性暴力とは、同意のない中で行われる性的言動すべてのこと。その被害者は女性であることが前提とされてきましたが、しかし、現実に男性の被害者がいることもようやく知られてきました。
男性の性暴力被害の実態、その心身へ及ぼす影響、不可視化の構造、被害からの回復と支援の在り方まで等を明らかにした一冊が『男性の性暴力被害』(集英社新書)です。
今回は、著者で共に臨床心理士の宮﨑浩一さんと西岡真由美さんに加え、ゲストにジェンダー、社会学の研究者で、ふぇみ・ゼミ&カフェ(ふぇみ・ゼミ、ゆる・ふぇみカフェ)運営委員の熱田敬子さんをお招きしました。熱田さんはフェミニストとして日本軍戦時性暴力に取り組み、ふぇみ・ゼミ&カフェでも性暴力に対抗する運動をおこなってきました。
この鼎談ではそれぞれの視点から、「いま男性の性暴力被害について、わたしたちは何を語るべきか」をめぐり考察していきます。
※2023年12月8日、東京・本屋B&Bで行われたイベントを採録したものです。
性暴力被害とポジショナリティ
熱田 では初めに、簡単な自己紹介から。まず、今回の本『男性の性暴力被害』の共著者であるお2人からどうぞ。
宮﨑 宮﨑です。男性の性暴力被害について研究するとともに、支援者としての勉強もしたくて、ジェンダーとセクシュアリティー、臨床心理が近い領域にある立命館の大学院で学びました。今は臨床心理士と公認心理師の資格を持っていて、研究を続けつつ児童養護施設、行政の発達相談、個人カウンセリングに携わっています。
西岡 私は大学院で学んでいたときに、男性の性暴力被害者の方へのインタビューをさせていただく機会があったのが、この問題に強く興味を持ち始めたきっかけです。私も臨床心理士などの資格を生かして、性被害やハラスメントに関する相談業務やカウンセリングに携わっています。
熱田 私は社会学をバックグラウンドに、フェミニズムやジェンダーの研究をしていて、大学時代から日本軍性奴隷制・戦時性暴力の被害者の名誉回復運動に関わってきました。心理学がご専門のお2人との視点の違いも、今日は楽しんでいただければと考えています。
さて、今回の本はお二人の共同執筆ですが、ところどころに(宮﨑)(西岡)と、書き手が明示されている部分がありますね。これはどのように意識されたのですか?
宮﨑 たとえば女性加害者について、男性として生きてきてきた私が書くのと西岡さんが書くのとでは、おそらく微妙に違いますよね。書きながら、その「違い」がすごく大事なんじゃないかと思っていました。だから、「どういうジェンダーの、どういう立場の人間がこういう書き方をしているのか」ということを明示しておきたいと思ったところは、「宮﨑」と名前を入れています。
西岡 私も同じで、自分自身の体験に基づいて書いているところは名前を出したほうが自然だし誠実かなと思っていました。逆に名前を出さなかったところは、互いにほぼ同じことを考えているんじゃないかと思ったところのような気がします。
熱田 ありがとうございます。今の質問をしたのは、ポジショナリティの問題ってすごく重要だなと思ったからなんです。
宮﨑さんはこの本の中でも、ジェンダー差別の構造に繰り返し言及されていますよね。その構造を見ずに性被害について考えようとすると、逆に男性の性暴力被害も見えなくなってしまう、と。それを言うときに、おっしゃるとおり「誰が、どういう立場から書いているのか」ということはすごく重要だと思います。本人のアイデンティティがどうかというよりも、ジェンダー差別の構造の中で周囲から男性として扱われてきてしまうと、当然見えなくなるものがあるわけですよね。
宮﨑 それはすごく大事な点だと思います。私は以前、初めて投稿した論文の中で、自分自身の性被害体験を素材にして現象学的に論じるということをやってみたことがあります。被害者へのインタビューなどを通じて誰かの言葉を引用するのでなく、自分の体験について書くことができなくてはいけないんじゃないかという思いがあったんですね。
そのときにも、自分のポジションということについてはすごく考えました。そして、そこを意識しながら書くことによって、男性の性暴力被害の構造のあり方がより見えてきたのではないかと思っています。
西岡 私も書き始める時点から、ポジショナリティはすごく大事な観点だと考えていました。「はじめに」でも少し書いたのですが、西岡という人間がどういう立ち位置で、どういう動機でこれを書いているのかをしっかり出す必要があるんじゃないかと。書く側の動機や理由が示されなければ、それを投げかけられる側にとっては遠い問題にしか感じられないだろうし、書く側としても誠実な態度とはいえないと思ったんです。
「被害者=弱い」のイメージと「弱者嫌悪」
熱田 私がもう一つ、性暴力の問題を扱う上で大事にしないといけないと思っているのが、性暴力の研究も運動も、被害当事者が声を上げることによってこそ前に進んできた面があるということです。この本の中でも、「性暴力の歴史」の部分で日本初のセクハラ裁判などに触れられていますね。
宮﨑 さっき熱田さんが打ち合わせのときに、被害当事者たちは「闘いのゴングを鳴らしてるんだ」とおっしゃっていたんですが、とてもいい言葉だなと思いました。被害者たちは、決して弱者ではない、声をあげている時点で、社会に何かを呼びかける力強さを持っているんだ、ということを改めて思い出させられました。
熱田 第二波フェミニズムが性暴力に取り組む上で大事にしてきたのは、「被害者」ではなく「サバイバー」という言葉でした。これは「暴力を生きのびた人」という意味で、生きのびた強さを讃える意味がある。一方、今「被害者」という言葉が「守ってあげなければいけないか弱い人たち」というイメージで流布されていることは、大きな問題だと思います。
第二波フェミニズムの中でさかんに言われた「被害者の『恥』から加害者の『罪』へ」という有名なスローガンがあります。「被害者」という言葉は実は、そこには加害者がいるということを同時に示す言葉でもある。自分は「被害を受けた」と言った瞬間にその人はもう、加害者の存在を指摘して「闘っている」ということなんです。
もちろん、その闘いがどういう形になるかはまた別の話です。法廷闘争や社会運動になる場合もあれば、生きのびること自体が闘いだという場合もあるでしょう。ただ「被害を受けた」と言った時点でその人は自覚的に闘いを始めているんだという視点が、今の議論からは抜け落ちていると感じます。
西岡 以前、あるサバイバーの方が「『被害者』のイメージで接しないでほしい」とおっしゃっていたのが印象に残っています。被害者と言っても被害の内容もそれまでの歩みも、今向かれている方向もさまざまなわけで、こちらがある固定イメージを持って接してしまうと被害者の方は苦しいんじゃないかなと思うんですよね。
だから、その方の本来の姿を取り戻す、あるいはその方が望まれていることを実現するためのお手伝いを微力でもすることが、私たちの担うべき「支援」なんじゃないでしょうか。被害者の方たちの意思や思いを尊重すること、被害者の方たちを中心に考えることが何より大事だと思っています。
熱田 多くの被害者の方は、「弱い」どころかすごい怒りや恐怖のエネルギーを持っておられますよね。私もこれまで被害者の方の話を聞いていて、「弱い」なんてお門違いだなと感じさせられる場面に数多く直面しました。
西岡さんがおっしゃったような、自分を「被害者」と言ってほしくないという方も一定数いらっしゃいますが、私はそこには「弱者嫌悪」という面があるのかなと感じています。つまり、被害者に対する誤ったイメージが流布されたことで、「被害者になる」ことは惨めなことだというイメージができてしまった。それが、男性が自分の受けた性被害を言い出せないという構造にもつながっているんじゃないかと思うのです。
西岡 確かにそうだと思います。同時に考えないといけないのは、そこで「自分はそういう弱くて惨めな存在ではない」と思わなくてはいられないような空気が社会にあるんじゃないかということですよね。
怒りを感じるのは当然のことですが、自分の思いを怒りでしか表現できないとしたら、それはそれで窮屈でしんどいことかもしれない。だから、カウンセリングでも家族や友人でも、被害者が本当に感じているいろんな感情、つらかったとか悔しかったとか惨めだったとか、そういういろんな感情を安全に出せるような場があるといいのかなと思います。
宮﨑 「弱者嫌悪」という言葉は社会学的ですね。お話を聞いていて、最初に熱田さんがおっしゃった心理学との領域の違いを感じました。臨床心理学や対人援助の分野では、個人の回復プロセスのほうをもっと重視するというか、そこに心理士の存在理由があるというふうに考えることが多い気がします。
プロフィール
熱田敬子(あつた・けいこ)
大学非常勤講師、「ジェンダーと多様性をつなぐフェミニズム自主ゼミナール~ふぇみ・ゼミ」及び「ゆる・ふぇみカフェ」運営委員。専門は社会学、ジェンダー・フェミニズム研究。共著に『ハッシュタグだけじゃ始まらないー東アジアのフェミニズム・ムーブメント』(大月書店)がある。
宮﨑浩一(みやざき・ひろかず)
1988年、鹿児島県生まれ。立命館大学大学院人間科学研究科博士課程後期課程。研究テーマは男性の性被害。臨床心理士、公認心理師。
西岡真由美(にしおか・まゆみ)
1976年、佐賀県生まれ。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程研究指導認定退学。臨床心理士、公認心理師、看護師、保健師。