね。死体そのものが腐ってくるし、自分の死を考えてしまうから。花を添えたり、お墓を作るっていうのは、ある種、死を美化したり抽象化するということですよね。
柴田 本当にそうだと思います。
藤田 僕も美とは何かということを考えていて。死者が生きているとか天国があるというのも、ある意味では美化みたいなもので、人間は死やセックスを美化するんですよね。ここには結婚や恋愛も含むんですが、結婚式ってきれいな格好をするし、すごく華やかに実施される。でも、あれは要するに生殖を美化するわけですよね。
柴田 そうですね。古い部族の結婚とかでも、華やかに花を撒いたりするわけですが、結局はこれから子孫が増えるということへの祝福ですからね。
藤田 何故そんなに美しくする儀礼が必要なのかと考えると、そこにポジティブなイメージをもたらさなきゃいけないからですよね。合理的に考えたら、セックスなんて生臭いし、恋愛も結婚にもネガティブな側面はあるわけで、あまりにリアリズムで表象しすぎたら、みんなやらなくなるはずなんですよ。だからこそ、社会の存続のためにもきれいなイメージを持たせる必要があった。生きることだって、単に人生には何の意味もなくて結局はすべて消えるなんて、そんな科学的、合理的な考え方では、多くの人は耐えがたいわけですよね。
柴田 でも、ゲームに限らずではありますが、そういうものを美化しまくるわけじゃないですか。
藤田 それが、人類が「文化」を生み出す根源なのかもしれない。そう考えると、ゲームは我々の文化の正嫡であることは間違いがない。しかしながら、その世界に浸りすぎると、ままならない「この自分の身体」や、老いや死のリアリティを受け止めにくくなるかもしれない。理想と現実のギャップに、鬱になったり、現実逃避したくなったり、ギャップに苦しむ人も増える。こういう時代だからこそ、もう一回美意識について考えた方がいいだろうし、ゲームがどう機能しているかも考えなきゃいけない。それが覆い隠しているはずのものをどう受け止め直すかみたいなこともちゃんと考えないとまずいのかなと、何かそういう感じがするんですよね。「性」「生殖」「死」「神話」が、デジタルでバーチャルなメディアと習合してどうなっていくのかみたいな話は、根源的な部分で現代の生を捉えるために必要だと思うんだけど、まだそれは乏しいように思う。柴田さんのような作家が、直観と作家的想像力で手探りしている領域の先に、それが見えてくると嬉しいなと。
(取材・構成:ノイ村 撮影:内藤サトル)
プロフィール
藤田直哉(ふじた なおや)
批評家。日本映画大学准教授。1983年、札幌生まれ。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。著書に『虚構内存在』『シン・ゴジラ論』『攻殻機動隊論』『新海誠論』(作品社)、『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)、『娯楽としての炎上』(南雲堂)、『シン・エヴァンゲリオン論』(河出新書)、『ゲームが教える世界の論点』(集英社新書)、『百田尚樹をぜんぶ読む』(杉田俊介との共著、集英社新書)ほか。
柴田勝家(しばた かついえ)
SF作家。1987年東京生まれ。成城大学大学院文学研究科日本常民文化専攻博士課程前期修了。在学中の2014年、『ニルヤの島』で第2回ハヤカワSFコンテストの大賞を受賞し、デビュー。他の著作に『クロニスタ 戦争人類学者』『ヒト夜の永い夢』『アメリカン・ブッダ』『走馬灯のセトリは考えておいて』(ハヤカワ文庫JA) 、《心霊科学捜査官》シリーズ(講談社タイガ)などがある。2018年、「雲南省スー族におけるVR技術の使用例」で第49回星雲賞日本短編部門受賞。2021年、「アメリカン・ブッダ」で第52回星雲賞日本短編部門を受賞。戦国武将・柴田勝家を敬愛する。