【告発】大島渚監督の映画『絞死刑』のシナリオ盗作疑惑に迫る

映画『よみがえる声』朴壽南監督・朴麻衣監督が語る(後篇)
ヤンヨンヒ

8月2日公開のドキュメンタリー映画『よみがえる声』(朴壽南監督・朴麻衣監督)が、連日大入り盛況で話題を呼んでいる。

本作の中で、大島渚監督の映画『絞死刑』(1968年)の原案は、朴壽南(パク・スナム)監督が出版した往復書簡集(『罪と死と愛と』)であることが明かされる。『絞死刑』では、殺人事件を犯した在日朝鮮人の死刑囚・李珍宇(イ・ジヌ)が「R」として登場し、李珍宇と交流を続ける朴壽南監督(としか思えない女性)が「女」「姉さん」として描かれる。

信じがたいことに、大島渚監督や脚本家(大島を含む4人の連名)は朴壽南監督からまったく許諾を得ることなく、往復書簡集を勝手に利用して映画を製作した。

映画『絞死刑』を再見し、シナリオを確かめると、往復書簡集『罪と死と愛と』の出典はどこにも明記されておらず、「朴壽南」という固有名詞はどこにも表記されていない。したがって初見の観客は、本作が大島渚監督や脚本家のオリジナル作品だと認識してしまう。これは「盗用」「盗作」「剽窃(ひょうせつ)」ではないのか。

死刑囚・李珍宇と朴壽南監督との獄中往復書簡(『罪と死と愛と』三一書房、1963年刊行)と映画『絞死刑』の脚本(『絞死刑 大島渚作品集』至誠堂、1968年)を読み比べたところ、盗用が11ブロック見つかった。

往復書簡集『罪と死と愛と』の編著者名は「朴壽南」ではなく「朴寿南」と表記されているため、表記は原著に準拠する。

(構成・文=荒井カオル/フリーライター)

連日大入りで話題の映画『よみがえる声』より。©『よみがえる声』上映委員会

大島渚『絞死刑』の盗作疑惑(1)

▼朴寿南編『罪と死と愛と』三一書房、149ページ
(※李珍宇→朴寿南への獄中書簡)
 この前、あるプロテスタントの同囚の人が、目に色情をもって女を見る人は姦淫を犯すという聖書の言葉は、少しきびしく思われると云った。この場合、「色情」ということがどの範囲まで及ぶかが問題となろう。

▼『絞死刑 大島渚作品集』至誠堂、152ページ
教誨師「すべて色情を抱きて女を見るものはすでに心のうちに姦淫したるなり」
検事「そんなことをいっているのか」
教誨師「イエスの言葉です。神も性欲と想像の問題については悩み給うたのです」

大島渚『絞死刑』の盗作疑惑(2)

▼朴寿南編『罪と死と愛と』三一書房、150ページ
(※李珍宇→朴寿南への獄中書簡)
 たとえば私達は女優の水着の写真を自慰行為の材料とするだろう。はじめの頃は視覚によって私達は性欲を刺激する。ところが、それはいつも同じものだ。行為は習慣化されてくる。しかし想像は習慣化されない。行為は反復されるが、想像は反復されずに、ひろがっていくのだ。
 それで私達は見なれた女優の水着写真を想像によっておぎなっていくだろう。

▼『絞死刑 大島渚作品集』至誠堂、163ページ
R「想像で、女の人を……自慰行為です。たとえば女優の水着の写真を自慰の材料とします。はじめは見ることで刺激をうけます。でも相手が写真だからいつも同じです。頭は水着をはぎとったり、ひきちぎったり、だんだん変ったことを求めていく。でもやっていることは同じです。頭の中だけが、想像が、どんどん広がり、変っていきます」

大島渚『絞死刑』の盗作疑惑(3)

▼朴寿南編『罪と死と愛と』三一書房、149ページ
(※李珍宇→朴寿南への獄中書簡)
 性欲は身体にあるのではなく、その精神にあるのだ。それで性欲は際限ないものとなるのだ。私はにわとりや牛と性交した人を知っている。また自分の妻と一年中性交を欠かしたことのない人がひょんなことから知りあいの女を強姦して殺したことも知っている。

▼『絞死刑 大島渚作品集』至誠堂、163ページ
R「性欲は身体にあるんじゃなくて、精神にあるんじゃないでしょうか。身体には限界がありますけど、精神にはないんです。鶏や牛と性交した人もあるそうです。それから、自分の妻と一年中性交を欠かしたことのない人が、ひょんなことから知りあいの女を強姦して殺した……」

『罪と死と愛と』『絞死刑 大島渚作品集』

大島渚『絞死刑』の盗作疑惑(4)

▼朴寿南編『罪と死と愛と』三一書房、151ページ
(※李珍宇→朴寿南への獄中書簡)
 私は想像の中で何回も犯行を遂行した。この道でこうすればたしかにうまくいくだろう、あるいはこういう時にこうすれば……。

▼『絞死刑 大島渚作品集』至誠堂、164ページ
R「前にこんなことをやったようにも思いました。でも、それは想像の中でやったのか本当にやったことなのかはっきりしないのです。なぜなら、想像の中でくりかえし、くりかえし、何度もああいう犯行をやっていたような気がするから……」

大島渚『絞死刑』の盗作疑惑(5)

▼朴寿南編『罪と死と愛と』三一書房、151ページ
(※李珍宇→朴寿南への獄中書簡)
 想像の反復が一種の自信を生むことは果たしてあり得ようか。私が被害者を見た時、自転車に乗っていることは何ら邪魔ではなかった。私はうまくやり通すだろう。これに似た場面はすでに想像で行なったことではないか? そうでなかったら、この自信はどこから出たものなのか。多分それは相対的な自信だったにちがいない。若しも衝動によって犯行を決したならば、その自信は衝動と同じように絶対的なものにちがいない。

▼『絞死刑 大島渚作品集』至誠堂、164ページ
R「何度も何度もいろいろな犯罪の想像をくりかえしているうちに、何か自信のようなものは、生れてくるということは……。自転車にのった女の人をどういう風に……。そういう想像もくりかえしたとしますか……。想像のとおり女の人が自転車にのって来ます。想像の場面とぴったり似ています。自信のようなものがわいて来ます。

大島渚『絞死刑』の盗作疑惑(6)

▼朴寿南編『罪と死と愛と』三一書房、151〜152ページ
(※李珍宇→朴寿南への獄中書簡)
 その時彼女は左側を走っていたのだ。若し彼女が右側へ寄らなかったら私はあきらめよう。私は現実が想像とくいちがっている限り、犯行の自信がなかったのだ。私は彼女の姿には欲望を感じなかった。彼女は男みたいな恰好をしていた。
 けれどもあの想像が私に欲望を感じさせた。だから私はこの状況におけるこの彼女に欲望を感じたのではないのだから、この機会を見逃してもよかったろう、しかし私に必要なことは、この状況が私の想像した通りの状況であるべきだったのだ。
 この複雑な動機を私はうまく云いあらわせそうもない。とにかく私は彼女を右側に寄せることに成功したのだった。自転車に乗ったままあのようなころげおちることは一度もやったことがない。それにもかかわらず、私は失敗しないだろうという自信があったのだ。多分、あのような想像の反復がこんな自信を生むのに力があったのだろう。

▼『絞死刑 大島渚作品集』至誠堂、164〜165ページ
R「でも、彼女は左側を走っています。想像では右側を走っていなければならないはずなのに。少しためらいが起る。もし彼女が右側へよらなかったら、これは想像でも現実でもない奇妙なことになります。(略)右側を走ってくれないかぎりやめてもいいんです。でもどういうわけか身体がひとりでに動いて、右側へ寄せてしまいます。今、現実と想像は同じものです。これならば失敗しない。また自信がわきます。想像のとおり手をのばして、首を巻きこむようにして、女の人と一緒に倒れこむ。これは夢だ。いつもやっていることと同じじゃないか」

『罪と死と愛と』本文

大島渚『絞死刑』の盗作疑惑(7)

▼朴寿南編『罪と死と愛と』三一書房、155〜156ページ
(※李珍宇→朴寿南への獄中書簡)
 私達はある状態に起こったことをその状態において判断しなければならないのだ。
 私が自分の事件を自分のものとして感じられなかったのは、多分、そういう状態の断絶を感じたからなのだろう。
「私がそれをしたのだった。それを思う私がそれをした私なのである。それなのに、彼女達は私に殺されたのだ、という思いが、どうしてこのようにヴェールを通してしか感じられないのだろうか」
 こういう問題が、信仰の心情の中にあって何度か私の心にくりかえされていたのだった。
 そういう時に私は姉さんと会ったのだった。

▼『絞死刑 大島渚作品集』至誠堂、166ページ
R「あの人たち、私が殺した人たちは、現実の人とは思えない、何か、こう一枚ヴェールがかかったような形でしか頭に浮んでこない。どうしてだろうか」
R「姉さん、そういう時、ぼくは姉さんに会った」

大島渚『絞死刑』の盗作疑惑(8)

▼朴寿南編『罪と死と愛と』三一書房、155〜156ページ
(※李珍宇→朴寿南への獄中書簡)
 私達はある状態に起こったことをその状態において判断しなければならないのだ。
 私が自分の事件を自分のものとして感じられなかったのは、多分、そういう状態の断絶を感じたからなのだろう。
「私がそれをしたのだった。それを思う私がそれをした私なのである。それなのに、彼女達は私に殺されたのだ、という思いが、どうしてこのようにヴェールを通してしか感じられないのだろうか」
 こういう問題が、信仰の心情の中にあって何度か私の心にくりかえされていたのだった。
 そういう時に私は姉さんと会ったのだった。

▼『絞死刑 大島渚作品集』至誠堂、168〜169ページ
R「夢の中にヴェールを一枚通してしか感じられなかった被害者の人たちを、とても生々しく感じられるようなことが、時々起こるようになった」

大島渚『絞死刑』の盗作疑惑(9)

▼朴寿南編『罪と死と愛と』三一書房、156ページ
(※李珍宇→朴寿南への獄中書簡)
 いつしか私は姉さんがとても好きになってしまったのだが、それである日ふと姉さんのことを思い出した時、急に姉さんのことが心配になってしまったのだ。たしかにその前に、姉さんは足を怪我しているにもかかわらず、わざわざ家を訪ねてくれたのだった。姉さんはバスの停留所をまちがえて一つ手前で降りてしまったのだった。それで家まで歩く途中運よく自転車に乗せてもらったわけなのだが、私は家の近くのことはよく知っているし、また自分のしたことがしたことなので、急に、若しも姉さんに万一のことがあったらという心配で胸がいっぱいになってしまったのだった。悪いことをすれば悪いことに目がいってしまうというのは本当のことだ。

▼『絞死刑 大島渚作品集』至誠堂、166〜167ページ
R「いつの間にか姉さんがとても好きになってしまった。ある日、ふと姉さんのことを思い出したとき、急に姉さんのことが心配になった。その時姉さんは足をケガしてたのに、わざわざ家をたずねてくれた。バスの停留所をまちがえて一つ手前でおりてしまった、歩いて行かなければいけない。家のあたりはとても危険だ。ぼくのような犯罪者が多い。もし姉さんに万一のことがあったら……とつぜんぼくは誰かに心臓をぎゅっとつかまれるような気がした。ぼくは悪い想像ばかりしているから、こんな時も一番悪いことを想像する。姉さんが殺されて、犯されたらどうしよう。ぼくがあの人たちにやったように」

『絞死刑 大島渚作品集』本文

大島渚『絞死刑』の盗作疑惑(10)

▼朴寿南編『罪と死と愛と』三一書房、156ページ
(※李珍宇→朴寿南への獄中書簡)
 それで私はとても姉さんのことを心配したのだが、その時ふと被害者のことを思い出し、そのことが今までにないほど強く心に感じられたので、私はこのことが何かしら深い意味を持っているように思われてならなかった。

▼『絞死刑 大島渚作品集』至誠堂、167ページ
R「ぼくは一日中胸がいたくて、心臓の動悸がヘンにはげしかった。それから夕方になった。ぼくはとつぜん被害者のあの人たちを思い出して、胃のあたりを強くなぐられた。ぼくが殺した人たち……その人たちはいなくなった。ぼくのために……」

大島渚『絞死刑』の盗作疑惑(11)

▼朴寿南編『罪と死と愛と』三一書房、187ページ
(※朴寿南→李珍宇への書簡)
 あなたのお父さんの老顔をみていると、柳致環という詩人が亡国の悲哀をうたった頌歌という詩をいつも想い出します。
  追われたるカインの如く
  彼が負える悲しみは 久しかりせど
  如何ぞ この艱難を
  獣となりても 堪えざらむ

▼『絞死刑 大島渚作品集』至誠堂、153ページ
女「追われるカインの如く
 彼が負える悲しみは、久しかりせど
 如何ぞ この艱難を
 獣となりても 堪えざらむ。
 祖国の詩人、柳致環がうたってるわ。あなたのお父さんの顔をみると、この詩を思い出すわ」

次ページ 「大島渚があなたの許可もなしに映画を作りましたよ」
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プロフィール

ヤンヨンヒ

映画監督。1964年、大阪市生野区鶴橋生まれ。コリアン2世。米国・ニューヨークのニュースクール大学大学院コミュニケーション学部メディア研究科で修士号を取得。2005年、デビュー作のドキュメンタリー映画「ディア・ピョンヤン」を発表。2009年、ドキュメンタリー映画「愛しきソナ」を発表。2012年、初の劇映画「かぞくのくに」を発表。2021年、「スープとイデオロギー」を発表。著書に『兄 かぞくのくに』(小学館文庫、2013)、『朝鮮大学校物語』(角川文庫、2022)、『カメラを止めて書きます』(CUON、2023)がある。

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