「平和の少女像」をめぐる圧力
一方、自国の加害の歴史を争点化し、政治的に矮小化しようとしているのが日本政府の現状と言えるだろう。日本軍が関与した慰安婦の問題でその傾向は顕著になった。1997年「新しい歴史教科書をつくる会」と「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(故・安倍晋三氏が事務局長)が誕生。「慰安婦の記述を教科書から削除せよ」「自虐史観」と攻め立てた。政治的流れはいま外務省が「歴史戦」と称する行為に加担する事態にまで発展している。
ベルリン市ミッテ区では、地元のコリア協議会が中心になり、2020年9月に平和の少女像が公園に設置された。日本政府(外務省)は、旧日本軍が組織的に設けた慰安施設で兵士のために性接待を強いた「慰安婦」について、朝鮮半島からの募集は女性たち本人の意志に反して行われ、軍も関与したのは認めるが(1993年河野談話)、「強制連行の証拠はなく」「性奴隷ではない」と主張する。
ミッテ区の公園にある少女像は、許可期間の2年を過ぎ、その後も容認されていたが、今月中に撤去するよう要求されている。その背景に日本政府と駐独大使館のベルリン市に対する「圧力」があることを現地で頻繁に耳にした。
上川陽子外相(当時)は来日したベルリン市長と面談し、以前から政府が要求していた解決の見返りに日本企業の経済支援を約束した。在独日本大使館がベルリン映画祭の関係者や少女像近くにある地元の学校にも接触していたという。「政治圧力」が国外で堂々と教育現場にまで及んでいることは衝撃でしかない。政治目的のため手段は選ばずでよいのか。日本という国の品位を貶めているのではないだろうか――。
産経新聞は10月7日付の社説で「少女像の台座には英語で『第二次大戦中、日本軍は少女や女性を強制連行し、性奴隷にした』などと記されている。事実無根であり、日本を貶める意図は明らかだ。」「平和や人権にかこつけ、虚偽を広めないでもらいたい」と撤去の実現を強く主張している。
柳秀直駐独全権大使は、9月20日のベルリンからの離任会見において、ネット中継のカメラを切った後に「一部の韓国人が日本への恨みをドイツに輸出している」と述べた。会見を聞いた知人を通じこの発言を知ったが、カメラを切った後というのは姑息ではないか。外交官が官邸や自民党を向いてポイント稼ぎしているとしか私には思えない。
教科書に目をやれば、「国史」と称する令和書籍の中学歴史教科書が初めて検定合格し、慰安婦について「蒸し返された韓国の請求権」と題するコラムで批判する。皇軍を称賛したい人たちは兵士の恥と言える慰安婦の存在を消し去りたいのだ。女性の人権より軍隊や国家を優先させたい政治勢力はミソジニーの傾向を持つ。
ベルリンで民泊先になってくれた元小学校教諭イレーネ・ヴァインゲルトナーさんは、自身の母親や叔母から隣人だったユダヤ人が絶滅収容所へ送られたり、障害のある子が安楽死させられたりした過去を耳にしている。だからこそ平和教育に心を砕いてきたのだ。
近くの公園を一緒に散策した時、「こうして人々が平和を祝っている様子を見ていると、他の国で戦争があることを思い出す」と複雑な心中を語ってくれた。地元シェーネベルグ区役所は、区民であったユダヤ人6000人の追放カードを掲示し、彼らの人生をアルバムで紹介する常設展を設けている。隣人だった人々が公的に記録されている。一部の日本的思考で言えば、「自虐史観」にあたるのだろうか。
極右政党の大躍進、イスラエル全面支持…
ベルリンに滞在中、チューリンゲン州選挙で極右政党AfD「Alternative furDeutchland=ドイツのための選択肢」が大躍進し、州で第一党になった。AfDの州代表が元歴史教師と聞いた時は驚いた。戦後教育への反発なのだろうか。ドイツ全体も右傾化が進んでいる。国境に近いエリアから国粋主義は広がると言われるが、軍事拡大路線の最前線にあたる沖縄・南西諸島の小さな島々でも同じ現象が起きている。「島にもう民主主義はない」「心が占領されている」と抵抗の声をあげる島民を私は知っている。
文化政策においても「反ユダヤ主義」とみなすものを排斥する空気がドイツを覆い始めている。ガザ虐殺に反対する声を封殺する警察権力の動きがあり、パレスチナを支持する人々への抑圧が起きている。一方、昨年のハマスによるイスラエルへの攻撃があった10月7日以降、地域の小さなユダヤ人慰霊碑や展示が破壊される事件が相次いだ。1992年に一人の芸術家が始めた「躓きの石」──10cm四方の真鍮のプレートに、ユダヤ人の名前、生まれた場所、亡くなった年と場所などが刻まれ、市民が追悼のために出資して埋めている。計10万個近くある──が、地方の小さな町で無残にも掘り返される事件も起きている。
政治家の資質を吟味せよ
敵か味方か、国のために役に立つかどうか、短絡的な対立軸や二元論で色分けする圧力が社会を覆う。ドイツ政府は「自衛」戦争を続けるイスラエルを全面的に支持。アメリカに追随する日本政府も同じである。
権力からの威圧や武力による「圧」の高まりに対し、そんなのはうんざりだと心にシャッターを下ろし引きこもりたくなる日がある。いやシャッターを下ろしたくても下ろせない人たちが大勢いる。風通しのよい空気に変えるには、ひとりひとりが行動を選択するしかない。何もしなければ、流されて「圧」は強まるだろう。現在進行形の「圧」に向き合う小さな一歩と言えば、戦争という歴史の記憶を呼び起こす努力をそれぞれ地域で続けるしかないと思う。人間は崇高な芸術を生み出すこともできるし、殺戮行為や大きな犯罪を容認してしまうこともある。戦争に抵抗した人々の小さな歴史を掘り下げていくことがブレーキになるのではないか。
「100年前に戻ったみたいだ」とあるドイツ人は言う。「時計の針が逆戻りしている」「和解の努力ができたはずなのに私たちは失敗したのか」とベルリン生まれのイレーネさんは嘆く。ドイツが失敗したのなら日本はどうだろうか。虐殺という苦難を歩んだイスラエル人が隣人への虐殺を繰り返し、パレスチナでもイスラエルでも個人の尊厳は無視されている。対岸の火事ではない、新たな軍拡の時代が到来している、こう警告されていると強く感じる。
10月27日衆議院選挙は、自公政権が過半数を割る結果になった。ドイツでは連立政権の枠組みが崩壊し、来春までに総選挙が行われる。アメリカではフェイクやヘイトを政治目的のために操るトランプ氏が大統領に返り咲く。世界中に激震が走っている。
自由を妨げる圧は危険なシグナルである。国家が威圧し合う時代だからこそ、政治家の知性と人間性が社会を左右する。権力を暴走させない資質があるか、普遍的な道理や平和を重んじる勇気を持っているのか、身近な政治家たちに対し、それぞれが吟味するほかない。
プロフィール
1987年毎日放送入社。報道記者などを経て2015年からドキュメンタリー担当ディレクター。企画・担当した主な番組に、『映像'15 なぜペンをとるのか──沖縄の新聞記者たち』(2015年9月)、『映像'17 沖縄 さまよう木霊──基地反対運動の素顔』(2017年1月、平成29年民間放送連盟賞テレビ報道部門優秀賞ほか)、『映像'18バッシング──その発信源の背後に何が』(2018年12月)など。『映像'17教育と愛国──教科書でいま何が起きているのか』(2017年7月)は第55回ギャラクシー賞テレビ部門大賞を受賞。また個人として「放送ウーマン賞2018」を受賞。