──荒木さんにとって批評的な作品とは“浮気の結果”ということなのですか?
荒木 その“浮気”という言葉を強調されるといささか語弊がある感じがしますが、いやらしい言い方をすれば、有島研究だけで自分の言葉を組み立てていくのは書き手の戦略として不利だろうな、ということは言えると思います。
今日の多くの読者にとって有島武郎という固有名はなんの訴求力ももっていません。「白樺派って学習院の貴族っぽい奴らでしょ? お上品な趣味ね」で終了なわけです。その前提に立った場合、有島武郎論を出すことは本当に難しい。読者がおらず、当然、出版社の編集会議で企画も通すことができない。研究対象によってフックをつくれないのは大きなハンデです。
そう考えてみると、念願の有島論を書かせてもらえる書き手に育つまでには、いくつかのステップを踏む必要があるといえるでしょう。客観的に言えば。たとえば、有島ではなく「荒木優太」という著者の固有名に付加価値をつける、そしてこれを欲するのならば、専門性を諦め、「在野研究」という研究スタイルに関する間口の広いアウトプットを出す必要がある……みたいなね。別にすべての著述活動を意識的にコントロールしているわけではありませんが、いま振り返ってみれば、私の活動と有島の名が紐づけされていない現在の状態は、戦略的には賢い、といえるかもしれませんね。
──つまり、評論を執筆する批評家としての活動は、あくまでも有島論を書くための戦略だということですか?
荒木 そもそも、私は批評家としてのアイデンティティをまったく持っていません。研究者としての自覚はないわけではないくらいにはありますが、批評に対するこだわりはありません。現代日本語の「批評」という言葉は、非常に狭い業界での振る舞い方を指すので色々と面倒なんですよ。それに重きを置かれるべきは批評的なテクストなのであって、これさえクリアできるのならば、批評家になるならないという話は非常に些末な論点です。だから自分のことを「批評家」あるいは「評論家」だと自己紹介することもないのです。他人から呼ばれたさいは、いちいち訂正するのも面倒くさいので引き受けますが、自分からはほぼほぼ言わないですね。まあ、引き受けたからといって特に不快になったりもしませんが。
──それにしては切れ味のある批評を書いていますね。
荒木 それは私が近代日本文学をよく勉強しているという、そういうことなんじゃないですか。つまり、対象に迫るときの切り口だとか文体だとか、しばしば論理的な弱さをチャーミングなポイントで使うと、ある種の作法に慣れ親しんだ人々はそれを「批評」的だと理解するんですよ。文学史にあるそういうパターンをそれなりに読んできた経験がどこかに蓄積されてるんじゃないでしょうか。
──全部、計算づくだということですね。恐ろしい……。
荒木 いえ、というよりも、結局、誰も私の専門性なんてリスペクトしないので、その状態でもし書き手として生き残りたいのならば、使えるものを使っていくしかない、という非常に泥臭い話ですよ、単に(笑)。
プロフィール
1987年東京都生まれ。在野研究者。2015年、「反偶然の共生空間──愛と正義のジョン・ロールズ」が第59回群像新人賞優秀作に選ばれる。著書に『これからのエリック・ホッファーのために──在野研究者の生と心得』(東京書籍)、『仮説的偶然文学論』(月曜社)、『無責任の新体系──きみはウーティスと言わねばならない』(晶文社)などがある。最新刊は『在野研究ビギナーズ──勝手にはじめる研究生活』(明石書店、編著)。