『恋する仏教 アジア諸国の文学を育てた教え』 石井公成著

「遊びごころ」こそ文学の真骨頂

小峯和明

著者は、仏教が教義や信仰だけでなく、「日本に巨大な文化体系として導入」(253頁)され、「仏教を通じて思想、建築、美術、音楽、芸能、医学、製紙その他の文化と技術が一気に流れ込んできたため、さまざまな分野において仏教が圧倒的な影響を及ぼし」(9頁)、それは当然、日本語にも及んでいて、「日本語の語彙には漢訳経典の表現を和語化した言葉がいかに多いか」(134頁、9頁も)を再認識すべきことを力説する。

何より、「仏教を排除した江戸の国学の影響の根強さを痛感せずには」(253頁)おられず、「文学作品を仏教と関連づけずに解釈しようとする傾向が強」く、「宗教や政治とは無縁である純粋な文学作品などというものは、近代になって成立した概念」(178~179頁)にすぎない、という研究の現状分析に共感させられる。

「国学やそれを受け継いだ民俗学などは、仏教や儒教が入る前の純粋な日本らしさを追い求めたのですが、それは無理な話で」(253頁)、外来の宗教文化定着以前のピュアな世界への幻想に今も多くの人が囚われている。特に和歌や物語など仮名文芸の研究者の、石井論への反応はきわめて鈍い、というか冷ややかであることに象徴的だ。学界が依然として内向きのムラ社会状態のままで、近代になって我々が漢訳経典の教養を失ってしまったことへの認識が欠如している。

げんに仏教文学の精髄を創出したはずの有名な鴨長明の『方丈記』(そもそも署名は法名の「蓮胤」である)が、挫折した知識人の懊悩などという近代の自己投影的な解釈によって、『枕草子』や『徒然草』と一緒くたに三大随筆として括られ、そのまま教科書に載っているような状況に典型的である。「方丈」と言えば、『維摩経』の維摩居士を連想する常識を今の我々が忘れ去ってしまったからにほかならない。

細かい点では、『伊勢物語』は『遊仙窟』の設定を利用して始まり、「仏伝を利用して終わっている」(162頁)との指摘は、近世の涅槃図のパロディ「業平涅槃図」などにもつながるし、『源氏物語』は天台系とばかり言えず、南都の唯識や五姓各別を説く法相教学の影響もあることを示唆する点(186頁)などが印象に残る。また、「『古今和歌集』の編者たちが、仏教が説く無常と恋と言葉遊びを結びつけてとらえていた」(252頁)ことが、従来言われる「詠嘆的無常観」に回収されてしまうのか、日本特有と言い切れるのか、気になるところでもある。

これに併せて、近世の洒落本などから、「仏菩薩の類いを人間扱いする傾向は、決しておとしめようとしてのことでなく、親しみの表れであったのが日本の特徴」(227頁)だという提言は、評者も「近世仏伝」を少し手がけてみてパロディ化の磁力の強さをつくづく感ずるところ。それがどうしてそうなったのか、日本だけそうなのか、他地域では今は見えなくなっているだけなのか、東アジアに踏み出すことで気づかされる問題群を我が事として共有したい。「アジア諸国の仏教と日本仏教との共通点や違いを考えるという発想」(253頁)が重要で、「アジア諸国の仏教の受容の仕方と比較して特徴を見いだすべき」(254頁)だという主張があらためて重く響く。

「やさしいことを難しく言うのではなく、難しいことをやさしく言う」のがいかに難しいか、本書はそれを軽々とやってのける。しかつめらしい文学談義ではない、「遊びごころ」こそ文学の真骨頂であることを気づかせてくれる。その一方で、「日本の古典文学と仏教の関係について考える際」、「単に『仏教の影響』などと説くのではなく、どの経典の影響なのか、どの時代のどの系統の仏教の影響なのかを考える必要がある」(179頁)という重要な提言もなされる。

最後に一言すれば、他の章に比べてベトナムが手薄なのが残念というか、資料の残存率の低さもあり、研究上の距離の遠さを痛感させられる。たとえば、名高い中国明代の怪異小説集『剪灯新話』のベトナム産の翻案『伝奇漫録』なども本書の絶好のテーマであったかと思われる。とりあえずは『越南漢文小説集成』全二十巻(上海古籍出版社)をよりどころに地道に読み進めるほかない。また、前近代には異国であった琉球でも、『伊勢物語』や『源氏物語』などをもとに和文の恋物語『若草物語』や『苔の下』などが作られていたことにも付言しておきたい。

 多くの人が東アジアの文学圏に目を開く機縁となるよう、本書が広く長く読まれることを切に期待したいと思う。 

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プロフィール

小峯和明

(こみね かずあき)
立教大学・名誉教授。文学博士。専門は、日本古典文学・東アジア比較説話。一九四七年、静岡県生まれ。一九七七年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。著書に『今昔物語集の形成と構造 補訂版』『説話の森 │中世の天狗からイソップまで』『中世説話の世界を読む』『今昔物語集の世界』『『野馬台詩』の謎 歴史叙述としての未来記』『中世日本の予言書—〈未来記〉を読む』『シリーズ〈本と日本史〉 ② 遣唐使と外交神話 『吉備大臣入唐絵巻』を読む』『世界は説話にみちている 東アジア説話文学論』など多数。

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