2023年7月14日に『トランスジェンダー入門』(集英社新書)発売後、著者の高井ゆと里さんは「トランスジェンダーとはどういう人たち?」「その人たちがどんなふうに困っているのか教えてください」と尋ねられることが増えたという。しかし、トランスというある種のアイデンティティ集団を尊重していきましょう、と話を回収するだけではなんともやるせない。今後の展開を見込むためにも、9月29日にNHKカルチャーで開講された対談「フェミニズムとアイデンティティの政治」からヒントを得たいところだ。
本イベントは、『トランスジェンダー問題』刊行を記念して2022年12月3日に行われた特別対談「フェミニズムとトランスジェンダー」の盛況を受け、群馬大学准教授の高井ゆと里さんと、フェミニズム/クィア理論を主な専門とする東京大学大学院教授の清水晶子さんによる対談が再び実現したかたちだ。
アイデンティティ・ポリティクスをふりかえる
近年に限った話ではないが、「アイデンティティ・ポリティクス(アイデンティティの政治)」という言葉自体がネガティブなレッテル貼りとして使われる文脈が英語圏には存在する。「何も悪くないはずの現状に対してマイノリティの側が自己主張をして価値転換しようとしている」とか、だから社会全体の利益とは無関係である、むしろ相反する、などと言うために、「アイデンティティ・ポリティクス批判」が使われているのだ。
しかし、アイデンティティ・ポリティクス自体は、バックラッシュ側が使ってきた言葉というわけでもない。高井さんは、「『女の政治』や『女性の運動』と言われるように、フェミニズムも実質アイデンティティ・ポリティクスとして理解できる側面がある」と話す。
それに対して清水さんは、「80年代の半ば過ぎ頃から、フェミニズムにおけるアイデンティティ・ポリティクスの限界が指摘されるようになった」と歴史をふりかえる。
さかのぼること70年代、フェミニズムにおいてマジョリティだった白人の、労働者階級ではない、異性愛者の女性たちが中心になっていた「女性」というカテゴリーに対し、そのカテゴリーの想定では不十分だという批判が出てきた。
もちろん、批判をしたマイノリティ女性たちのアイデンティティも一筋縄とはいかない。黒人女性やレズビアン、はたまた黒人女性のレズビアンなどといっても、それらのアイデンティティなるものが分かりやすく同定できるはずはなかった。アイデンティティをベースに政治を考えていくこと自体が行き詰まったのだ。
やがて、90年代初頭にテレサ・デ・ラウレティスによって名前が与えられたクィア理論が出てきた。クィア理論の背景には、アイデンティティがわかりやすく同一性を担保しないにも関わらず、同一性を前提に政治を構想しようとすることに対するフェミニズム内部での議論や、アイデンティティに基づかない連帯を模索しようとしたエイズ・アクティヴィズムの影響があった。
二人が確認し合ったように、今世紀の第4波フェミニズムでは、「女とは誰か」という話があまり出てこない。話として出てくるのは、例えばインターセクショナリティであり、それがアイデンティティ・ポリティクスとどう関係があるのか、である。
LGBTという枠組みについては、アイデンティティラベルである「L(レズビアン)」「G(ゲイ)」「B(バイセクシュアル)」「T(トランスジェンダー)」の頭文字を4つ並べた、アイデンティティ・ポリティクスの側面を持つことがある。とはいえ、LGBT運動は「みんながそれぞれ持っているアイデンティティを尊重しよう」といったムーブメントに収まるものではないはず。社会を変えていくためには、アイデンティティ・ポリティクスに対する批判を継承することも大事だろう。
政治的スタンスと結びつくアイデンティティ
高井さんが最近気になることは、「100人の村があったら、その中の0.5人がトランスジェンダーですみたいな、その0.5人の話にされてしまう」ことだと言う。つまり「100人の村そのもののルールや構造の話とか、100人の村の中で何が作り出されているかという話を全然させてもらえない」。フェミニズムはまさに、100人の村の中で男と女を分けていく制度や、その区分のメカニズムについて話をしようとしてきた。
だが同時に、悩ましい背景もある。フェミニズムが苦闘してきた問題でもあるが、「女性は男性と同じ人間だから認めろという発想が一方にあり、それはほんとにそのとおりだと思うのですが、同時に、そこで言われる人間が男性だけを指してきていた以上、女性と男性が同じ人間にならなくちゃいけないのはどうなのかという話になってくる」と清水さん。だからといって、女性というものを、男性とは明確に異なる特性をもち、かつ内的に同一性のあるカテゴリーとして想定しようとすると、先ほどのがんじがらめな状況に陥ってしまう。
レズビアンの政治でもそうだった、と清水さんは続ける。「異性愛女性と違ってレズビアンはこうだと主張する必要のある場面ももちろんあるのだけれども、それではその『レズビアンはこうなんだ』に全部のレズビアンが乗れるかというと、乗れなかったりする。自分の存在がかかっているので、違いを主張するに当たって血の出るような議論になっていくこともあって、当時の議論を読んでいてもそこは本当につらい。それでもそこの議論をせざるを得なかったのだけれど」。現在の私たちは、そうしたアイデンティティをめぐる議論の延長線上にいる。清水さんは「解像度高くアイデンティティを細かく見て、それを尊重しようよでは済まない。アイデンティティがなぜどのように政治化していくのか、距離を置いて考えていく」こともあっていい、と言う。
高井さんも、Ace(Aセクシュアルのコミュニティ)を例に、政治的なスタンスとセクシュアリティの関わりについて述べた。「Aセクシュアルは性的指向なんだと言わなきゃいけないフェーズがあって、それは確かに尊重されなければいけない。でもそれを言うということは、そこで止めないといけないことになってしまっている雰囲気もある」。アイデンティティを見つけた先に、では「なんで世の中がこんなに性愛というものを重視しているんですか、と問いを反転させなきゃいけなくて。なぜこんなに自分が悩み事を抱えさせられているのかを社会の側に」問う必要性があると語った。
プロフィール
(しゅうじ・あきら)
主夫、作家。著書に『トランス男性による トランスジェンダー男性学』(大月書店)、共著に『埋没した世界 トランスジェンダーふたりの往復書簡』(明石書店)、『トランスジェンダー入門』(集英社新書)。