わたしたちの社会はテクノロジーの発達によってもたらされた、さまざまな深刻な問題を抱えています。
気候変動、放射性廃棄物の処理、生殖細胞へのゲノム編集……。
現在世代は未来世代に対しての倫理的な責任をどのように考え、どのように実践したらよいのでしょうか。
それらの問いを考えるための一冊が、戸谷洋志さんの新刊『未来倫理』です。
本書の刊行を記念して、政治学者の藤井達夫さんをお迎えしました。
藤井さんは『代表制民主主義はなぜ失敗したのか』において、世界中をポピュリズムが席捲する中での民主主義のあり方を根源的に考察しています。
未来世代に影響を及ぼす問題の解決を考えるときに、合意形成という点ではどうしても民主主義の問題に突き当たらざるを得ないのではないでしょうか。
最新の倫理学と政治学の知見をぶつけ合う中から見えてくる、「未来世代と民主主義のゆくえ」は――。
今回は[後編]となります。
「私物化」と「共有」は切り離せるか
戸谷 藤井先生のご著書『代表制民主主義はなぜ失敗したのか』についても、私から少し質問をさせていただきたいと思います。
よく、「民主主義が危うい状況にあるのは低投票率のせいであって、たとえば若者がもっと選挙に行くようになれば民主主義が回復されるはずだ」といった議論を耳にします。お恥ずかしながら私自身も「そうなのかな」と思っていました。
ただ一方で、若者ほど民主主義とはほど遠いと思える政党、例えば自民党などを支持しているというデータもあります。「選挙に行こう」というキャンペーンを展開しているのは主にリベラル政党ですが、実際には選挙に行く人が増えれば増えるほどリベラル政党は不利になっていくのではないか。この矛盾をどう考えたらいいんだろうと、ずっと思っていたんですね。
だから、原理原則に立ち返りながら選挙と民主主義の関係をわかりやすく整理して示してくださっている藤井先生のご著書は、とてもありがたかった。非常に啓蒙的な本だと思いました。
藤井 ありがとうございます。若い世代の研究者からそう言っていただけると、非常に励みになります。
戸谷 中でも蒙を啓かれたのが、現代の代表制民主主義が陥っているある種の苦境や問題点を、「共有と私物化」というシンプルなロジックで解き明かしておられるところです。社会と政治という二つの領域で、本来「共有」されていなければならないものの「私物化」が進み、それが民主主義を破綻させているという指摘は、とても腑に落ちました。
ただ、それに関連してお聞きしたいのは、共有と私物化とは完全に切り離せるものなのか、絶対に私物化されていないといえる共有の仕方があり得るのか、ということです。
たとえば現在世代が、地球環境をはじめ今共有しているものを自分たちの世代だけで使い果たしてしまったとしたら、それは未来世代には共有されないことになります。つまり、現代世代の間では共有されているものが、未来世代に対しては私物化されているという状況も生じ得るのではないか。そのように、ある集団の中で共有されているものも、見方を変えれば私物化されているといえる場合があるのではないかと思うのです。また、私たち自身が「共有している」と確信しているものも、知らず知らずのうちに私物化してしまっているという事態もあり得るでしょう。
藤井先生は、共有と私物化とはどの程度きれいに切り分けられるものだとお考えでしょうか。
藤井 非常に重要なご指摘ですね。政治というものは常に何らかの「単位」を前提としていて、その単位にもとづいて共有と私物化の対象は決定されます。私が『代表制民主主義はなぜ失敗したのか』の中で想定していた単位は「国民国家」でした。その場合、共有と私物化の対象は国家内部に存在し、また、共有の主体は国民ということになります。
その上で、ご質問を検討する際にポイントになるのが、共有や私物化を行う主体とは誰なのかを問うことだと思います。例えば、植民地支配について考えるなら、支配する側の人びとは、植民地の地下資源を共有のものと見なすことができますが、他方で、支配される側の人びとは自分たちの資源を私物化されていると思うに違いありません。このように誰が主体なのかを問うことで、共有や私物化は一筋縄では区別できないこと、さらには、共有や私物化を分ける境界線は常にすでに政治化されていることが判明します。
拙著を書いた時点では正直なところ、私は未来世代について、そこまで真剣には考えていませんでした。しかし、工業化社会からポスト工業化社会への転換の中で代表制民主主義が機能しなくなってきていることを考えると、やはり未来の問題も無視できない。なぜなら、機能不全となった代表制民主主義の下での現在の決定は、気候変動の問題のように、未来の世代に多大な影響を及ぼすからです。そうして未来世代というものを考えたとき、現在の世代間での共有と私物化の問題だけでなく、現代世代と未来世代の間での共有と私物化の問題に取り組まなければならなくなる。こうして、共有/私物化そのものの捉え方も変わってくるのではないでしょうか。
戸谷 ありがとうございます。誰が誰に対して私物化しているのかというのは、非常に難しい問題ですね。そう考えると、「自分が何かを私物化しているのではないか」という疑いの目を常に持って眺めていくという視点も大事なんだろうなと思いました。
「自由を望まない人たち」にどう向き合うか
戸谷 もう一つ質問です。代表制民主主義の失敗が、権力や社会の私物化によって引き起こされるというプロセスには非常に説得力があるのですが、単純化した言い方をすれば、その「私物化する」政治家を選出しているのは有権者であるわけですよね。
もちろん、有権者が政治家たちに騙されて、私物化されていることに気づかずに投票している場合もあると思うんですが、一方であえて私物化を望んでいるというか、すべての意思決定を政治家に委ねてしまいたいという、ある種の責任放棄、思考放棄的な側面もあるのではないかと思います。
そこでお聞きしたいのは、そうした「自由を取り戻すことを望んでいない」人たちに対して、「それではダメですよ、ちゃんと政治に参加して自由を取り戻してください」と呼びかけることにそもそも正当性はあるのかということです。また、自由を取り戻そう、政治に参加しようという動機付けはどうすればできるのかについても、具体的な政策レベルでアイデアをお持ちでしたらうかがいたいと思います。
藤井 まず、民主主義を強要することに正当性はあるのかというご質問ですね。私は、民主主義とは制度的な手続きであると同時に一つの価値観、イデオロギーだと考えています。仮に安全や豊かさが損なわれるようなことがあっても、自由を何よりも大事にするという価値観ですね。
ここから、「民主主義は大事ですよ」とか「自由が重要ですよ」というのは、なぜ「重要なのか」について理由を提示して他者を説得する行為にほかなりません。そして、当然ながら民主主義に対する批判も存在するのであり、批判者の掲げる理由に耳を傾ける必要性もあるということですね。特に現代において、民主主義は絶対的なイデオロギーではもはやなく、中国のような権威主義とどちらを選ぶのかという選択の対象にもなっているということを、しっかり認識する必要がある。その上で、民主主義を擁護する手立てを真剣に検討しなければならないのだと思います。
二つ目のご質問については、やはり重要なのは教育だと思います。民主主義はどのようなもので、民主主義を維持していくにはそれなりの努力と犠牲が生じてくるといったことは、教育を通してしか学ぶことができないのではないでしょうか。現在でもシティズンシップ教育が世界中で行われています。
日本でも、文科省の旗振りで主権者教育というものが行われてはいますが、ほとんど実効性がない。それどころか、カルト的な団体の影響を受けた政治家たちが文科省の政策形成に関与をし、シティズンシップ教育とはまったく逆の方向の教育政策が行われたりもしている。いずれにせよ、日本のシティズンシップ教育の貧困さが、日本社会に蔓延する政治的無関心に少なからず影響しているのではないでしょうか。ただ、その一方で、ここで強調しておきたいことは、民主主義の教育は学校だけで終わるものではない、ということです。
戸谷 教育を通じて民主主義をエンパワーメントするような対策が必要だというご指摘ですね。カントが『実践理性批判』の中で、「どんなに教養や学術的な意識がない人でも、道徳的、社会的な問題については考えたいと思っている、それこそが人間の理性なんだ」と述べています。誰でも心の中には「考えたい」という気持ちがあるのだから、適切な場と適切な環境さえあれば、相手のことを尊重しながら話し合うことができる。私もそういう人間観を信じているので、結局は「語り合う」しかないんだろうと思っているし、藤井先生のお考えには大変共感します。
藤井 そうした、人々の対話する能力を信じるというのは、民主主義者としての基本となる心構えだと思います。
科学的言説と民主主義
戸谷 もう一つお聞きしたいのが、科学的な言説と民主主義との関連性についてです。先ほどポスト・トゥルースの話が出ましたが、一部ではこのポスト・トゥルースへの反動として、科学実証主義への再回帰のような動きが起こっていると感じます。
スウェーデンの環境活動家であるグレタ・トゥーンベリさんが、「気候変動は政治ではなく科学の問題である」と言っているのが典型的な例ですね。こうした主張は、藤井先生が書かれている「権力の私物化」を乗り越える試みとして肯定的に評価できる一方で、科学者という専門家によるある種のメリトクラシーを引き起こす可能性もあるのではないかとも思います。
科学実証主義への回帰的な動きは、民主主義にどのような影響をもたらすのか、健全な民主主義を維持するためにこうした科学的言説とどのように関わっていくべきなのかについて、ご意見を伺いたいです。
藤井 これは戸谷先生とも共有している考え方だと思いますが、やはりテクノロジーの使用については、民主的にコントロールされるべきだと私は考えています。
コロナ禍を受けて、未曾有の危機に対して民主主義は有効なのかという議論があったのは事実です。中国のほうがうまく対処できているのではないか、権威主義的・全体主義的な体制のほうが効果的な対応を取れるのではないか、ということですね。
しかし、テクノロジーが民主的にコントロールされるべきだというのは、民主主義的な手続きによれば、科学的に正しい決定に到達できることが保証されているからではありません。テクノロジーは誰のものかという問題、つまりこれもまた私物化と共有の問題なんです。
テクノロジーは、気候変動やゲノム編集を見ればわかるように、社会に非常に大きな影響を及ぼします。それを科学者という専門家に私物化させず、共有物として扱うためには、民主主義的な決定の対象にする必要がある。拙著でも書いたように、民主主義の決定プロセスには、私物化を防ぐという大きな目的があるんです。
つまり、科学が難解だからといって専門家に委ねてしまうのではなく、あるいは、非(反)科学的なフェイクニュースにもとづいた決定をよしとするのでもなく、素人である我々が、専門家の意見を聞き、真摯に議論をしながら最終的に決定していくということですね。それが重要なのではないかと思っています。
戸谷 たとえばヨーロッパでは、気候変動をはじめとする環境問題について、無作為に選ばれた市民が一定期間議論をして、最終的にまとまった意見を政策に反映していくためのシステムが作られている国もありますね。それに比べると、日本には専門家と政策立案者、そして市民が一緒にワークをしていくという発想そのものが欠けているような気がします。これも教育の問題なのかもしれませんが、そうした風土や土壌がもう少し日本でも培われていくといいなと思いますね。
藤井 何度も言っていますが、やはり教育は重要ですね。教育のあり方によっては今後、未来倫理など考えず、現在のことだけ重視しようという流れに行く可能性もあるし、中国みたいな権威主義体制のほうが楽でいいよね、ということになる可能性もある。そうした選択が迫られている時代だと思います。しかし、国会の議論を見ていても、日本の政治はこうした危機的状況への関心が非常に薄いと感じざるを得ません。
戸谷先生がご著書の5章で提起されていたワークショップなど、環境問題をはじめ未来世代の問題に関心を持ってもらうための教育の場を、学校だけではなく市民社会の中にどれだけ増やしていけるのか。それが重要な課題なんじゃないかと思います。
戸谷 今の日本社会では政治的な議論をしようとすると、どうしても過激な二項対立になりがちです。でも、今日藤井先生とお話をさせていただいて、「いやでも、私物化は嫌だよね」みたいな多くの人が共感できるところから話し合いを始めていけば、立場の違う人たちがそれでも最善と思える答えに至れるのではないかという希望を新たにすることができました。ありがとうございました。
構成/仲藤里美
プロフィール
戸谷洋志(とや ひろし)
1988年東京都生まれ。哲学研究者、関西外国語大学准教授。法政大学文学部哲学科卒業、大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現代ドイツ思想を中心にしながら、テクノロジーと社会の関係を研究。著書に『ハンス・ヨナスを読む』『原子力の哲学』『ハンス・ヨナス 未来への責任』『スマートな悪』、共著に『僕らの哲学的対話 棋士と哲学者』『漂泊のアーレント 戦場のヨナス』など。新刊に『未来倫理』がある。
藤井達夫(ふじい たつお)
1973年岐阜県生まれ。西洋政治思想、現代政治理論、東京医科歯科大学教授。早稲田大学大学院政治学研究科政治学専攻博士後期課程退学(単位取得)。近年研究の関心は、現代民主主義理論。 単著に『〈平成〉の正体――なぜこの社会は機能不全に陥ったのか』(イースト新書)、共著に『公共性の政治理論』(ナカニシヤ出版)、『日本が壊れる前に-「貧困」の現場から見えるネオリベの構造』(亜紀書房)など。新刊に『代表制民主主義はなぜ失敗したのか』がある。