浅草キッドの水道橋博士は、タレントや作家の顔を持つ一方で「日記を書く人」としても知られています。
小学生時代に始めたという日記は、たけし軍団入り後も継続、1997年からは芸能界でもいち早くBLOG形式の日記を始めた先駆者となり、現在も日々ウェブ上に綴っています。
なぜ水道橋博士は日記を書き続けるのか? そこにはいったいどんな意味があるのか?
そう問うあなたへの「日記のススメ」です。
もし議員になっていなければ、あの人がピアノを?
2022年8月18日——。
ワタクシ、還暦を迎えました。
晴れて60歳です。
1962年8月18日に岡山県倉敷市に生を受けて、ちょうど21,900日の一日一日を積み重ねました。
名人文楽の言葉にもありますが、芸人だけでなく誰にとっても「長生きは芸のうち」です。
人生というペナントレースに21,900日も連続出場なのですから。
当コラム「日記のススメ」の書き手としては、そのうち9000日はブログに於いて、読者とともに日記が確認出来ること、また3000日以上の紙の日記が自宅に保存されていて、今も破棄されること無く確認できることは、公文書すら破棄する国のなかで、誇らしい気持ちになります。
半年前から、誕生日にはライブをやろうと準備をしていましたが、まさか、「博士」から「先生」へ、国会議員となって、生誕祭の舞台に立つことは予想もできませんでした。
そもそも自分が還暦までたどり着けるのかを危惧するような文章は、以前に連ねているのです。
子供の頃から、長生きできないと思い込み、死の概念に取り憑かれているものですから、長く生きることに懐疑的で葛藤を繰り返してきました。
「『死にたい』という名のこころの病」
何故、ここまで長文に書き記しているのか忘れていましたが、 この文章を読み直して、改めて気付かされます。
ボクが、芸人にとって舞台=「LIVE」とは 生きることの縮図、人生を切り取る表現であり、「LIFE」は日記、年表に記していくものだという見立ては何度も書いていることです。
当日は、浅草花やしきの花劇場で、「水道橋博士還暦生誕祭」を華々しく催しました。
「浅草キッド」ということで、師匠・ビートたけしの下に、浅草に生を受けた芸人として、浅草の劇場で、先輩、後輩、相棒、友人などに祝われました。
当日の様子は、こちらのnoteでお読みください。
noteでは一度も触れていない話をここに書き残しておきます。
当日は還暦の象徴とも言える、赤いチャンチャンコならぬ、赤いスパンコールのベストを登壇とともに着用していますが、当初の台本では「着用式」が予定されていました。
それも、ボクに着させてくれるひとは、共産党の志位和夫委員長にお願いすることになっていました。
志位委員長はピアノも達者なので、本番ではピアノ演奏も披露していただこうと。
もしもボクが「れいわ」で参議院議員になることがなければ、この企画は実施されていたかもしれません。
ボクが突如、代々木の「赤旗」編集部を訪問するという謎の一日が、今年3月3日にありましたが、この話の提案に行っていたのです。
noteの日記を転載します。
もし参議院議員にならなかったら——。
舞台の内容もまったく変わっていました。
憧れのあの人に電話で出演交渉
この日の当初の台本は、同じ8月18日生まれの有名人にロケで会いにいくのが主旨でした。
中居正広(50歳) SMAP 1972年
清原和博(55歳) 元プロ野球選手 1967年
吉川晃司(57歳) 歌手 1965年
名取裕子(65歳) 女優 1957年
KEIKO(50歳) globe 1972年
中井祐樹(52歳) 柔術家 1970年
いとうまい子(58歳) 女優 1964年
成海璃子(30歳) 女優 1992年
高木晋哉(42歳) ジョイマン お笑い 1980年
藤井流星(29歳) 関西ジャニーズjr. 1993年
松尾駿(40歳) チョコレートプラネット お笑い 1982年
鈴木誠也(28歳) プロ野球選手 1994年
G-DRAGON(34歳) 歌手 1988年
柴田恭兵(71歳) 俳優・歌手 1951年
これらのひとに出演交渉して、8月18日生まれの人だけが出演するLIVEという縛りだったのです。
そのため、同じ事務所の後輩若手芸人、ドルフィンソングの三木くんが、8月18日生まれというだけで総合司会の大抜擢を受けました。
ロケの台本では、ボクが三木くんに、
「8月18日生まれのボスに合わせてあげるから」
「誰ですか?」
「ナカイくんだよ」
「ナカイさんに会えるんですか?」
「ナカイくんに揉んでもらおう!」
と言いながら、ロケ先には中井祐樹さんが現れ、三木くんを柔術でボコボコにするなどの流れでした。
これらの予定されたロケが、ボクの参議院選出馬で全てが流れました。
8月18日生まれということで、出演交渉で、あの憧れの清原さんと長く、お電話でお話出来たのも、個人的には感慨深いものがありました。
「いのちの果てのうすあかり」
全ての祭りが終了後、帰宅。
自分の60歳、還暦を噛み締めながら、手元にある、60歳になる日を描写した日記を探しました。
ひとつだけ出てきました。
コラムニストの山口瞳さんの『還暦老人ボケ日記』(新潮社)。
60歳(1926年11月3日生まれ)の日記です。
還暦を迎えた1986年に書かれています。
十一月三日(月・文化の日) 晴後曇
競馬のおかげでよく眠れた。
ああ、遂にこの日が来た。満六十歳の誕生日、すなわち還暦。この日を期して連載中の仕事以外は、いっさいやめるつもり。嬉しくって仕方がない。
理由はいろいろあるのだが、友人村松博雄(『町医者』の著書がある)の臨終の際の言葉の影響がもっとも大きい。
「思い残すことは何もない。ただ、たくさん集めた書物の半分も読んでいない。それだけが心残りだ。どうか、お前たち、お父さんの読めなかった書物を、できるかぎり読んでくれ」
村松が二人の息子にそう言っているとき、最後のほうでは心臓が止まっていたという。村松の無念がそれでわかる。
僕は、よく、東京新聞の「大波小波」なんかに、老人臭い、老人ぶると書かれた。四十代の終り頃から、隠居したいと言っていたのだから無理もない。還暦近い老人という言葉は、高齢化社会でも生きているはずだ。これからは大威張りで老人と言わせてもらうつもりだ。
仕事をやめて「日々是好日」もしくは「いのちの果てのうすあかり」といきたいもんだ。
今の還暦と違って、すっかり「老い」や終活を感じますが、「いのちの果てのうすあかり」という表現に痺れました。
60歳を経過した 今、ボクも「キッド」から「老人」になったことでしょう。
そして芸人の「博士」から議員の「先生」に成り代わり、60歳を新たに「一年生」として迎えた劇的なジョブチェンジは「いのちの果てのうすあかり」のなかで、再度いのちを色濃く輝かせたいと意欲を持ちます。
LIVEの終わりに「ショー・マスト・ゴー・オン」とテロップを入れましたが、日記もまた「ライフ・マスト・ゴウ・オン」なのです。
21,901日目に踏み出しました。■
プロフィール
1962年岡山県生れ。ビートたけしに憧れ上京するも、進学した明治大学を4日で中退。弟子入り後、浅草フランス座での地獄の住み込み生活を経て、87年に玉袋筋太郎と漫才コンビ・浅草キッドを結成。90年のテレビ朝日『ザ・テレビ演芸』で10週連続勝ち抜き、92年テレビ東京『浅草橋ヤング洋品店』で人気を博す。幅広い見識と行動力は芸能界にとどまらず、守備範囲はスポーツ界・政界・財界にまで及ぶ。著書に『藝人春秋』(1~3巻、文春文庫)など多数。
水道橋博士の日記はこちら→ https://note.com/suidou_hakase