スマホ、AI、電気自動車……あたらしい技術やメディアが浸透する過程では多くの批判が噴出する。なぜ私たちは新しいテクノロジーが生まれると、恐れてしまうのか。消費文化について執筆活動を続けてきたライターの速水健朗が、「テクノフォビア」=「機械ぎらい」をキーワードに、人間とテクノロジーの関係を分析する。
第9回はダニエル・クレイグが演じてきたジェームス・ボンドの描かれ方から、技術がもたらす社会変化をひもとく。
■監視テクノロジーとの戦い
2020年での一旦のシリーズ終了を受けて、007、ジェームズ・ボンドのこれまでの長きにわたる戦いとは何だったのか。公開直後は、結末の話を避ける“ネタバレ禁止”がその議論を妨げていたかもしれないが、そろそろ解禁してもいいだろう。
ボンドは、東西冷戦時代のスパイである。とはいえそこまで政治状況が反映された映画というわけでもない。そして、冷戦の構図が崩れたのちも30年続いてきた。
ボンドシリーズは、強いて例えるなら日本のすちゃらかサラリーマン映画の一種だ。経費を使い放題のボンドは、アストンマーティンに乗り、高いスーツを着て、高級な装備を壊しまくり、高いホテルに泊まる。どれも公私混同極まりない。ただの億万長者よりも、経費が無尽蔵に使える無名の平社員の方が庶民の夢を叶える存在だった。ボンドは、それを体現してきたのだ。
ダニエル・クレイグ版のボンドは、すちゃらか社員の時代の終焉を告げるものだった。経費の無駄使い、公私混同は、世界的に冷ややかに見られる古い時代特有のスタイル。それはもう許されないのだ。
■安価になった監視テクノロジー
かつては、軌道衛星上の偵察用カメラを使ったり、訓練されたエージェントをその国に送り込んで手に入れるべき情報は、街頭の防犯カメラや安価なスマホのカメラからでも入手できる。テクノロジーが発展するとは、高度な機能が驚くほど安く手に入るようになることを意味する。国家の諜報機関には、膨大な国家予算と有能で経験豊富な人材がつぎ込まれてきた。官僚組織では、専門性を持つ人間たちが明確なヒエラルキーの下で動く。軍隊などでそれが強く機能する。諜報機関もそうだが、官僚組織の弱点は、この強度にある。コストがかかり、簡単に解体もコストダウンもできない。逆に敵が用いる安価な監視テクノロジーは、その何十分の一、何百分の一のコストで対抗できてしまう。現代は、テロリストにとって参入障壁の低い時代なのだ。
シリーズ23作目『007 スカイフォール』で、MI6本部はハッキングと物理攻撃を同時に受ける。敵のリーダーは、元MI6のエージェントで組織の弱点を知り尽くしている。MI6だって強固なセキュリティに守られているはず。でも、減価償却の会計処理のルールなどもあり、そう簡単にはパソコンは買い換えられないのだ。また、組織的にも情報技術の脆弱性を抱えている。それは組織の高齢化に伴うものでもある。ボンドとその上司のMが、互いに「長く居座りすぎた」と、自分たちの在籍期間にも限度が来ていることを確認し合っている。組織の構成員が高齢化すれば、新しいテクノロジーへの苦手意識が増えるのも仕方がないこと。
『スカイフォール』のラストは、スコットランドの山間部の山小屋に舞台を移す。監視テクノロジーに追い詰められたボンドは、電子機器の搭載されていない旧世代のアストンマーティンに乗ってここまでやってきた。21世紀の監視テクノロジーから逃れ、肉眼でも見通しが利く場所に敵を誘い込んだのだ。機械音痴ここに極まる。このやり方で通用するのは、最初で最後。ボンドもMI6も『スカイフォール』の時点で、窮地に追い込まれていたのだ。
実はこれはヒーローたちの苦境ではない。ヒーローたちに古いテクノロジーに拘泥させ、新しいテクノロジーを持つものを悪として描く。
(次回へ続く)
20年前は「ゲーム脳」、今は「スマホ脳」。これらの流行語に象徴されるように、あたらしい技術やメディアが浸透する過程では多くの批判が噴出する。あるいは生活を便利なはずの最新機器の使いづらさに、我々は日々悩まされている。 なぜ私たちは新しいテクノロジーが生まれると、それに振り回され、挙句、恐れてしまうのか。消費文化について執筆活動を続けてきたライターの速水健朗が、「テクノフォビア」=「機械ぎらい」をキーワードに、人間とテクノロジーの関係を分析する。
プロフィール
(はやみずけんろう)
ライター・編集者。ラーメンやショッピングモールなどの歴史から現代の消費社会について執筆する。おもな著書に『ラーメンと愛国』(講談社現代新書)『1995年』(ちくま新書)『東京どこに住む?』『フード左翼とフード右翼』(朝日新書)などがある。